「秘密かもしんない」 第7章
俺……
受け止めてやらなきゃ駄目かもしれない?
「博貴……俺……」
大地が言うと、博貴は急に笑い出した。
「って……言ったら大地どうする?」
「……はあ?」
「冗談だよ……」
笑顔のまま博貴はこちらの頬に軽くキスをしてきた。だが大地には先程博貴が言った言葉が冗談だったとは思えなかった。
あれは……
本気だった……
絶対……
身体で感じた違和感は、博貴の行動そのままが言葉に表されていたのだ。それくらい大地にも分かる。
「冗談だよ……大地……」
繰り返して言う言葉がやけに作ったように耳に聞こえてくる。
「……お前が……そうしたかったら良いぞ……俺……」
聞いてやれない罪悪感か、自分も今考えている事を一瞬でも忘れたいと思っているのか大地にも分からなかったが、過去に一度正体を無くした博貴を受け止めている。だからこんな博貴を受け入れることだって出来るのだ。
今きっと博貴は大地に感情をぶつけたいと思っているのかもしれない。いや、そうなのだろう。大地は博貴が話したいと思っていたことを受け止められないと考えて拒否してしまったからだ。言葉に出来なかったものをそのまま行動に乗せてしまっても仕方がないはずだ。
聞けなかったけど……
これなら出来る……
「……だからね……冗談……」
言って博貴は先程とは違い、緩やかな動きで腰を動かした。
「……っあ……嘘……つくなよっ……ん……」
言葉を途中で掬われ、そのまま口を塞がれた。そのキスは大地に苦い痼りを残す。
もう少し……
もう少しだけ待ってくれよ……
俺……
ちゃんと聞いてあげられるように自分の気持ちに整理を付けるから……
恐いなんて言ったら駄目なんだよな……
博貴だって……
自分のこと何もかも話したい相手……
欲しいもんな……
それって普通恋人だよな……
恋人だから話したいんだよな……
大切なこと、俺……忘れてた。
ごめんな……
そう心に決めると大地は両手を博貴の背に回し、博貴からもたらされる快感にようやく全てを任せることができた。
眠っている大地を間近に、博貴はそっと大地の額にかかる髪をかき上げた。汗ばんで湿っている前髪は、いつものサラリとした感触はない。
……全く……
何を考えているんだ……私は……
大地をもう少しで傷つけてしまっていた事に深い自己嫌悪に苛まれながら、博貴は何度も大地の髪をかき上げた。
二十歳も過ぎていない大地に話して理解して貰おうという方が間違っているのだ。それは分かっているのだが、全部話してしまいたいという欲求が博貴にはあるのだ。今まで心の何処かに引っかかっていたものを吐き出してしまう先が欲しかったのかもしれない。その上で、まだ大地が側にいてくれたら、もっと安心できる付き合いが出来ると思ったのだ。そこまで話してしまえば、自分自身の問題で恐いものが無くなる。ただそれだけで、大地に聞いて欲しいと思った。
だが大地の答えは拒否だった。
当然だろう……
当然だ。
何処の誰が過去の女性関係を聞きたいと思うだろうか?
それでも大地はいつかは聞いてくれると約束してくれた。多分いつかだから「うん」……と、言ってくれたに違いない。
いつかは、いずれではない。言葉そのままだ。このままうやむやにしてしまいたいと思っているのだろう。
その方がいいかもしれない……
だがこれから先、同じような問題が出たとすると、大地はその度に博貴に不信感を抱いていくはずだ。いずれそれらが蓄積され、最後にはどうにもならない溝が出来そうで恐い。既に分かっていることでもめるのと、何も知らない事でもめるのとでは心の受け取り方が違う。
だから大地に知っていて貰いたかった。
今傷つけてしまったとしても、後のことを考えると、知って貰っていた方が良いと思ったのだ。
仕方ないねえ……
博貴は大地の額に向けていた手を離し、今度は自分の髪をかき上げた。
聞いて貰えないからと言って、急に不安になったのは博貴自身だった。もう少しで暴走しそうな自分をようやく抑えることが出来たのは、博貴に対する不信感を大地の瞳の奥に見たからだ。
馬鹿だねえ……
子供みたいな事をしてしまって……
ベッドに座り込み小さく溜息をつくと、もう一度大地の寝顔を見る。今は先程の事など何もなかったように、無邪気な寝顔の大地が横たわっていた。
可愛いな……
大地は本当に可愛い……
大地は暴走しようとした博貴を受け入れようとしたのだ。一度自分を見失っているときに大地を欲望のままに抱いたことはあったが、あの時も大地は受け入れることを選んでくれた。
気持ちの優しい子だ……
本当に……
以前の経験があり、二度とあんな風に大地を扱わないと博貴は決めていた。それがもう少しで同じ事をしようとした自分はまだまだ大人になれないところがあるのかもしれない。
大人……ね……
いくつになったら大人というんだろう……
二十歳そこそこでホストになった当時は、働いていることで自分が大人なのだと思った。だが年齢を経ていくうちに自分が大人であるとは思えなくなった。特に大地に出会ってからの自分は信じられないほど子供っぽい嫉妬をする自分に気が付いたのだ。
まあ……
そういう態度は見せないが……
大地はそんな博貴のことなど知らないだろう。七つも年上の男が、二十歳も満たない恋人を自分に縛っておくにはどうしたらいいかと日々考えている事など知らないはずだ。
滑稽だな……私は……
実は大地に振りまわされているのは博貴の方に違いない。
そこまで考え博貴は小さな笑いが漏れた。大地にその声が聞こえたのか、横向きに両手を前に伸ばして眠っていた身体を丸めるように身体が前屈みになる。すると大地のそれほど大きくない体が益々小さくなる。
本人はこれから身長が伸びるのだと言い張っているのだが、どう見てもこれ以上は無理だろう。言うと大地が真っ赤な顔をして怒るため、博貴は口に出して言わないが、出会ってからずっと身長を観察していた博貴は、少しも伸びない大地の身長にそう判断を下した。
だが大地自身は毎日牛乳を飲んで身長が伸びてくれるのを待っている。食事内容もそれを意識しているのか、小魚を揚げ丸ごと食べられるような調理方法や、ホウレンソウのピーナツ和えのお浸しが出たりと、なにやらカルシウムが大量に取れそうなメニューになっている。
そんなに身長が伸びても良いことはないんだけどねえ……
歩いていても人のつむじしか見えないよ……
まあ……大地のつむじは可愛いから何時までも見ていられるけどね……
本当に……
私は今のままで良いんだ……大地……
抱きしめるとすっぽり腕の中に入ってしまう大地が博貴には愛しい。
まあ……
私を越えることはないと思うけど……
越えたら越えたで、襲ってあげる……
自分で考えたことに笑いを堪えながら博貴は大地の隣りに寄り添うように横になると、眠っている大地の顔をじっと見つめ、今度は身体のあちこちを撫で上げた。
色々不安材料はある。だが博貴は大地を手放す気などこれっぽっちも無かった。例え何かの拍子に昔のことが一切合切ばれたとしても、この手の中から解放してやる気は無かった。
私に出会ったことが……
そもそも間違いだったんだよ……
出会ってしまったから……
君を知ってしまったから……
誰にも渡すつもりはない。
誰にも君を連れて行かせる気もない。
覚悟してもらうよ……
そんな風に考えている博貴のことなどこれっぽっちも知らず、大地は眠り続けていた。
暫く日勤の続いた大地は、何時もと変わりなく勤務していた。博貴との関係も何時も通りだ。別段何か引っかかるような態度はもう博貴からは見られない。だから大地も気にしないようにしていた。ビデオの件もとりあえずあれ以来何もない。
忘れて良いのだろう。
そうすることで大地は気持ちを切り替えているのだ。
兄の早樹から連絡が一度もなかった。気がかりになった大地は昨日の晩、戸浪に連絡を取ったのだが、戸浪が言うには、昼間は一人で東京見物をしているということだった。
今更何処を見物しているのか分からないのだが、早樹が大人しくしてくれているのならそれで良かった。
この上陸休暇の間に、早樹にも会いたい友人がいるだろうとも思っていた。上手くすると彼女でも出来るんじゃないかと、無理な期待まで大地は抱いていた。
チラリと時計を眺め、もうすぐ六時になるのが見える。日勤の場合六時で勤務は終わりなのだ。
警備と言っても普段は本当に毎日が単調である。事件はそう滅多にないのだ。だから気も緩み、時折起こる強盗や、暴漢に簡単にやられてしまうのも、この日々単調な毎日の所為で咄嗟の判断が鈍るのだろう。
だが大地は元々この単調に慣れている。実家にいたときも毎日単調な空手の練習をしてきたのだ。気が緩みそうになると、父親の平手が飛んできたため、逆に単調だからと言って気を抜けないという慣れを大地は持っていたのだ。
そう思うと……
やっぱ父さんから、学んだことって大きいんだよなあ……
今更ながらに大地は父親に感謝していた。
両親に、そして兄弟に恵まれた。真っ直ぐ歪まずに育つことが出来たのも温かい家族があったからだ。
だけど俺は今、博貴の家族でもあるもんな……
だから俺……
ちゃんと頑張るからな……
今日の夕方、真喜子に会う約束をしていたのだ。今の自分を納得させるためには、真喜子にアドバイスして貰うのが一番だと思ったからだ。
俺……
博貴の話を聞いてやるんだっ!
俺がしっかりしないと……。
どんな過去を聞かされても受け止められるようにする。
それで博貴がホッと出来るなら……
聞いて落ち込んだとしても、過去なんだし……
何より俺は博貴の恋人なんだ。
良く言うよな……
恋人の過去なんか気にしちゃん駄目だって……
そうなんだよ……
気にしちゃ駄目なんだよ。
後は根性を付けるだけ。
大地の決心は固かった。
「澤村君、時間だよ。上がって良いよ」
モニターを見ていた同僚がそう言ってくれたので、大地は「じゃあまた明日」といってロッカールームに向かった。
久しぶりだよなあ……
真喜子さんに会うの……
何か持っていきましょうかと電話で聞けば、大ちゃんの漬け物と言うので、なんだかこんなもので良いのかと思いつつも袋一杯に持ってきた。
でもなあ……
漬け物付けてる男って……
なんか情けないよなあ……
一人で苦笑いしながらロッカーで服を着替え、大地は持ってきた漬け物の入った紙袋を持ってビルを後にした。
待ち合わせは池袋の駅前ホテルの一階にある喫茶店だった。流石に真喜子が指定してきただけあり、ちょっと一人では入るのが戸惑うような豪華な喫茶店だった。
おずおずと入ると大地は直ぐに真喜子を見つけた。窓側の席ではなく、奥まった場所にぽつりとある席に座って、こちらに向かって手を振っていた。
「今晩は大ちゃん。久しぶりね」
そう言って笑う真喜子は相変わらず美しかった。髪をアップし、細い首を強調した髪型は、小さな顔を引き立てていた。目も唇も薄化粧された顔は、男であったら誰もが振り返るだろう。
普段店で着ている服装ではなく、大地に会うと言うためか、やや大人しいベージュのスーツを着ているのだが、身体のラインピッタリに着こなされたスーツはとても色っぽかった。
やっぱり綺麗だよなあ……
真喜子さんって……
「今日は済みません……無理にお願いして……」
「うふふ……いいの。大ちゃんにそろそろ会いたかったから……」
言って真喜子は綺麗にネイルされた指を組んだ。
「そろそろ会いたかった……って?」
博貴から何か聞いていたのだろうか?
相談うけてた?
「……まあとにかく座って座って……」
真喜子に促されるまま大地は前の席に腰をかけた。
「あの……大良から何か聞いてます?」
そう大地が尋ねるように聞くと、真喜子は驚いた顔で言った。
「何のこと?光ちゃんから何も聞いていないわよ……。やだあ……私に会いたかったんじゃなくて、光ちゃんともめてるの?」
クスクスと笑いながら真喜子はじっとこちらを見ていた。
「え、別にもめてるわけじゃないんだけど……」
視線をやや真喜子から逸らせてそう言った。
「……何時も言ってるけど、光ちゃんと私は確かに付き合いが長いわよ。でもね、光ちゃんから相談を受けることはまあ滅多にないわね。たまに会っても二人で雑談して飲んでるだけよ。ちっとも色っぽい話しにもならないし……誘ってくれることもないわ。面白くないわね」
真喜子はそう言って先程頼んだらしい紅茶のカップを持った。その仕草はとても優雅だ。
「……そ、そうだったよな……」
大地は先程言ったことを誤魔化すように笑った。
「……と言うことは……またもめてるの?あんまり光ちゃんともめるんだったら、藤城さんにしたら?あの人ならもっと大人だから、大ちゃんともめることないと思うわよ」
ニヤニヤと笑いを口元に浮かべて真喜子はからかい口調で言った。
それは本気で言っているわけでないことを大地には分かっていた。
「……だからその……もめてるわけじゃないんだ……。真喜子さんに聞きたいことがあって……」
やはり視線をあちこち飛ばしながら真喜子の方を見られずに大地はそう言った。
「私に?何でも聞いてちょうだい。初体験が何時だったかも答えてあげるわよ」
真喜子は何故か胸を張ってそう言った。
「……そっ……そんなの聞きませんっ!」
からかわれているのが分かっているのだが、真喜子に言われたことで大地は顔が真っ赤になった。
「んも~大ちゃんってほんと可愛いわねえ……。光ちゃんが嫌なら私の所に来ない?養ってあげるわよ」
「も~からかわないで下さいっ!……あの……それで相談なんですけど……」
チラと目線を上げ、真喜子を見ると、ニッコリとした笑みでこちらを見ていた。
「良いわよ。何でも乗ってあげる」
「大良って……その……あいつの昔っていうか……俺が知らない頃の大良って……俺がもし聞いたとすると、軽蔑しそうな事ばっかりやってました?」
大地が小さな声でそういうと、真喜子は目を丸くさせた。
「大ちゃん。私、貴方に何を聞かれても教えてあげるけど、それは光ちゃんに聞くべき事よね。それは反則って言うのよ」
言い聞かせるように真喜子はそう言った。その為、変に誤解されたくなかった大地は真喜子に今までの事を話した。
不思議と真喜子には何でも話せるのだ。彼女にはそういう雰囲気が元々あるからかもしれない。
大地が言ったことを聞き終えた真喜子は、真剣な表情で言った。
「大ちゃん、以前私に言ってくれたわね。好きだった人に私が振られたって話をして……大ちゃんは怒ってくれたわ……過去は過去だって……そう言ってくれた気持ちは今はないの?ないのなら私ものすごく悲しいわ……」
「……あ、その……俺そう思ってるんです。だけど……俺の知らない世界の話しだし……俺……思っていてもちゃんと博貴の話を聞けるかどうか想像が付かないんです。それに……俺……受け止められるかどうか分からないんだ……。だからその根性が欲しくて……真喜子さんに何か良い方法を授けて貰おうって……」
「方法……って言われても……。所詮今の光ちゃんを信じてあげられるか、信じられないかどちらかでしょう?だって大ちゃん。過去は過去で今更どうにもならないことだもの……。私は光ちゃんがどういう生き方を信条としているのか把握できないけどね。一緒に暮らしている大ちゃんなら良く分かっているはずよね。例えば光ちゃんの過去を聞かされたとしても、今光ちゃんの何を見ているかで大ちゃんの考え方が決まると思うんだけど……」
相変わらずクスクスと笑いながら真喜子は言った。
「……分かってるんだけど……俺……すごく恐いんだ……。あいつがもう信じられないくらい酷いやり方で女騙してたりとか……そんなの聞かされたら……俺……例え過去だったとしても軽蔑しそうで……」
大地は本音を漏らした。
「……大ちゃんはね。正直者で、真っ直ぐで……純粋よ。私そんな大ちゃんが好き。私はそんな風になれないから余計に羨ましいと思うのかな……。でもね、真っ直ぐすぎて物事の片面だけを見るのは、ただの思いこみっていう奴ね。分かるかな……。例えば、光ちゃんが酷いやり方で女の人を捨てたりしたとして、それが全て光ちゃんの所為だと思うのは間違いだと思うの。だって大ちゃん、大ちゃんは相手の女性を知らないのよ。もしかしたら向こうは分かっていてはまってしまったことも考えられるし、逆に、光ちゃんを追いつめたかもしれない。こういうことはとてもデリケートなの。恋愛問題のこじれって、どちらがより悪いとかはっきりと決めつけられないのよ。私から言わせて貰うと、ホストに真剣になった女性の方にも問題があるって言いたいけど……。大ちゃんはそういう経験がないから理解し辛いかなあ……」
組んだ両手を何度も組み替えながら真喜子は言った。
ホストに真剣になった女性にも問題がって……
その言葉すらもう大地には理解を越えているのだ。ホストに真剣になったら駄目なのだろうか?それは現在の大地を表している。
「あ、大ちゃんの事じゃないわよ。ほら、店でお客とホストという関係で出会った場合の話しね。遊びなれた女性はその場のホストの言葉なんて信用しないで、楽しむだけを目的にしているけど、分からない人もいるわけ。ちょっとした優しさをそのまま「私をきっと好きなんだわ~」なんて思いこむ人もやっぱりいるのよね。そうなるとつきまとったりして、私生活にまで踏み込んでくる人もいるのよ。で、冷たくあしらったら被害妄想に取りつかれたりね。私もあったわよ。私の場合警察沙汰まで行ったわ……お客さんが何人かストーカーになっちゃって……」
困ったような顔で真喜子は言った。
「……そうなんだ……」
だが大地は複雑だった。
「大ちゃん。男女の関係ってほんと複雑なの。もちろん恋愛全般にそれは言えるけど……大ちゃんと光ちゃんだってきっと複雑な恋愛してるかもしれないしね。それは私には分からないけど、光ちゃんはいい人よ。色々あったかもしれないけど、今大ちゃんのように素直な子が信じても決して裏切ったりしないわ。だって光ちゃんの方が絶対大ちゃんに惚れてるもの……」
満面の笑みで真喜子は言った。
「うん……分かる……分かってるそれは……」
「光ちゃんの過去なんてまだ可愛いものよ。もっと嫌なホストを私は見てきたもの。もちろん、全面的にいい人って言い切れないでしょうけどね。だって女性を立てて幾ら儲けられるの世界だもの……。そんなところでトップにいた人が胸を張って過去を話せるわけないでしょう。大ちゃんだって分かっている筈よ」
真喜子が諭すような口調でそういうと、大地は小さく頷いた。
知ってる……
ホストってどういう仕事なのか……
あいつだけは別という考えは間違っている……
いい人だけではやっていけないのも分かる。
そんな毎日を博貴は誰のために続けてきたのか、大地は知っていた。
「誰だって……大ちゃんみたいに大きくなりたいわ……でも……そんな風に育つことが出来ない環境にいた人はみんな悪い人になっちゃうのかな?でしょ?」
俯いている大地の顔を下から覗き込むように真喜子は言った。
「俺が怖いのは……あいつを軽蔑しそうで怖いんだ……俺……好きなのに……好きな相手を一瞬でも軽蔑するのが嫌だ……」
両手を膝に置き、ギュッと拳を作って大地は言った。すると真喜子が急に楽しそうに笑い出した。
「いいじゃない。軽蔑してあげたらいいのよ。あははははおかしい~。お前ってなんて酷い男なんだっ!っていってやればいいの。そうしたらもっと大ちゃんのこと光ちゃんは大事にするわよ」
その真喜子の言葉に驚いた大地の顔が上がった。
「……いいのよって……真喜子さんなんか変……」
「だって本当の事じゃない。嫌な奴……最低って言ってあげれば?その方が光ちゃんも安心するわよ……逆に分かったような顔をされる方が、何だか哀れまれたみたいで私は嫌だわ……」
片手を左右に振って真喜子は嫌な顔を作って見せた。
「そうなの……?」
「そうそう、散々怒鳴ってやったらいいじゃない。大ちゃんが思うように怒ってもいいし、泣いても良いし……その方が大ちゃんらしいわ……。あんまりむかつくこと言うんだったら一週間でも一ヶ月でも口をきいてやらなきゃいいのよ。大ちゃんがその時思ったように行動すればいいじゃない。そうやって……最後に許してあげてね」
真喜子はそう言って何とも言えない笑みを浮かべた。それは大地には経験したことのない人生の深みを見たことがあるために浮かべられる笑みなのだろう。
「……そっか……腹が立ったら殴ったら良いんだ……」
それが自分らしいと大地は思った。
多分何を聞かされても分かれるとは考えないだろう。ただ、博貴を軽蔑するかもしれない。その上、腹を立てて酷い言葉を投げつけるかもしれない。そんな自分を想像するのが嫌だった。多分そうなるだろうと分かっていたから聞けなかった。その事で博貴がショックを受けるのではないかと恐れたのだ。
だが恐れているのは大地も同じなのだ。だったら、自分が感じたままを博貴にぶつけたらいい。
「殴っちゃえ!ぼこぼこにしてやるといいのよ。少しは反省するわ光ちゃんもね。でもそれでも喜ぶんだろうなあ……光ちゃん。だって相手は大ちゃんなんだもん。マゾって言ってやろうかしら……」
うーんと唸って真喜子は言った。それは真剣に考えている様子であった。
「真喜子さんに聞いて貰って良かった……」
ずっと悩んでいたものがようやく解れたような気がしたのだ。
「何でも聞いて頂戴。私で良かったら何でも聞いてあげるわ」
ニコニコと笑いながら真喜子はそう言った。
「うん……俺……良い友達が居て、良かった……ありがとう真喜子さん……」
大地が心の底からそういうと、真喜子は珍しく照れていた。
「やだわ……この子ったら……。お姉さん年甲斐もなく照れちゃうじゃないの……。この報酬は漬け物よっ!持ってきてくれた?」
「あ、一杯持ってきたよ。色々あるから適当に詰めてきたけど……。そんな美味しくないと思うけど……。いいのかな……」
言いながら大地は漬け物の一杯入った紙袋を机に置いた。真喜子はその袋に顔を寄せてくんくんと匂っていた。
「ああ……美味しそうな漬け物の香りがするわ~嬉しい~これで又男を何人か落とせるわ」
冗談なのか本気なのか分からない口調で真喜子はそう言って、笑った。
まあ……
良いけど……
そこに大地の携帯が鳴った。
「あ、ごめん……いい?」
ポケットを探って大地は携帯を取り出した。
「良いわよ。どう~ぞ」
真喜子の視線は相変わらず袋に入っている漬け物に注がれていた。それを見ながら大地は携帯を耳に当てると、早樹からだった。
「あ……早樹にい……なに?」
「今から会えないか?」
そう言った早樹の声は怒りを押し殺しているように聞こえた。