「血の桎梏―策略―」 第19章
エリアルのオフィスを後にして、ライはエレベーターを下りると、連邦ビルの玄関に向かって真っ直ぐ歩いた。
ふと気づけば、柱のあちこちが焼けこげていて、修理をするための職人がまばらに散っている。ラシャがリーガを伴ってここを通り抜けたために、それらができたのだと気づくのに、ライはしばらく時間が掛かった。
来たんだ……ラシャ。
だから、エリアル司令官はリーガのことを知っていた。
俺は……。
キーになっていた『リーガ』という言葉をどこかで聞いたのだろう。
だから、隠したかった記憶が戻っている。
昨夜は大変だったに違いない。
どれほどのことが起きたのだろうか。
エントランスをぐるりと眺め、心のどこにも昨夜の記憶がないライは、また視線を下に向けた。忘れているのだから、想像しようとしても無駄なのだ。
……。
……もういい。
なんだかすごく疲れた……。
まだこれから、婚約者であるミランダに連絡を取り、話し合いをしなければならないのだ。これは自分だけのことではなく、ミランダのためにも必要なことだった。婚約というものに縛られて、戻る気のないライをいつまでも待たせるわけにはいかない。
分かっているのに、気が重い。
「ライッ!」
聞き知った声に振り返ると、サイファがライを追いかけるように階段を駆け下りてくる。
「……サイファじゃないか。久しぶりだよな……」
ライの言葉にサイファは奇妙な笑みを浮かべた。困ったような、それでいてどこか哀しい表情にも見える。そんな不思議な笑みに、ライは驚きを隠せなかった。
「……どうしたんだよ?」
「いや。いいんだ。それより、しばらく行方不明だったライの捜索命令が昨晩解除されたから、戻ってきたんだと思って……」
「……あ……そんなの出てたんだ……知らなかった」
本当に解除されていたなら、変装などしなくてもおおっぴらに歩けるだろう。
もっとも、それをどこまで信じていいものか、不明だ。エリアルは確かにライに理解を示してくれたが、それはライを援護するものでは決してない。だから自分で確認の取れない情報は、簡単に信用することはできないのだ。
まず、本当にDNAに追跡マーカーがつけられていないのか、ラシャのもとへと帰るまでに、ライは市販のチェック機材で確認し、それを終えてから捜索命令が取り消されているのかどうか、誰もが見られる役所の閲覧リストをチェックしなければならない。
早く横になりたいと思いつつ、ミランダのことも含め、やらなければならないことが山積みだった。
「今までどうしていたんだ?」
「単にやる気を無くしてあちこち彷徨っていただけだよ……。その気持ち、サイファなら分かるだろ?俺……弟のことでずっと悩んでたし、なんだかもう……いろいろなことがどうでもよくなってさ」
あははと笑ってみせるものの、サイファの表情は硬かった。本当の理由を誤魔化していることにサイファは気づいているからだろう。もっとも、この程度の理由では通じないこともライは分かっていた。けれど、どれほど他人におかしな理由だと首を傾げられても、押し切る建前は必要だ。
「……そうか」
「じゃあ、俺……」
「僕はもう今日の仕事は終わりなんだ。送っていくけど」
サイファはそう言って肩を掴む。
「え……あ、俺……」
「ライは僕に話があるはずだけど。どう?」
「……まあ……うん」
ラシャのことは話せないが、ミランダのことは話さなければならない。それにライはもう二度とここに戻る気はないし、サイファとも会うことがないだろう。
「分かった」
ライの言葉に、サイファはうっすらと笑った。
「帰る頃には止んでるといいんだけど」
窓から見える空が、いつの間にかどんよりと曇っていて、小雨が降り始めた。ライは空を仰ぎ見ながら、サイファがキッチンから戻ってくるのを待っていた。ライが以前住んでいた場所とは雲泥の差で、ここは窓枠も大きい。また、画一的な間取りではなく、個性的に配置されたテーブルや椅子、一目で高価だと分かる絵画やライにはよく分からないくねくねとした飾りが無造作に置かれていた。
普通、ライやサイファの収入ではとてもこのようなマンションには住めない。だが、サイファの父親が政府の高官で、この部屋は本部に栄転になった父親から、サイファは譲り受けたそうだ。
「雨か……」
サイファはライの前にコーヒーの入ったカップを置いて、座る。
「こういう天気の日は、気が滅入るよな」
「冷めないうちに、飲めよ」
「え……あ。ありがとう」
ライはカップに口をつけ、コーヒーを飲んだ。胃に染みるような熱さに、思わずカップを離して、唇を拭う。
「それで……都合よくお前はいろいろ忘れているようだけど、ラシャとのことは知ってる。昨晩は大変だったからな……」
コーヒーを吹き出しそうなことをサイファはサラリと言った。
「そ……それって……ちょっと待てよ……」
「エリアル司令はお前のことを了承したようだけど……僕は認めない」
サイファはそう言って手を組み、何故だか笑顔を浮かべた。
「どこまでサイファが知っているのか分からないけれど、俺は決めたんだ」
あの心を失った殺し屋の側にいること。
それがライの見失った未来であり、生きる意味だったのだ。
「殺し屋の玩具として与えられたんだぞ。分かってるのか?」
「……そんな話がしたくて俺をここに呼んだのなら、帰らせてもらうよ」
ライはソファから腰を上げ、このうちから出ようとしたが、膝に力が入らずに、すとんと床に座り込んでしまった。
「……な……コーヒーに何か入れてあったのか?」
立ち上がろうとするのに、身体が痺れていて、思うように動けない。
「言ったろ。僕は認めないってね」
サイファは冷えた瞳をライに落としていた。