Angel Sugar

「血の桎梏―策略―」 第5章

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 ラシャは殺しをやめると約束してくれた。なのにどうしてまだライの知らないところでこっそりと続けているのか。それを問いただしたいのだが、喉元まで迫り上がっている言葉がどうしても口にすることができない。
 漆黒の髪に、光を通さない深い闇をもつ瞳。感情の揺らぎを見せない冷えた表情は、気さくに声をかけることを躊躇させる。ラシャが何を考えているのか、今もライには分からないし、想像もつかない。だからといって、何の答えも得られない、殺伐とした景色しか広がらない、ラシャの心のありかをもう一度探る気にもなれなかった。
「まだ何か用があるのか?」
 頬に触れていた指先が離れていく。けれどラシャの冷えた瞳はライを見つめていた。
「え……あ、別に……じゃあ、俺、食事の用意をするよ……」
 ライは無理やり笑顔を作ると、ラシャの視線から逃れるように背を向けた。今はとても言えそうにないことを、ラシャを目の前にして、悟ってしまったのだ。
 いつだってラシャの方が立場的に優位にある。もちろん、余程ライが頭に来ているときは、無謀にもラシャに怒鳴りつけてしまうのだが、今はそんな状態ではない。ライはラシャに視線を向けられるだけで、蛇に睨まれたカエルのように身体が硬直し、言葉を失う。
 もっと俺、根性をつけないと駄目だ……。
 ため息をつきつつ、ライはキッチンに立った。



 翌日、ライは顔の形を変える薄いフィルムを顔に張り付け、深く帽子を被り、マンションを後にした。少しばかり変装をしているのは理由があって、現在、ライは失踪者として登録をされているだろうと予想されたからだ。
 街中あちこちに設置されている監視カメラは、日々増え続ける犯罪者やそれに伴う行方不明者などの情報とアクセスできるようになっていて、通りを歩く人々の顔と、データの照合を休むことなく行っている。ライも同じように登録されているだろう。だから変装を余儀なくされているのだ。
 今は薬のおかげで、酷い耳鳴りは治まっていた。この間に元古巣にライは戻らなければならない。
 ライはエレベータの軽い浮遊感に身を任せながら目を閉じて、息を吐いた。
 うちから出ようとするライをラシャは止めることも、また声をかけることもなかった。ラシャが何も言わずにライをうちからすんなり出したことに驚いている。普通なら、自分の素顔を知るライを、どんな理由があったとしても、外には出さないだろう。けれど、そういったことにすら興味がないのか、ラシャはいつもどおり朝食を摂ると、さっさと自室に籠もってしまった。
 ライは自分の気持ちも分からなくなっていた。
 ラシャに声をかけてもらえなかったことが、少しばかり寂しいと感じている。これはどういう気持ちから、くるのだろうか。
 分からないな……。
 ライはうっすらと目を開け、近づく地上をぼんやりと眺めた。
 昨晩もさんざん喘がされたライは、くたくたで、始終眠気に襲われる。それでも今日はライが所属していた機関に戻らなければならない。
 本当はもう戻りたくなかったのだ。
 何もかも投げ出してどこかへ逃げたかったときに、ラシャに出会ったことが理由だろう。あのとき持っていた希望をすべて叶えてくれたのがラシャという存在だからだ。もっとも、セックスの捌け口にされるというオプションがついていたが。それでも、ライは今の生活に満足していた。
「ねえ、どうやって帰るつもり?」
 肩に乗っていたリーガが声をかけてきた。
 どうしても途中までついていくと言って聞かなかったから、仕方なしにリーガを連れてきた。
「この場所がどこか確認してから、ハイヤーを使うか、飛行場に向かうか決め……」
 ライは広いエントランスを越えて、マンションの外に出て、脚がとまった。
 ラシャの住む場所は高級マンションが建ち並ぶ地区で、とても一般人が住める場所ではなかったのだ。今までも窓の外を眺め下ろし、周囲の建物を見ていたが、あまりにも高所にあったため、どこの地区かよく分からなかった。けれど今、ようやくどこかを知った。
 ここはライが想像すらしなかったところだった。政府の要人から、有名人まであらゆる特権階級が好んで住む地域に、キラーラシャと呼ばれる殺し屋も住んでいたのだ。この事実を誰が想像できるだろう。
「信じられない……」
 マンションから表通りに出たライは呆然としながらそう呟いた。
 貧困とは無縁のこの地区は、皆が一度はあこがれる地区だ。衣食住にかかわるすべてが最高級ランクだから、確かにそう思うのも無理はない。希望を胸に抱いていた頃のライも一度は夢に見た場所だ。
「何が?」
 肩に乗ったリーガは面白くなさそうに言う。
「ここ……凄い場所だよ」
 綺麗に舗装された道や、空中を整然と行き交うエアカーが目の前を通り過ぎていく。道行く人達は最新のファッションに身を包んでいた。そんな景色を眺めながら、ライは何か眩しいものを見たかのように目を細めた。
「そう?」
「ラシャが住むには場違いのような気がする」
 いや、場違いなようにも思えるし、あの綺麗な殺し屋にはピッタリの場所にも思える。
「じゃあ、どういうところに住んでいたら、らしいの?」
「う~ん……闇ギルドの巣窟に住んでるとか……」
「あんなところに住めないよ。空気は悪いし、治安もよくないし……」
 殺し屋の相棒のセリフとはとても思えない。
「……まあいいけど。とりあえずタクシーでも捕まえてCDの特殊捜査機関の支部に行くよ。歩いていくと、随分かかりそうだから……。リーガ、ついてくる気?」
「う~ん……CDはついて行けそうにないなあ。だって、僕がバイサーだってばれたら、すぐさま研究所に押し込まれそうだもん。じゃあ、僕はここで。」
 リーガはライの肩からガードレールに飛び降りた。
「その方がいいね。じゃあ、ラシャのこと、頼んだよ。殺しはしないように見張っておいて。すでに受けている件でも俺は許せないんだからね。これは俺が帰ってきてからまたラシャに話す気でいるけど、リーガも協力しないこと。分かった?あと、何日か分の料理は作くって冷凍してあるから、温めて食べること。いい?」
「朝からなんべんも聞かされて、耳にたこができそうだよ……分かってるって」
 リーガは後ろ足で耳を引っ掻きながら、不満げな顔をした。
「……心配なんだよね……俺」
 ため息をつきながら、ライはリーガの頭を撫でた。
「じゃあ、俺、行くよ」
 ライはタクシーを止めるため、手を挙げた。すると、タクシーは音もなく滑るようにやってきてライの前で停車する。 
「ライ、戻ってこなくても、いいからね」
 ライがタクシーに乗り込みドアが閉まるまでの間に、リーガはそう言った。
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