「秘密かもしんない」 第16章
帰りの車の中で戸浪がいきなり笑い出した。
「なに……兄ちゃん?」
「……あ、ああ……いや……何でもないよ……」
言いながらもまだ戸浪はクスクスと笑っていた。何か可笑しいことでもあったのだろうかと思い、大地は色々考えたが別に笑うような楽しい出来事はなかったずだ。
変なの……
チラと運転する戸浪を見たが、その頃にはもう表情から笑みが消えていた。
「大、それでな、うちに来るのは良いんだが、お前の部屋がない。ほら、客間は早樹兄さんが使っているし、あと書斎しかないんだが……。書斎は狭いがそこでもいいか?」
「俺は何処でもいいよ……別に長居する気はないから……」
狭い場所だろうが、大地は眠ることが出来たらそれで良いのだ。だから広い場所は必要ない。
「そうか……。それにしても大、お前あんな広い家に住んでいたんだな……兄ちゃんそっちの方が驚いたよ……。ホストはそれ程稼げるものなのか?」
そう言えば、戸浪があのマンションの中に入ったのは初めてだった。というより、大地は自分の知り合いを招待したことがないのだ。
「え、あれは、大良のお父さんがマンション丸ごと生前分与したんだ。だから今、あのマンションのオーナーが大良なんだよ。ホストだけの収入であんなの買えないって……」
「あ、なんだ……そうだったのか……」
戸浪は慌ててそう言った。
「……大良のお父さんと俺は会ったことあるけど……。俺が見た限りではいいお父さんだよ。だけど、あいつはお父さんって呼んだことない。多分片親だって事で嫌な目にあってきたかもしれないし、お母さんのこともあって複雑な気持ちがあるんだと思う……。だから俺がその事であいつに意見なんか出来ないんだよな……」
いや……それだけじゃない……
だけどそれを全部言ってしまうと今ようやく二人の仲を認めてくれている戸浪の態度はまた頑なになるに違いないのだ。
色々あったからなあ……
もう駄目だって思ったこともあった……
でもそれを何とか乗り切ってきたんだもん。
この程度の問題なんて大したことないんだ……
大地はそう思いながら持っているスポーツバッグをギュッと抱きしめた。
「確かにね……ああ、着いたよ」
車はいつの間にか駐車場に入っていた。大地はスポーツバックを持ち直し、肩に掛けると車から外に出た。そして後部座席の扉を開けると紙袋も外に出した。
「ああ、紙袋の方は私が持って上げるから……」
肩からスポーツバック、両手に紙袋を軽々と持った大地に戸浪は言った。
「いいよ……この位もてるから……」
言って大地は歩き出した。
早樹にいいるんだろうなあ……
溜息をつきながら大地は足取り重くエレベーターに戸浪と共に乗った。
マンションの扉を開けると、祐馬が慌てて走ってきた。
「戸浪ちゃんっ大変だよ……っ!」
「なんだ……騒々しい……何が大変なんだ……」
大地は荷物を玄関に置きながら二人の会話を何の気無しに聞いていた。
「それがさあ……早樹さんウサギ連れて帰って来ちゃって……」
困惑したように祐馬は頭を掻いた。
「ウサギ?」
靴を脱いでいた戸浪の顔が上がった。同時に大地の顔も上がる。
「……拾ってきたって……」
はは……と笑いながら祐馬は言った。
「……どうするんだウサギを……うちには猫がいるだろう……」
戸浪は廊下に上がりスリッパを履いた。
「それが仲良くしてるんだよ……ユウマと……」
「はあ?」
「いま二匹とも早樹兄さんの部屋にいるよ……どうしようか?」
と、祐馬が言うよりも先に戸浪は早樹のいる部屋に向かって行った。大地もその後を追った。
「早樹兄さんっ……ウサギって何ですか?」
部屋に入ると、早樹はウサギにキャットフードのような丸い餌をやっていた。毛は薄汚れ痩せた小さなウサギは、身体の大きな早樹の膝に置物のように乗っていた。その隣でユウマが不思議そうな顔をして小さなウサギを眺めていた。
「ああ戸浪。見てくれ、可哀想にこの下の駐車場に捨てられていたんだ。あんまり不憫だから連れて帰ってきた」
そのウサギは耳を早樹の膝にだらりと落とし、元気なく餌を食べている。
「早樹にい……そいつ病院に連れていったのか?」
大地は今の問題をすっかり忘れ、ウサギに近寄った。
「ああ……連れていったよ。栄養失調だが、元気だそうだ。可愛いだろう……」
嬉しそうに早樹はそう言って小さなウサギを大きな手で撫でた。
「……誰が飼うんです?うちは駄目ですよ。猫がいるんですから……」
戸浪は呆れ顔になっていた。
「おまえっ!このウサギを見て可哀想だと思わないのか?放って置いたら死んでいたんだぞ。そんなウサギを無視出来る訳ないだろうっ!」
「……じゃあ……早樹兄さんが船に乗せて飼うんですね?」
「……無理に決まっているだろう……」
早樹は肩を竦ませた。
「俺……俺飼うよ。ウサギくらいなら飼えるよ」
大地の視線はもうそのウサギに釘付けだった。
白と黒の模様のウサギはパンダのようだ。薄汚れてはいるが、綺麗に洗ってやればふわふわの毛になるだろう。
いや、洗って良いのか分からないのだが大地は兎に角綺麗にしてやりたかった。
「大……いいのか?これは結構でかくなる種類のウサギだそうだぞ……なんて言ったか忘れたが……」
早樹は大地に窺うように言った。
「いいよ……俺。でっかくなる方がいい。可愛いなあ……何か飼いたかったんだけど、きっかけが無かったから飼えなかったんだ。昔飼ってた犬のこともあってさ……」
大地は早樹の膝の上に乗っていたウサギをそっと自分の膝に乗せた。
ヴヴヴ……
鼻をピクピクさせてウサギは鳴いた。
「ウサギって鳴くんだ……」
笑顔で大地は早樹にそう言った。
「鳴くみたいだな……」
早樹も嬉しそうだった。
「……大地がそういうなら……いいが……」
戸浪は呆れたようにそう言った。その後ろで祐馬が戸浪の肩を掴んで意味ありげな顔を向けると、二人はその部屋から出ていった。
いつの間にか二人きりプラス猫一匹とウサギ一匹になった事を大地達は気が付かずにウサギの話題で盛り上がっていた。
あ……
俺……
何やってるんだろ……
チラと早樹の方を見ると、早樹の方も気が付いたのか、急に無言になった。
「……早樹にい……俺ね……早樹にいが怒る気持も分かるんだ……。戸浪にいにばれたときも……すっげー反対されたから……」
ウサギを撫でながら大地はそう言った。早樹がなにか口を挟んでくるかと思ったが、意外に大地の話を聞いているようであった。
「でさ……色々反対されて……結局は認めてくれたんだけど……。俺……出来たら早樹にいにも分かって貰いたいと思ってるんだ……。だって俺、早樹にいのこと好きだもん。俺の大事な兄ちゃんだから……」
早樹の視線は大地を見ていなかった。ひたすらウサギの方を見ている。
「あいつ……確かに早樹にいからみたら最低な男かもしれないよ。でも、本当に最低な奴だったら俺、絶対つき合わないぞ。いいところがちゃんとあるから俺はつき合ってる。あいつのことをちゃんとみて……俺は自分で決めたんだ。俺だって馬鹿じゃないから、本当に遊ばれてるんだったら分かるよ。絶対に分かる……」
遊ぶつもりでいるなら、博貴は自分の腹など刺せなかっただろう。本気だから出来たのだ。大地を守るために命をかけてくれた。そのことを大地は一生忘れないだろう。
遊びでそこまで出来るわけなどないのだ。
「……私は……」
そこまで言って早樹はまた口を閉ざした。
「詳しくは言わないけどね……。俺……あいつの実の父親の事情で色々もめたことがあったんだ。俺は事故に遭うし……あいつは……俺を守るために自分の命をかけてくれた。遊びでそこまでできるかな……そう思わない?俺……俺は真剣でもあいつと同じように出来るかどうか分からない。そのくらいあいつは俺に真剣なんだ……。その気持ち……俺はしっかりと受け止めてる」
大地が言い終えると、早樹はふうと小さな息を吐いた。
「実はね……大。私がこれほど反対するのには理由があるんだ……」
早樹は何処か遠いところを見ていた。
「なに?なんかあったの?」
まさか早樹にいも誰か男が好きだったか?
その人と上手くいかなかったとか?
「……うちの船にな……。正確に言えば私の部下だったんだが……目をかけていた男がいたんだ。気の回る男でね。性格も明るくて……何かを悩むような男に見えなかった……」
しんみりとした雰囲気が室内に漂った。
「それって……」
早樹にいの彼氏?
とは大地も聞けなかった。
「お前が言いたいことは分かるよ。だがそうじゃない。気のいい男だった。そいつが……どうも丘でつき合っている人がいたんだ……。私も偶然それを見て相手を知ったんだが……男だった。可愛い感じの男だったよ。まあ……だが、人はそれぞれだと思うことにして、私はそのことで部下に忠告はしなかった。本人はその事で仕事をおろそかにするような男じゃなかったしな。男とつき合っていることで迷惑がかかることが無かったから何も言わなかった」
そこまで言って早樹はまた小さく息を吐いた。
「ある日……航海中ずっとその男が落ち込んでいた。そんな姿を見たことが無かったから、私も理由を聞いたんだが、何も話してくれなかった。それでピンときたんだ……ああ、つき合っている相手ともめているな……ってな……。ただの痴話喧嘩だと思うようにしていたんだが……その男は次の上陸期間中に自殺をしたんだ」
「自殺?」
「ああ……遺書はなかったそうだ。報告だけが上がってきた。通夜と葬式も私たちは航海にそのまま出てしまったから行けなかった。多分それを見越して、船が出る寸前に自殺したんだろう。そう……あの男ならそこまで考える筈だ。そう思ったな……」
早樹はいつの間にか膝の上に登り、丸くなっているユウマの背を撫でていた。
「次に船が上陸したときに、私はその亡くなった男の墓に参りに行ったよ……そうしたら……以前一緒にいた男が墓の前にいてね……こう話していた。遊びだったのに馬鹿だねあんた……ってね。普通死んだ相手にそんなことを言うか?少しくらい悲しんでやれば良いだろう……それを一言で終わりだ……私はもう……頭にきてな。墓の前で殴り飛ばしてやったよ」
ユウマの背を撫でていた手を止め、じっと畳み目を見ながら早樹は言った。
「そいつの雰囲気があの大良という男と似ているから……余計に気に入らないんだ」
「兄ちゃん……」
大地は複雑だった。
「お前も騙されるんじゃないかと思って……とにかく何とかしないと……。そう思ったんだ」
「早樹にい……その騙した男と大良は違うよ……。似てるだけで同じように思ったら大良が可哀想だ……。それより……俺……思うんだけど……。その彼氏の方?もしかしたら悲しすぎて、それを誤魔化すためにそう言ったんじゃないの?だって本当に遊び人で、相手のことどうでもいいと思う男が墓参りなんか行くのかなあ……」
早樹の話を聞いて思ったのがそのことだった。本当に嫌いな相手の墓参りなど普通はしないだろう。と、言うことは事情は全く分からないが、生き残った方の彼氏の方も辛い思いをしていたに違いないのだ。そう思う方が納得できる。
「……う……」
言って早樹はチラリと大地を見るとまた視線を逸らせた。
「もしかしたらほら、早樹にいみたいな頑固な男が二人の間に入って、問題を起こしたのかもしれないぞ。俺は説得する方だけど、悩んで死のうとか思う奴だっているかもしれない」
「大っ!お前まさかっ!」
怒鳴り声を突然早樹は上げた。
「俺は自殺なんかしないよ……じゃなくて……色々障害があったのかもしれないって言ってるんだよ。似たような事あったし……その時、大良は死ななかったし、俺も助かったけど……。やっぱ男同士って大変だと思うよ……まあ……これって普通の男女でももめたら色々あるだろうけどさ……」
「分かった風に言うなっ!」
その声でユウマが「ウ~」と丸くなったまま唸った。そんなユウマに驚いた早樹が、声を小さくして言った。
「怒鳴って悪かった……」
どちらに言ったのか分からないが、何故かユウマに早樹は嫌われたくないようであった。
すごい……
一声で黙らせちゃった。
ユウマに感心しながら大地は更に言った。
「早樹にいこそ分かったように言うなよ……。俺と大良がどんな風に色々あったこと乗り越えてきたかなんて知らないだろ。俺だって色々あったよ……だけど……なんとか今までやってきたよ。逆にそんな強い弟を持ったことを、早樹にいに誇りに思って欲しいほどだ」
俺は恥じるようなことはしてない。大地にはそういう自信があったのだ。
「……私はどう言って良いのか、わからん……」
頭を掻いて早樹は言った。その声には怒りはなかった。
「聞いて良いか?」
大地は早樹に言った。
「なんだ……大……」
「さっきの話を聞いて俺思ったんだけど、早樹にいは別に男とつき合ったからといって反対したり、差別したりしない心の広い人間なんだよな」
心の広いというのを若干強く大地は言った。
「……ま……まあな……」
またユウマを撫でながら早樹は言いにくそうに言った。
「だったらさ。俺と大良とのこともそう思ってくれよ。それで、本当に大良が早樹にいのいうような男だったら……俺もけりつける。早樹にいも大良のこと殴ってもいい……ううん、俺のことも殴ってくれていい。だから兄ちゃんの言った通りだっただろって言ってくれてもいい……だから……」
じっと早樹の方を向き大地は様子を窺った。
暫く沈黙していた早樹であったが、大きな溜息を付いた。
「あの大良という男は動物好きか?」
突然早樹は意味不明のことを言った。
「何それ……?」
大地は目を見開いてその言葉の意味を考えたが分からなかった。
「だから……そのままの意味だ。動物は好きなのか?」
言って大地の膝に乗るウサギを見つめた。
あいつが……
動物を飼ったって話しも聞いたことないし……
動物が好きとか言う話しも聞いたことないな……
だけど……
「大良、すっげー動物好きだぞ。特にウサギっ!そう、もうウサギが好きでさあ~」
大地は早樹に笑顔を向けた。
「……そうか……」
早樹の視線はウサギからユウマに移った。
そしてまた暫く沈黙した後早樹は思い口を開いた。
「勝手にしろ……」
「え?」
「だから……勝手にしろと言ってるんだ」
大地の方は見ず、早樹はせわしなくユウマの背を撫でた。
これって……
なんだか戸浪にいと似てるよな……
兄弟って似てるのかな……
と、大地は思いながら今聞いた早樹の言葉が本当なのかもう一度聞いた。
「いいの?」
「あの男の過去をお前に見せても大は信じない。それに、何をどう言って私が反対しても大は頑なになって反発するだけだ。なら、可哀想だが、自分で本当のことを知るしかないだろう……。ただそう思っただけだ……」
早樹は仕方ないという口調でそう言った。もちろんあれだけ反対して置きながら、今更いいとは言えないのだろう。いや、もしかすると本当に言葉そのままの意味かもしれない。
だがどちらであっても、早樹はとりあえず認めてくれたのだ。そう思うと大地は嬉しかった。
「早樹にい……ありがとう……」
胸が一杯だった。
「私は……許した訳じゃない。お前が諦めないから自分で馬鹿なことをしていると理解するまで、誰が何を言っても、どうにもならないと言いたかっただけだ……」
これが早樹なりの納得の仕方なのだろう。だが大地にはそれで充分だった。
「うん……俺……父さんに似て頑固だから……」
目元を擦りながら大地はそう言った。そこに祐馬が入ってきた。
「……あのう……夕飯出来たんですけど、そろそろ良いですか?」
「あ、ああ……分かった」
早樹はユウマを膝から下ろすと立ち上がった。
「それと……これ、籠にタオル敷いたんですけど、ウサギの寝床に間に合いますか?」
祐馬は小さな籠を早樹に手渡した。
「済まない……君のうちなのに迷惑をかける……」
「いえ……そんな……気にしないで下さい。じゃあ、リビングの方に来て下さいね」
祐馬はそれだけ言って出ていった。
大地は今の光景を見て事態はかなり好転しているように思えた。
じっと見ていると、早樹は祐馬から渡された籠を持ち、大地の膝に乗っているウサギをそっと両手で掴むと、タオルの上に乗せた。ウサギは鼻をピクピクさせて小さな瞳で早樹の方を見ている。
早樹にいってほんっと小さい生き物を見ると放っておけない性格なんだよな……。
そんな早樹が大地は好きだった。
「あの……三崎という男のことだが……似てるんだ……自殺した男にな……」
ぽつりと早樹はそう言った。だが背を向けてしまった早樹がどんな顔をして今の言葉を言ったのか、大地には分からなかった。
久しぶりに兄弟三人で楽しく食事をすることが出来た。それが済むと早樹はバスルームに向かった。
「大地君、何があって、仲良くなっちゃったんだい?」
それはあんたもだろう……と思いながら大地はとりあえず笑った。
「ちゃんと話し合ったら分かってくれたんだよな……早樹にいも別に頭が固い訳じゃないんだ。きちんと話をすれば分かってくれるって事だよ」
「……そうなんだ……」
苦笑しながら祐馬は言った。
「大、洗い物手伝ってくれ」
戸浪がキッチンからそう叫ぶので大地は戸浪の元に向かった。
「お前どんな話をして早樹兄さんを納得させたんだ……」
泡だらけの手を振りながら戸浪はこちらを見ていた。
「別に納得なんかしてくれなかったよ……」
はははと笑って大地は机に置いてあるタオルを取り、戸浪が洗い終わった皿を拭き、早樹とどういう話をしたか戸浪に話して聞かせた。
「……早樹兄さんにそんな事があったなんてな……。兄という立場以上に反対するのも分かるな……」
大地が拭き終わった皿を食器棚に並べていた。
「多分……あの時反対していたらって思ってるんだと思う……。早樹にいは悪くないのに自分の所為にしてるのかもしれない。そういう兄ちゃんだし……」
兄の早樹はそういうところがあるのだ。それが分かるように戸浪の膝のことも、自分がその時実家におり、一緒であったのならあんな事にならなかったのだと未だに思っているのだ。
それを大地も戸浪も知っている。
「そうだと思うよ……。それより大、ウサギのことなんだが……」
皿を片づけ終わった戸浪は食器棚の扉を閉めて椅子に座った。
「え、うん。良いよ。俺が面倒見るんだ。ずっと何か飼いたかったんだ。特に戸浪にいの飼っている猫を見てからずっと何か飼いたかったんだよな……。きっかけ無くて俺は飼えなかったけど……。ウサギ、可愛いじゃん」
戸浪の前の席に大地はニコニコしながら腰を下ろした。
「大良さんが動物好きには見えないんだが……」
うーんと唸って戸浪は言った。確かに大地もそう思うが、あの場合飼うとしか言えないだろう。
「早樹にいに頼まれたって言えばあいつも嫌だって言えないだろうからな。だって、早樹にいって動物好きな人間に悪い奴はいないって信じてるんだもん。これで大良が飼うって言ったら完璧なんだけどね。もしあいつが嫌だって言ったら俺、あいつを殴ってやる」
拳を振り上げながら大地は笑った。
「……まあ……お前が良いというなら……。うちも猫がいるからね……飼ってやりたくても二匹は無理だったんだ。だからお前が飼ってくれると言ってホッとしたというのが正直なところだよ……」
苦笑いに近いものを表情に浮かべ、戸浪は言った。
「……で、あのさあ……例のその……早樹にいが調べた興信所の書類なんだけど……」
「見たいなら出してくるが……?」
戸浪がそう言って立ち上がるのを大地は止めた。
「まだ……いい。なんか早樹にいと話したことをさ……なんて言うか……自分の中できちんと消化できてから……っていうのか?落ち着いてから見たい。明日でも良いかな……」
大地の言葉に戸浪は口元に笑みを浮かべ、頷いた。
「大地は本当に大人になった……」
戸浪は満足げにそう言った。
「実はさあ、俺、あのウサギの名前考える事で頭一杯なんだよなあ……」
そう言って笑う大地の顔を見た戸浪は、先程の言葉は撤回だという溜息を付いていた事を大地は気付かなかった。
目が覚めるといつも側にいるはずの大地姿はない。ここ数日そんな毎日を博貴は過ごしていた。
ぼんやりと広いベッドの上で目だけをうっすら開け、博貴は天井を眺めていた。本日はアルバイトの仕事もない為暇だったのだ。
「はあ……」
遮光性のカーテンに覆われた部屋は外からの太陽の光を完全にシャットアウトしている。その所為で寝室は薄暗かった。
一日でもここでゴロゴロしてそうだな……
薄く開けていた瞳を閉じ、博貴はベッドに深く沈み込んだ。
大地……
帰って来るつもりはないのかい……?
大地から連絡など全く入る気配がないのだ。それはそのまま博貴の不安に繋がっている。
ごそごそと身体を横に向け、毛布を引き上げたところでインターフォンが鳴らされた。その瞬間、博貴は目を開き、ベッドから下りると玄関にあるモニターまで走った。
大地だ……
きっと大地に違いない……
博貴は胸を躍らせてモニターを見るとそこに映し出されたのは真喜子の姿だった。
「光ちゃん~遊びに来たわよ~大ちゃんいる?」
何も知らない真喜子はそう言ってニコニコとしていた。
「……あ、大地はいないけど……。いいよ……」
がっくりと肩を落とし、博貴はキーを持ってパジャマ姿で一階まで下りた。
「なあに……光ちゃん、もう日は高いのにまだそんな格好してるの?」
珍しく真喜子はピッタリとしたジーパンに千鳥柄のシャツを着ていた。それは袖のないタイプの胸元が危ないところまで開いているものだった。
髪の方はパレットで止められ、耳の所に幾筋か後れ毛を垂らしていた。両手にはなにやら紙袋を持っている。
「ああ……最近はこんな感じかな……」
欠伸をしながら博貴は首を掻いた。こちらの着ているものはシルクのパジャマで、薄い黄緑色をしている。独特の光沢が柔らかな布地から放なたれていた。
それでもこれはパジャマなのだ。
「やだあ……おっさんくさいわよ……。嫌だわ……落ち着いてしまったカップルの末路って感じね」
本当に嫌そうな顔を真喜子はした。
「はは……まあ……ね。ちょっと事情は違うんだけどねえ……」
苦笑しながら博貴は真喜子を自分のうちへ案内した。
「へえ……すごいじゃない……こんな愛の巣だったら騙されて住んじゃうわよ……」
玄関から中を見渡し、真喜子は感嘆の溜息を付いた。
「騙されてって……騙してないよ……」
ああ……
誰もがそう思うのだろうか……
博貴は今の状態で真喜子の冗談を笑うことが出来なかった。
「……で、大ちゃんいないのね」
リビングに案内している博貴の後ろから真喜子は言った。
「そうなんだ。ちょっとね……」
「……また何かあったの?」
またって……
そんなに色々ある訳じゃないだろうと思ったが博貴は何も言わなかった。
「う~ん……、ま、座って。何か飲み物でも入れるよ」
苦笑しながら博貴はオープンになっているキッチンに入ると食器棚からグラスを二つ取り出し、冷蔵庫からお茶のボトルを出すと、それに注いだ。
「何にもないけどね……」
言ってローテーブルの上にコースターを置き、お茶を入れたグラスを置いた。
「あ、これ。大ちゃんに返して置いてくれる?この間たくさん漬け物貰ったんだけど、それを入れていた入れ物を返しに来たの。でも本当は大ちゃんがいたらまたこれに一杯入れて貰おうって思ったんだけど……いないんだ……」
残念そうに真喜子は言った。
「悪いね……」
顔にかかる長い髪を後ろでパレットでとめながら博貴は言った。
「……それで、何、今度は何があったのかしらねえ……」
チラリと真喜子は博貴を見て意味ありげに笑った。
「……はは……大ちゃんがいないとすぐにそれだなあ……」
「それしかないでしょ」
めっ……という言葉を最後に付けて真喜子は言った。
「……はい……そうです。真喜子さんにはかなわないよ……」
はあ……と何度目か分からない溜息を博貴はついた。
「それで、どういう貴方の悪事がばれたの?」
え……?
真喜子は何処まで知っているのだ……
「何か大ちゃんから聞いてるのかい?」
「大したことじゃないわ。漬け物貰ったときに少し話をしただけよ」
にっこりと笑って真喜子は言った。
「何を話したんだい?二人でこそこそしているのはフェアじゃないと思うけど……私のことだろう?」
博貴がそういうと真喜子はムッとした顔で言った。
「なあにがフェアじゃないよ。あなたこそ、またこそこそしてるんじゃないの?それにね、人から何か情報を貰おうと思うんだったら、まず自分のことを話して貰わないと……」
「……真喜子さん~長い付き合いだろう?そう意地悪しないで貰いたいんだけど……」
肩をすくめて博貴は言った。
「意地悪なのは貴方でしょう。同じにしないで頂戴」
キッパリと真喜子は言った。
この姉御肌の真喜子には博貴も頭が上がらないのだ。
「はい……そうでした……。で、やっぱり大ちゃんから何か相談事を受けたんだ……」
チラと真喜子を見ると、また笑顔を返された。
あの顔は肯定という意味だろう。
はあ……
自分のことを話さないと絶対に話してくれないな……
博貴はそう思い、仕方無しに真喜子に話すことにした。
「実はね……」
そうして博貴が話し終えた後、真喜子は一言言った。
「馬鹿ねえ……光ちゃんって……」
それは呆れていると言った方が良かった。