Angel Sugar

「血の桎梏―策略―」 第18章

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 閉じていたまぶたがうっすらと開き、室内の明かりがやけに眩しい。いつもの検査後の怠さは感じられず、頭の芯が痛み、目の奥が何かで染みる。鼻の奥が疼いて、少し詰まって息苦しい。
「……あ~……」
 すぐさま身体を起こすことができず、煌々と灯っている明かりを何度も瞬きながら見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 技師のトロルが心配そうな表情でライを覗き込んでくる。その表情はどこか青ざめていて、額に浮かんだ汗が蛍光灯に滲んでいた。
「……何かあったんですか?」
 ライは無理に起きあがることはせずに、トロルに問いかけた。
 視線だけを動かして自分の身体を確認するが、衣服の乱れはなく、眠ったときと同じ服装で、とても問題があったようには思えない。だが、右腕が軽く固定されているのが見え、そこからも痛みがあった。この右腕は、いつ怪我をしたのだろうか。
「問題が起こりまして……数日もの間、貴方の意識が戻りませんでした。とても……心配致しましたが、目を覚まされてホッとしています」
 トロルは額の汗を拭い、ライにも聞こえるような安堵のため息をつく。
「この右腕もそれが理由なのか?」
 確かに長い間、嫌な夢に魘されたような痛みが未だに頭の芯から伝わってくる。それに筋を違えたように首筋や腕が痛い。
 ピアスの調整はごくまれに事故を起こすことを、ライは知識としては知っていたが、これほど気分の悪いものとは思わなかった。
「ええ。……ところで、景色が霞んで見えたり、吐き気がしたりしませんか?」
「……気分は悪いけど……それはなさそうです」
 ライは目を擦ってもう一度周囲を見渡したが、目に入ってくる光がやけに眩しく感じられるものの、トロルが心配するような症状はなかった。
「現在のピアスは、力のバランスを保つ調整に加えて、精神ブロックの機能も新たに付加されているものと交換致しました。それが問題を起こしたのかもしれません。今は安定しているようなので、大丈夫でしょう。右腕の骨は繋がっていますので、あと数日で包帯がとれるでしょうから、安心して下さい」
 精神ブロック機能はラシャもつけているもので、外部からの走査をブロックするものだ。なんの説明もなく、それがどうしてつけられたのか、ライにはよく分からない。もっとも、心の走査を職業に持つライのような人間は、たいてい併用型のピアスをつけているため、それに交換されたからと言って、おかしなことではないのだが。
 だが、トロルはライから目をそらしがちで、なんだか妙な雰囲気だ。ライが怪訝な表情でさらにトロルを見つめると、ビクリと身体を震わせて、泣き笑いのような笑みを浮かべて見せた。これでは何かがあったと予想しても仕方がないだろう。
「……あの……」
「もう、お戻りになっても結構です」
 ライの声を遮るようにそう言い、トロルは背を向けた。拒絶ともとれる態度に、ライは嫌な予感がした。
 俺の記憶……。
 ラシャのこととか探られてないよな?
 ――っ!
 キーをかけたはずの記憶が戻ってるっ!
 ここに来る前に探られると困る記憶にキーをかけておいたはずなのに、すべての記憶がいつもどおりそこにあり、隠しておきたいラシャの記憶も鮮明だ。
 例え、どれほどの技術があろうと、自らかけたキーは本人にしか解除はできないものだった。なのにどうしてそれが解けているのか、ライには分からない。もしかするとすでにラシャの情報は当局に知られている可能性もある。また、ライ自身がラシャと暮らしていた事実も明らかにされているかもしれない。
 だが、もし今、想像した最悪の事態に陥っていたのなら、ライはすでに拘束されているはずだし、周囲に強面の隊員が配置されていてもおかしくないはずだ。けれど、そういう物々しい状況は全く見られない。
「……俺……俺の記憶……もしかして?」
 ライはベッドから下り、背を向けたトロルに言った。
「貴方が戻ってこられてから一ヶ月は経っています」
「ええっ!ちょっと待ってくれよ。そんなに長い間、俺は事故で意識が戻らなかったって言うのか?」
「そのことについて詳しい説明があるでしょう。エリアル司令官がご自分のオフィスでお待ちです。帰られる前に寄るようにとのことですよ」
 トロルはやはり振り返ることなくライに告げた。
「……はい。じゃあ……そうします」
 何かがあったのだろうが、それを話す気が全くないトロルにこれ以上、問いかけても無駄なのだろう。ライは諦めて処置室を後にすると、エリアルのオフィスのある階へ、エレベーターで移動した。
 なんだろう……。
 変な気分だ。
 ライはエレベーターから見える外の景色を眺めながら、息を吐いた。
 ガラスに映る自分の顔は、浮いたような白さが際立っていて、あまり健康的な色には見えなかった。紫色の瞳は長い睫に覆われていて、どことなく気怠げな感じだ。生死を彷徨ったようには見えないが、酷く疲れた顔をしていることは確かだった。それに、身に覚えのない右腕の怪我。
 骨が繋がっているとトロルは言ったが、では折れたのだ。
 ピアスの調整中ライは無意識で暴れ、どこかで腕を打ち付けたのか。
 いくら考えても記憶の中には答えはない。
 はあ……っともう一度息を吐き、ライはエレベーターを下りると、ガラス張りの長い通路を歩いて、エリアルのオフィスへと足を踏み入れた。
 エリアルは重厚なテーブルに浮かび上がる、流れる電子決裁書類にサインをしていたが、ライの姿を見て手を止める。
「ライ、無事に意識が戻ってよかったわ」
 顔を上げたエリアルは、微笑する。
「……ピアスの調節に……事故が起こったとトロルに聞きましたが……一ヶ月も意識が戻らなかったって、どういうことなんでしょう?」
「事故……少し違うけれど、そうなるかしら」
 赤茶色の髪を撫で上げて、エリアルはため息をついた。
「え?」
「貴方がキーをかけた記憶はすべて戻っているはずよ。どう?」
 エリアルの言葉に、ライは顔が一瞬にして青ざめた。
 どういう方法か分からないが、ライがかけた記憶のキーを外したのだ。
「……そ……それは……」
「トラップの下にあった記憶が戻った段階で、こちらが上乗せした記憶が呑み込まれたと言った方がいいかしら。ちょうど一ヶ月ほどの記憶が抜けているはずよ。もっとも、覚えていたとしても、苦痛しか思い出せないでしょうから、これでよかったんでしょうね」
 ライにはエリアルが当然のように口にしている内容が理解できなかった。頭に残っている記憶は、ここに戻ってきてピアスの調節のため、ベッドに身体を横たえたところで途切れているのだ。
「それはどういう……」
「貴方の記憶の走査は断念したわ。貴方自身のためにね。もっとも、サイファは強く希望していたけれど許可はしなかったの。それも仕方のないこと」
 淡々と、何もかも分かったように話しているエリアルに、ライは恐怖を感じていた。何を知られて、何を知られていないのか。それが分からないために、質問ができない。
「……俺……」
「貴方はピアスの調整に戻ってきた。けれど貴方は、自分の記憶を探られることを回避するために、自らの記憶にキーをかけていたのよ。私はトロルに命令して、トラップのついた新たな記憶を貴方に与えたわ。ラシャをおびき寄せるためにね。予想どおり、キラーラシャが来たわ。とてつもない化け物を従えてね」
「化け物?」
「見かけは可愛らしいペットのようだったわ。ライはリーガと呼んでいたわね。絶滅したはずの知的生物、バイサーよ。あの生き物が張り巡すフォースフィールドが、一体どういうエネルギーから構成されているのか、今のところ全く分からないし、過去に遡っても資料がないの。あれはいまだかつて出会ったことのない、未知のエネルギーだったわ。外部からの攻撃を跳ね返すだけではなくて、ラシャに飛びかかった人間が、フォースフィールドに触れた瞬間、指先が切り落とされたわ。鋭利なナイフで切られたようにね。不思議なことに床や手すりなどはフィールド内にあっても無傷なの。あのエネルギー自体が意志を持っているかのように、フィールドに侵入してくるものを選択しているのよ。あのエネルギーの攻略ができない限り、例えキラーラシャの居所を突き止めたとしても、誰にも捕まえられないことが分かったわ」
 エリアルは感心した表情でそう言い、頷く。だが、ライはやはりどう答えて良いのか分からない。同じように頷くのがいいのか、それとも初めて聞いたことだという風に、驚けばいいのか。
「……」
「いいのよ。ライの意見を求めている訳じゃないの。言葉にすることで、私が整理をしたいだけ。ライはキラーラシャに関する一切を私達には沈黙し、あの男の側にいることを選んだ。私は立場上、諸手を挙げてそれに賛成するわけにはいかないけれど、今のところあの男を大人しくさせておくために、ライに協力してもらうしかないと判断したのよ」
「それって……どういう……」
「ライが望むように、あの男のもとへ戻ればいいの。それがどういうことなのか、ライ自身も充分理解していて、決めたことでしょう?」
 エリアルはライのことをある程度把握した上で、話していることが分かった。どこまで知っているのか、そんなことは聞くまでもないのだ。
「……はい」
「そうそう、貴方のDNAに追跡マーカーを付けたりはしていないわ。小細工をすれば、あの男は貴方を生かしておかないでしょうし、それは私としても困るのよ。ライがどの程度の期間、あの男を殺しという仕事から目を逸らしておけるのか、私にも分からない。明日にでも気が変わるかもしれないし、ライに対する興味も今は失われているかもしれない。けれどそれを理解していてもなお、ライがあの男のもとへと戻るというのなら、それもいいでしょう。ただし、対抗策が見つかった暁にはどうなるのか……いいえ、それまでにあの男の気が変わったらどうなろうのか、分かっているわね?」
 エリアルの視線が、ライの瞳を射抜くような厳しさで向けられていた。
 これは決してライを思っての、甘い決断ではない。
 ライという人間をラシャに与えることで、時間稼ぎをしようとしているのだ。けれど、ライはそんなふうに扱われていることを理解しても、エリアルに対し怒りは感じなかった。逆に感謝している。
 ライは裏切り者とされ、犯罪者として扱われる可能性もあった。ラシャとの関わりがばれたら、二度とここから出してもらえない可能性の方が高かったのだ。だからこそ、ラシャに関する記憶にキーをかけた。
「理解しています」
「ライの職歴や履歴はすべて抹消されて、上級幹部だけが参照できるファイルに、貴方の身分は移され、特殊任務についている職員として扱われるわ。捜査員ではない貴方にとってその身分でのメリットは特にないけれど、どこかで死ぬことになっても、ここへ遺体が返されてくるはず」
「その時は、弟の隣に……」
「約束してあげるわ」
 哀れみとも見える微笑を受け、ライは深々と一礼をすると、エリアルに背を向け、二度と振り返ることはなかった。
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