「血の桎梏―策略―」 第9章
「……誰だ?」
ライが後退ると、男は足音を響かせることなく近づいてくる。男の薄く色づいている唇は何も語らず、ライとの距離を縮めてきた。ライはどこまでも後退していたが、最後にはフェンスに背が当たり、逃げ場を失う。
「……あの……人違いをしてませんか?」
無理やり作った笑みを張り付かせ、ライは言った。すると、男は黒い手袋をはめた手でライのほおをひと撫ですると、底冷えするような微笑を浮かべた。
「私はどういうゲームに招待されたんだ?……ん?」
頬を撫でた指先は、首筋に移動し、胸を這う。指先が触れているだけであるのに、身体の奥底が急激に熱くなり、奇妙な痺れが身体を覆う。
「なっ……なんのことを言って……っく」
唇に触れるか触れないかと言う距離まで顔を近づけた男は、静かに告げた。
「言ったはずだ。お前は私のものだとな」
「な……なんのことか……俺は……っひ!」
胸を這っていた手がスラックスの中に入り、雄を掴む。予想もしなかった場所を掴まれたことで、ライの頭はパニックだ。
「一体……あんた……何……っあっ!」
「数日で戻ってくるはずではなかったのか?それとも気が変わったのか?」
クッと喉の奥で笑い、男はライを弄ぶことを楽しむように、掴んでいるライの雄を手の中できつく揉み上げていく。
「……っあ……ああっ……ま……待てって……」
フェンスに背を押しつけるようにして身体を支え、ライは男の手を引き剥がそうとしたが、ほっそりと見えるはずの男の腕は、微動だにしなかった。
「はな……離せっ……あっ……あっ!」
「私から逃げ出すチャンスを何度も与えたはずだ。だがもう遅い。お前は私のものだからな……ライ」
何故自分の名前を知っているのだろうか。
ライは急き立てられるように襲ってくる快感に身悶えしながらも、疑問で頭をいっぱいにしていた。
この男はライをよく知っている。
けれど、ライはこの男を知らないのだ。
「どうして……名前を知って……」
男の手によって雄が鍛えられ、欲望でいっぱいに満たされるまで、時間はそれほどかからなかった。
「……っくう」
ライは息も絶え絶えに、男の手の中に蜜を放ち、ようやく支えていた身体がズルズルと沈む。
「何が……どうなって……」
座り込みながら顔を上げると、先程まで見えなかった人影が、屋上の空調機の間から目に飛び込んできた。
上下黒の特殊部隊の武装をした男が倒れているのだ。辺りには血が点々としている。男が生きているのか死んでいるのか、こちらからでは分からないが、走り回る元気はなさそうだ。そんな男達の姿があちこちから見える。
「あれは……なんだよ……」
ライの視線に気づいた男が淡々と告げた。
「邪魔な人間を排除しただけだが、死んではいない。もっとも数ヶ月は動けない程度の怪我を負わせてはいるがな」
「死んではいない……って?」
心臓が早鐘を打つように鼓動を速めている。
ライの五感のすべてが、この男から逃げるように警告を発しているのだ。けれどライは男に魅入られたように痺れ、動けなかった。
「本当にお前は苛々とさせる男だな……」
バイザーに覆われていて、男の表情は見えない。
けれど突き刺すような視線が、肌の表面をチクチクと刺激している。
この男は危険だ。
今すぐにでも逃げなければならない。
「……俺……俺は……」
男がまた手を伸ばしてくるのを、払って、ライは男の脇をすり抜けて逃げ出そうと立ち上がった。けれど、すぐさま男に手首を掴まれ、倒された。
「なっ……なんだよっ!俺はあんたなんか知らないぞ!人違いだっ!離せっ!」
「……人違い?」
男は手首を後ろでねじり上げ、ライを床に倒したまま、見下ろしていた。
「俺は……あんたを知らない。あんたがどうして俺の名を知っていたのかは、知らないけど……本当に俺は知らないんだ」
拘束されながらもライは逃げだそうと、身体を動かしていた。そんなライに男は静かに告げた。
「お前は相変わらず人を苛々とさせる男だな」
ゴキッという音とともに、ねじり上げられていた右腕が折られた。
「ひ――――っ!」
あまりの激痛に、ライはもう動くこともできずに、浅い息と呻き声を上げ続けた。
「少しは頭が冷えたか?」
男は眼下でライが痛みで呻いていても、何の感慨もない口調でそう言い、ライの身体を仰向けにする。折られた腕はあらぬ方向に向いていて、自分の腕と思えなかった。
「……ああ……あ……痛い……っ」
「これでも、まだ私を思い出せないとふざけたことを言うつもりか?」
顎を掴まれ、顔を上げさせられたライは、涙目で男を見返した。
けれどライはこういう男を見たこともなければ、聞いたこともない。それだけはハッキリと言える。
「し……知らない……」
男がバイザーを外し、その容貌を朝日に僅かに晒すと、また顔を隠した。それでもライは、男の顔を確認することができた。
男はこの世でみたどんな女性や、男性よりも綺麗な顔をしていた。
そしてなにより、ライはその男をどこかで見たような気がしたのだ。
すれ違いざま、ふと視線を向けただけの人物ではない。もっとライにとって深く関わっているような気がする。なのに、記憶の中にこの男の顔や名前がなかった。