Angel Sugar

「血の桎梏―策略―」 第21章

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「何が可笑しいんだよ」
「……ライは自分の罪悪感の捌け口を、そこに求めたのが分かって、馬鹿らしくなったんだ」
「……俺の人生だろ。なにを選択しようと俺の勝手だよ。サイファは……俺をなんだと思ってるんだ?なあ……俺、サイファのこと、親友だと思ってた。いや……こんな目に合わされても……俺……今も多分、そう思ってる。それが……すごく悔しい」
 涙が一気に溢れ、頬を伝った。
 ずっと堪えていたものが、ここに来て堰を切ったようだ。
「……悪かったと……思ってる」
 サイファはライを見ることなく立ち上がり、寝室から出て行った。
「馬鹿野郎……」
 涙の理由、気持ちは複雑に入り組んでいる。
 悲しいのか、悔しいのか、辛いのか、よく分からない。
 ただ、無性に泣きたくて仕方がなかった。
 こんなふうに翻弄されるのは、嫌なのだ。
 自分の人生など、どうとでもなれと、自暴自棄になったこともあったし、ラシャに出会う前は、生きた死人のような人生を送っていた。
 先など見えない、朝を迎えているのに、目覚めることなく眠りについたまま死ねたら楽になれる。そんなふうに命の火が消えたら、どれほど楽だろうと。通りを歩いているときに、突然、暴走車が突っ込んできて、一瞬にして自分の命が奪われても、いいと。そう、本気で考えていた。
 けれど、今は違う。
 もちろん、ラシャと暮らし、この先に何が待っているのか、想像などできない。
 今はラシャの気紛れで、生かされているとはいえ、殺されることも当然あるのだと、充分理解している。
 けれど、無気力だった以前とは違い、ライは生きることの意味をもう一度探してみようと決めた。いや、あの感情の失われた男にこそ、生きることの意味を探して欲しいと思っているのかもしれない。
 誰に話しても、ライが考えていることは、滑稽だと笑うだろう。
 だが、ライは真剣にラシャのことを考えているのだ。
 確かに、無慈悲な殺し屋なのかもしれない。
 どういう教育があったとしても、その結果、人間的な感情を一切持たない殺し屋に育ったが、逮捕されたら、当然、彼の人格は根本的に書き換えられて、彼自身が何者であったのかもふくめて、すべてを消去され、没個性のロボットのような人間とされるのだ。
 それが、本当の解決になるのか、ライには分からない。
 今の犯罪者を裁くシステムに異議を唱える気はないし、代わりの提案ができるような、人格者でもない。ただ、今のラシャが自分で気づくことが、何よりも大切なことだとライは考えているだけだ。
 そんな考えを誰かに理解してもらいたいとは思わない。
 例え、サイファであっても。
「……う……うう……っ」
 涙は止まることなく、頬を伝う。
 骨は繋がっているのだが、折れた腕が痛む。
 関節が軋み、穿たれた場所が、痛む。
 けれど、胸が一番痛かった。
 今は、泣くことだけがライに唯一許された、自己主張のようにも思えた。
  


 サイファは一時間ほどで戻ってくると、ライの身体を無言で綺麗にして、新しい衣服を着せてくれた。同時に食事も持ってきたが、ライは当然のごとく拒否をした。意地からではなく、本当に食欲がなかったからだ。サイファは無理に食べさせることはなかった。
 サイファはライの方が傷ついているのに、この世で自分が一番不幸だとでもいうような、寂しげな表情をしている。
 サイファは狡い。
 そんな顔をされたら、ライはもう何も言えなくなる。
「……ごめん……」
 ライの背後からサイファは腕を回して抱きしめ、耳元で囁く。
 謝罪を聞かされても、どうしようもない。
 こんなふうに言葉にしていても、本当に後悔しているのかは、分からない。ライのサイファのすべてを拒絶する態度に、ふと、そういう言葉が出ただけかもしれないのだ。けれど、これだけは分かる。
 サイファも孤独なのだ。
 だから誰かを好きになって、恋をしている気になっているのだ。
 自分の孤独を癒すために、肌を寄せ合いたい相手が欲しいだけ。
 多分、誰もが孤独を抱えて生きている。
 だから、パートナーを探すのだろう。
 孤独に気づいていない男は、きっとラシャだけだ。
 あの男だけが、一人で生きていくことに疑問を持たない。
「俺は……サイファを愛せない……」
 罵るよりも、きっとサイファを遙かに傷つける言葉だ。
 それが分かるように、密着する背中からサイファの鼓動が早くなり、体温が上がるのが感じられた。
「友達でいたかったのに……もう修復不可能だ……」
 今度はサイファが声を殺して泣いていた。
 今更確認を取らなくても、サイファとの関係は、すでに修復不可能になっているのに、ライはさらに抉るような言葉を口にしている。
 もっと、ずたずたにしなくてはならない。
 サイファが後悔しているからだ。
 けれど、ライが求めているのはそんな優しい感情ではない。
 二度と顔を見たくないほど、ライを憎んで欲しいのだ。
 愛しているのに、裏切った男だと。
 誰よりも大切にしてやったのに、拒否した男だと。
 愛情と表裏で繋がっている憎悪こそ、ライが引き出したい感情だった。
 それこそが、きっと後悔しているサイファを救う、感情でもあるからだ。
「俺は……一生サイファを許さない……」
 ライは自分でそう言いながら、枯れたはずの涙がまた目に浮かぶのが、感じられた。背にピッタリと張り付いているサイファは、小刻みに震えて、泣いている。
 泣くくらいなら、最初からしなければいいのにと、ふと他人事のように思ったが、人は時々、驚くべき決断をするときがある。
 ライにとってはラシャと共に生きようと決めたことだ。
 サイファのにとっては、ライを拘束しようと決めたことかもしれない。
 その決断を責めることは、自らの決断をも否定するような気がした。だから、ライはサイファを責めるつもりはない。
 ただ、ここから解放して欲しいだけだ。
「これ以上、サイファを憎みたくないんだ……だから俺を……解放してくれよ……」
 ライの言葉に、サイファは返答してこない。
 身体が温もってくると、疲れた意識や身体が睡眠を欲し始める。
 こんな状況であっても眠い。
 ライは霞んでいく意識の中で、薄闇が揺れたのを感じた。
 人の気配はない。
 なのに薄闇には、より濃い闇が存在していて、それは人の形をしている。
「本当に苛つく男だな……お前は」
 ライは耳にするはずのない男の声を聞き、眠気が一瞬にして奪われた。
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