「血の桎梏―策略―」 第7章
長い夢を見ていたような目覚めを迎えたライは、窓から漏れる朝日を受け止めるのを拒否するように、毛布の中に潜り込んだ。ちょうどいいスプリングの感触、柔らかいシーツ、伝わってくるすべての感覚は、正常だった。
「朝食、どうする?」
一人暮らしのはずなのに、聞き知った声が響いたことで、ライは毛布から慌てて顔を出した。
「サイファッ!どうしてここにいるんだ?」
印象深い銀髪を持つサイファは、窓から外を眺め、静かに佇んでいた。
一重の目には知性が宿り、抑揚のない声には、どこか冷たさが含まれているように思われがちだが、サイファの場合、ただ誰よりも自分を抑制する力が強いだけだった。
無駄なことが嫌いで、大抵のことに冷めた目を向け、あまり自分を語らない。かといって、寡黙なわけではなく、話題はそれなりに提供し、話し出すと会話も弾む。冷めているように見えるのは、いや、一見そう装って見えるのは、ライと同じ仕事を持つ男の心の防御法なのかもしれない。
「一ヶ月だ、ライ」
「……はい?」
「ピアスの調整に失敗して、しばらく意識が戻らなかったんだ」
サイファはライのベッドに腰を下ろし、シルバーグレイの瞳をこちらに向けた。
「嘘だろ?」
「いや、本当だ。頭は痛くないか?」
言われてみると頭の芯が重い。まるで酷い二日酔いが二重にも三重にも襲ってきているような、そんな鈍い痛みも感じられた。
「……確かに……する」
「だったら、もう少し眠ったほうがいい。ようやく意識が戻ったんだから……」
サイファはライをそっと押しやって、起こした身体をベッドに戻そうとする。ライは逆らうことなくベッドに沈んだ。
「ちょっと待って……記憶が……曖昧になってる……」
何かどうしても忘れてはならないことがある。それが何であるのかを思い出そうとするのに、薄霧に霞み、見えない。
「しばらくは車酔いのような症状が続くらしいけど、一時的だから気にするほどのことじゃないって聞いてる。安心して休んでいるといい」
サイファは淡々とそう告げて、端正な表情を近づけてくる。
「どうして俺はここにいるんだ?ここってサイファの自宅だよな?」
「精神的に不安定になっていたライを、一人自宅に戻せるわけなどないだろ。だけど病院をライは嫌がった。だったら知り合いの家に頼むしかない。だから僕が引き受けた」
ここに連れてこられた経緯も分からないライには、サイファを信用するしかない。いや、サイファはライの親友だ。信用してもいいだろう。
ただ、今も信頼していいのかどうか、そう思う理由があった。
「……不安定か……」
「この仕事をしている僕たちには、時々起こることだ。それはライも分かっているだろう?」
「ああ……分かってる」
小さくため息をついて、ライは答えた。
自分達の仕事は時に精神を壊す。壊れてしまった同僚もたくさん見てきた。
「サイファ……仕事は?」
「ライの面倒を見るようにいわれていてね。しばらく制限しながら仕事してたんだ。とりあえずライが目を覚ましたことを報告してくるよ」
サイファが腰を上げ、ベッドから離れようとするのを、ライは引き留めた。
「待てよ、サイファ」
「なに?」
サイファはライが掴んだ手首を見下ろし、そして顔を上げた。
「俺が知らないと思ってる?」
「何を?」
「……別に俺はいいんだ。婚約は解消しようと思っていたから」
「何の話だよ?」
「ミランダのことだ。サイファとこっそり付き合ってるのを、俺、知ってる。俺はサイファを責めるつもりで言ってるんじゃないんだ。……俺はいい。どうせもう、彼女と結婚する未来は描いてないから……だから、俺はいいんだ……。俺からも彼女にハッキリ婚約解消を告げるから、あとは、サイファ、頼む……」
ライがそう言うと、サイファは目を細め、手を振りほどいた。
「僕がミランダと?よしてくれよ」
「じゃあ、遊びだったのか?」
「何の話だよ……」
「それこそ、ライがミランダに聞くことだ。僕に聞くことじゃない」
「……どういう意味……っ!」
いきなりライはサイファによってベッドに押しつけられて、目を見開いた。
「なあ、ライ……」
サイファは、見たこともない冷えた瞳をライに向けている。
「なんだよ」
「面白いものを見せてあげるよ」
ライのシャツをいきなり捲り、サイファは腹を見るように促す。
「……な……」
腹につけられている朱色の痕が、ライの身体を硬直させた。どう考えてもこれはキスの痕だ。見えているところだけでも隙間なくつけられている痕は、シャツをもっと捲れば、さらに鮮やかな色をライの瞳に刻むにちがいない。
ライは慌てて捲られたシャツを戻し、サイファを睨み付けた。
「どういうことなんだよ。これ」
「僕はライが好きだった。そのライを自由にできる時間を得られた。それだけだよ」
あっさりとそう言ったサイファに、ライは思わず殴りつた。けれど、サイファは何も言わず、ライによって殴られた頬を、サラリと撫でるだけにとどまる。
「……上司に報告してくるよ」
サイファはどこか悲しげに目を伏せて、部屋から出て行った。
「これって……現実か?」
ライは一人になってから、そっとシャツをもう一度捲った。やはりキスの痕が生々しくつけられている。
「サイファが……俺を?」
確かにサイファは自分で白状した。けれどライにはとても信じられない事実だ。
いや、そのことについて考えようとすると頭痛が酷くなり、思考の邪魔をする。問題はそれだけではなく、覚えている確かな記憶はミランダに会いに行こうとした、あの晩の記憶しかないのだ。
どうなってるんだ……俺?
ライはできうる限り記憶を辿ろうと、目を閉じた。