Angel Sugar

「血の桎梏―策略―」 第11章

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「ね……寝てられるわけないだろっ!」
 自分に起こったことがよく理解できない。どうして見ず知らずの男に犯されなければならないのか、なぜライよりもサイファが一人で不孝を背負ったような顔をしているのか、どれ一つとっても、答えが出せないでいる。
「……分かってるよ……ライ」
 サイファはドアの手前で肩越に振り返る。
「気持ちを落ち着けるためにも、何か飲物を持ってくるから……話はそれからにしよう」
 ライが呼び止めるのも無視し、サイファは部屋から出て行った。
 何が……どうなってるんだよ?
 屋上で会った男は確かにライを知っている様子だった。なのにライ自身は見覚えがない。問題は、痛みしか感じていないはずなのに、身体が男の触れる手を、伝わる快感を覚えているような気がしたのだ。
 もしかして、知っている男なのだろうか。
 けれど、記憶がない。
 いや、記憶を探ろうとすると、いつもは雑然としているところが、奇妙なことに整理整頓されていて、おかしなところがない。それが酷く気持ち悪い。
 記憶というのはいつも混沌としていて、整理できない事柄も多く、あやふやに存在している部分も結構あるのだ。なのに、間違いが一切ないという、まるで誰かが手でも加えたように、ライの記憶は辻褄だけがきっちりと合っている。
 ライは窓ガラスに自分の顔を映し、自分が思い出せる最近の記憶を言葉にして、口の動きや表情をじっと観察した。
 変だ……。
 誰かに記憶を弄られてる?
 ミランダに会いに行った晩からの記憶を言葉にして発するのだが、そこからとたんに自らの目が虚ろになり、表情がなくなるのだ。これは記憶が植え付けられたときによく起こる現象だった。
「ライ……これを飲むと少し落ち着くよ」
 戻ってきたサイファが、サイドテーブルにホットミルクの入ったカップを置く。けれどライはそれには手をつけなかった。
 誰が記憶を弄ったのか定かでない今、誰も信用ができない。
「俺の……記憶を弄ったのは誰だよ?」
 窓を見つめていたライはベッドに座り直して、サイファに問いかける。サイファは一瞬動揺を見せたが、すぐに平静な表情に戻った。
「何がどうなってるんだよっ!俺の記憶がどうして弄られてるんだ?なんで……」
 ライが怒鳴ると、サイファはベッドの縁に腰をかけて小さなため息をついた。
「ライのことだからすぐにでも気づくと思っていたよ」
 サイファは苦笑に近い表情で言う。けれどライには冗談ではすまされない事態だ。簡単に人の記憶など弄ってはならないことは、特に走査機関に所属するライにとって、最重要事項に属することだった。なのに、執行する側のライがどうして記憶操作されているのか、いや、そうせざる終えない何が自分の身に起こったのか。
「俺は……何に巻き込まれたんだ?」
 問いかけた声が震えていた。
 記憶を操作された理由に、あの屋上で会った男が絡んでいるのだろうか。
 男の顔を思い出し、ライは身体を震わせた。
 怜悧な容貌は、真冬に咲いたバラだのようだった。深淵を思わせる黒い瞳は、底がなく、吸い込まれるような闇を孕んでいた。薄く色づく唇は笑うことなど想像ができないほど、冷たく引き絞られていた。
「ライには警護がつけられてるんだ。屋上で見なかったか?」
「……見た……見たけど……俺に警護?」
「全滅したみたいだけどな。ライの身柄を本部に移すよう、今手配をしてる」
「……殺されたのか?」
 屋上で見た特殊部隊の人間のことだろうか。
 だが、彼らはすべて倒されていた。
「不思議なことに命に別状はなかったそうだよ。ただ、彼らが特殊部隊に復帰することはできないだろう……という怪我を負わされていたらしい」
「待てよ……警護ってなんで俺にそんなのがついてるんだ?」
「ライは……ミランダの家があるCブロックの40-3に向かうため、裏道を使っただろう?そこでキラーラシャに会ったのだろうと予想されてる」
「予想……されてる?」
「ライが失踪した場所に、ラシャが仕事をした痕跡があった。スティンガーで殺された死体があったんだ。だからライが何かの事情でラシャに出会い、現場を目撃したかなにかで、連れて行かれたのだろうと予想されたんだ。その後、失踪したライが見つかったけど、お前は自分のことをまともに話せない状態だった」
「……ちょっと待てよ、俺はそういう体験は何一つ覚えてない」
「だろうな。何があったのか、お前の記憶を探ろうとして失敗したんだ。だから上司の命令で、お前の記憶を弄った。読めない記憶をすべて新しい記憶で覆ったんだ。そうすれば元の生活にスムーズに戻ることができるだろう?」
「俺は……サイファが説明してくれることが、よく分からないんだけど……。読めない記憶って何だ?そんなの……もともとがブロックされてなければさあ……」
「きっと酷い体験をしたから、それを忘れるために、ライが自分でブロックしたんだろうってことになっていたよ」
「俺が……自分で?」
「自分の身体を見てみろよ。身体中にあるキスの痕。記憶のないお前が混乱するといけないから、俺が相手になったって話したけど……違う」
「……じゃあ、俺は……その……キラーラシャに出会って、そいつの慰みものにでもされてたって言うのか?」
 ゾッとする事実に、ライは青ざめた。けれど、とても事実として受け入れられない。
「さあ……でも、発見されたときのお前は自分で自分の記憶をブロックしていた。身体中に陵辱された痕があって、お前を諦めきれないキラーラシャが姿を現した。分かっている事実から導き出される答えは、それしかないだろう?」
 淡々と告げられたサイファの言葉を、まるで他人のことを話しているようにライは聞いていた。いくら聞いても、実感が湧かない。
「嘘だよ……そんなの……」
 ライは笑おうと努力したが、とても笑顔をつくることはできなかった。
「……そう思いたいよ……僕も。でも、これで少しは納得したかい?」
「……わ……分からない」
 頭が混乱している。
 事実を事実として確かめようとしても、摺り合わせのできる記憶がどこかに隠されていて、今のところ見つけられないのだ。
 自分でブロックしたと言うことは、人に知られたくない何かを自分が抱えていることになる。それは身体に残された痕に関係あるのだ。サイファの言うように、きっとこの身体はあの男によって陵辱されたのだろう。
 それを忘れたかったのか?
「だろうね。とりあえず、せっかく作ったんだから、ホットミルクを飲めよ」
 サイファはそう言って、サイドテーブルに置いたカップを手に取ると、ライに差し出した。
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