「ユーストレス 第1部」 第1章
多分これが最後になるだろうな……
男はそんなことを考えながら、ぶら下がった天上から眼下に見える獲物を眺めた。赤外線スコープで見るとやはりというか、当然というか、四方八方に張られた罠が確認できた。
はあ……
げんなりするほどのレーザーの束を見た男は、さてどうしようか……と考えた。
特殊ケースに収まった、見事なダイヤは盗難防止の為にあらゆる手が施されている。ただ、どんなセキュリティにも穴があり、完璧にそれらの情報さえ集められさえすれば大抵は何とかなるのだ。
今、目の前にある獲物も、盗み出す事など男にとっては容易い事だった。だがそろそろこういう遊びから引退したいと思っていた。
今では男には、以前のようにわくわくとする気持ちや、必ず奪ってやるという意地も存在しなかった。
要するに他のことで忙しい為に、こういう遊びにつき合えなくなっているだけだ。
現在男はロープで天上からぶら下がっているのだが、頭の中はダイヤの事ではなく、あの案件をどうするか?誰に頼む?等という本来の仕事の事で一杯だった。
ああ……
そういえばあの件……
どうするかな……
う~んと唸りながら天上からぶら下がっている姿は、例えば誰かに見とがめられても実は仕事の事を考えているのだ……とは見えないだろう。
贅肉のない身体はぴったりとした黒のシャツに、やはり黒のパンツが必要以上に男の体つきをしなやかに見せている。
それでも年々辛くなってきているのは確かだった。
考えると年齢的にはまだ若いのだろうが、機敏さというものはもうない。それらはやはり十代から二十代前半が最盛期で、よくもって三十までが体力的にもついていける限界だ。
この辺りで許して貰うしかないな……
男は決心すると、足元に備えているナイフを抜き取り、自らを支えるロープを迷うことなく切断すると落下した。
男は無様に着地することなく、ダイヤを守る硬質硝子の上に音もなく降り立った。
その瞬間、警報機が鳴り響き、辺り一面ガスが噴出する。
もしかして映画の真似か?
……
全く……
海外映画の見過ぎだ……
呆れながらも男は素早く赤外線スコープを外し、次に腰元につけていたガスマスクを被ると、そこに腰をかけて座った。
これで諦めてくれるだろう……
それより問題は明日の仕事の順番だ。
警報機が耳をつんざくような音で木霊している中、男は明日の仕事の段取りを考えていた。
鳩谷恵太郎は十六歳になったと同時に、東家に戻ることに決まった。
東家の主人は東都グループ全てを統括する会長である。その東が私設秘書を介して恵太郎に戻ってくるようにと連絡が入ったのだ。
東都とは現在日本のあらゆる種類の企業を抱え、海外にも進出している大企業グループである。
その会長である東に恵太郎は数年前に引き取られた。そこから佐中家に預けられていたのだ。
「ケイちゃん……嫌なら良いのよ」
里親の佐中敬子が言った。
その敬子とは名前が違う。
元々恵太郎は東に拾われ、東の家からこのうちに預けられていたのだ。それは養子縁組ではなく、あくまで預けるという形だった。
当然の事ながら、恵太郎の教育費などは東家から佐中家に毎月支払われていた。
家族を失った子供に家庭の温もりを取り戻させ、自立を促すというのが東の方針であった。聞くところによると、東はそうやって何人もの孤児を引き取ってきたらしい。もちろん望めば養子縁組の話しも進んだのだろうが、恵太郎はそれに対し首を縦に振らなかった。
ただ、預けられた子供は東家に一度は戻らなくてはならない。それが東家に拾われた子供の決まりになっていた。
もちろん戻ったとしてもその後、東家から出ることも、残ることも許されている。何事も強制はされない。
あくまで東は個人の自立を目指しているのだ。
「僕……色々悩んだけど……。このまま大人になって就職を考えたときにさ……不景気で働くところがなかったとしても、あそこの屋敷にいたら仕事……ちゃんと貰えそうだと思って……」
鞄にスポーツバックに荷物を詰め、恵太郎は言った。
「寂しくなるわ……」
敬子は恵太郎に悲しげな笑みを浮かべた。
この佐中家に恵太郎は三年前に来た。ここは温かく、赤の他人の恵太郎にとても良くしてくれた。家族なんだと思ったことも多々あったのだが、恵太郎は最近とても心苦しいことがあった。だから東家から話が来たときに、戻りたいと思った。
いや、何か理由を付けてここから出たいと切実に考えていたのだ。そんな恵太郎に都合良く来た連絡であったため、断ることなどまずしなかった。
それが事実だったが、敬子には話していない。
「でも……。とりあえず春休みの間だけだから……これからのことはまだもう少し時間を貰えるみたいだし……」
スポーツバッグのチャックを閉めて恵太郎は敬子に言った。余りにも寂しそうにしている敬子に対し、良心が痛んだのだ。
「知佳も涼子も綾も残念がるわよ……」
「……そ……そうかな……」
このうちには敬子の娘が三人いた。
彼女たちにも恵太郎は可愛がって貰ってきた。
と、恵太郎は思っていたが、敬子の夫である充が一年ほど前から単身赴任でこのうちを不在にしてから色々なことがあり、恵太郎は居心地が悪くなっていた。だから今回の東家からの話はかなり助かったのだ。
その事は敬子達にも、もちろん三姉妹には話したことはなかった。逆らうと恐いというのがあったのだろう。別に苛められるわけではないのだが、子供扱いされるのが嫌だったのかもしれない。
要するに恵太郎がもっとはきはきとした、男らしいタイプだと良かったのだろうが、もともと引っ込み思案なタイプの恵太郎には自分の言いたいことを言うということすら無理なことであった。
ただいつも沈黙し、問題が起こりそうになると、逃げ出すことを選んでいたのだ。
「東の家は出て、本当にうちの息子になっちゃえばいいのよ……私はずっとそう思ってきたし、ケイちゃんもその方が良いでしょう?もちろんパパも賛成してくれるわ」
敬子は笑顔でそう言ってくれたが、恵太郎は自分の鳩谷という名前が好きなのだ。散々馬鹿にしていた父の名前だが、それでも恵太郎はその名前を変えるつもりがなかった。
「僕は……今のままで……」
スポーツバッグを眺めながら恵太郎は言った。
「その名前……もちろん、もう忘れている人の方が多いでしょうけど……、やっぱり覚えている人は覚えていると思うわよ。ケイちゃんには関係のないことだけど……お父さんがね……」
それを言われると恵太郎は辛かった。
「いえ……僕は大丈夫です」
父親は世間で胸を張って生きていた人間ではない。散々息子を振りまわし、結局事故で亡くなった。その上、母親がどこの誰なのか写真すら無いために全く分からない。
父親はそんな大切なことも恵太郎に告げずに亡くなったのだ。
「……ゆっくり考えるといいわ……。そうよね。今、思春期だもの……色々考えることもあるだろうし……。でもね。このうちのことや、私達のことを忘れないでね」
これでもう終わりという風に敬子は言った。
「……」
まだ完全に東の所に帰るわけではないのだが、多分そうなるんじゃないかなあと恵太郎は心の何処かで考えていた。
だから何も言わなかった。
お父さんのこと恨んでないけど……
父親が世間を騒がせた男であったために、恵太郎は当時随分とマスコミに追われた。親戚もいたのだが、誰も恵太郎を引き取ることはなかった。そんな中何故か東が恵太郎を引き取ったのだ。
その経緯は全く分からないのだが、東の秘書だという男に随分説得され、恵太郎は身柄を任せることにした。
父親は借金は無かったが、遺産も無い男だった。だがある意味、奇妙な……決して胸を張れない名誉だけは持っていた。
しかしそんなもので生き残った人間はお腹が一杯になるわけではない。
たった一人残された恵太郎が選べた道は、結局の所、東の言うとおりにするしかなかったのだ。
なにより恵太郎は東の事を嫌いではなかった。それも付いていこうと決心させた要因かもしれない。
僕は……
あの屋敷に帰るんだ……
何故か帰るという言葉が出るのは、東に拾われた人間が必ず最初に聞かされるという言葉を良く覚えているからだろう。
何かあったらいつでも帰ってくるといい。
相談事があるなら、どんな小さな事でも構わないから電話をしてくるといいんだよ。
ここが君の家なんだからね。
東の屋敷から佐中家に預けられるとき、筆頭秘書の真下がそう言ったのだ。恵太郎はその言葉を一度も忘れたことはなかった。
真下は恵太郎から見て、こうなりたい人物のトップに入っている。仕事も出来るが信頼に厚い人だとも聞いていた。
余り話す機会には恵まれなかったが、恵太郎は真下を尊敬していた。
「ケイちゃん。嬉しそうね……」
敬子に言われ、恵太郎は思わず顔を引き締めた。
翌朝、敬子やその娘達である三姉妹に見送られながら恵太郎は、東家から廻された車に乗り込んだ。なにの拘束から解放されるような気が一瞬したが、それを認めてしまうと、今まで恵太郎を可愛がってくれた人達に申し訳がない。
あと、父親代わりの充にも一言礼を言いたかったのだが、昨晩掴まらなかった。仕事が忙しいのだと敬子は言って、また連絡があったときに話すと言ってくれた。
「ケイちゃん……暫くの留守ね?」
敬子はそう言ってあくまで恵太郎が帰ってくることを前提に言ったようだが、恵太郎には多分もう戻らないだろうという予感があった。
「なんだか寂しいな……」
自分より二つ下の綾がそういって恵太郎を見つめてくる。まだ幼い顔立ちの綾は中学生だ。恵太郎と同じ歳である涼子は何も言わず、一つ上の知佳は一言「じゃあね」と言った。
敬子と、綾だけが本当に残念に思ってくれているのかもしれない。涼子と知佳とは、誰にも話せないことが恵太郎にはあったのだ。
なんだか逃げるみたいだ……
何も知らない敬子に対し、罪悪感だけが心の底に痼りになっている。だが恵太郎には何も言えなかった。
いいか……
仕方ないし……
「じゃあ……僕行きます……」
黒のリンカーンの後部座席に乗り込み、ようやく恵太郎はホッとしたが、自分の身なりと、荷物が急に貧弱に見え、スポーツバッグを抱きしめた。そうすることでようやく気持ちを落ち着けた。
元々お金に縁のない恵太郎には高級車や、見たこともない壺、幾らするか分からない絵など、目線に入るだけでも恥ずかしい気持ちに駆られるのだ。特にその症状は初めて東の屋敷に連れて行かれたときに思ったことだった。
違和感なく置かれたあらゆる物、そして自然に飾られている額縁……何から何まで恵太郎には縁のないものだった。金持ちをうらやむことが無い変わりに、自分の貧乏人根性に落ち込んだ。
僕は貧乏人だよ……
別にひねくれている訳でなく、ただそう考えただけだ。
丁度良いスプリングの効いたシートに深く座り込み、恵太郎は外を眺めた。
学校……
やっぱり転校になるのかな……
でも……
今の学校には確かお屋敷から通えるはずだけど……
転校の話は出ていなかったため、きっと屋敷から通うことになるのだろう。それで恵太郎は充分だった。
転校は避けたかった。
今の学校には少なくとも友達がいるからだ。
それで……
僕は……
何をしたらいいのかな?
行ったら分かるんだろうな……
小さく息を吐き、まだ想像も付かない東の屋敷での生活に思いを馳ながら恵太郎は目を閉じた。
数年ぶりに東の屋敷に戻ってきた恵太郎は、ここを出ていったときと同じように立っている家屋をみて、懐かしい気持ちに駆られた。
田舎に帰るというのはこういう気持ちを持つことなんだろうかと考えるほどだ。
入り口は二重のゲートになっており、二つ目のゲートを入ると目に飛び込んでくるのは広大な敷地に立てられた洋館風の建物だ。それは二階建てで横幅が広い。
敷地の左側には私設秘書が住んでいる、本家より小さな洋館がひっそりと緑に囲まれ立っている。
いつ見ても凄いなあ……
恵太郎は半開きになった口元を閉じることなくぼんやり見ていると、運転手の渡辺がくすりと笑いを漏らしたのが聞こえた。
……う
笑われてる……
渡辺に促されるまま、屋敷の玄関まで来ると、分かっていたように扉が開けられ、執事の正永が出てきた。
多分、敷地内に設置されている防犯用のカメラでこちらの姿を確認したに違いない。
「恵太郎さん。お久しぶりですね。正永ですよ。覚えてますか?」
正永は目尻に沢山の皺を寄せ、顔をくしゃくしゃにしながら笑いを向けてきた。
「覚えています。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいました?」
恵太郎はニッコリと笑みを浮かべ、正永に言った。
「わしはね……元気でしたよ。それよりもうこちらに帰ってくる年齢になったのですね……」
遠くを眺めながら正永は言った。
「僕……でも、呼び戻されて何をしたらいいのか分からないんですけど……」
不安げな表情で正永に言うと、正永は頭を撫でて言った。
「ちゃんと真下様からお話があると思います。何も心配することはないんですよ」
真下さんから……?
嘘みたいだ……
今まで真下とは殆ど話すことなど無かったのだ。それは秘書の間でも別格の存在であり、新しい人間や、秘書としてまだ経験の浅い人間とは真下は余程でないと接触しないからだ。
というより自分の持っている仕事が忙しいために、自室から出てこないためにそう思われがちなのだとも噂で聞いていた。
多分その辺りが事実に近いのだろうと恵太郎は考えた。
「ご案内しますよ……真下様から言付かっていましたので……」
言って正永は運転手に戻るように伝えると、天井まである重厚な扉を閉め、恵太郎に付いてくるように言った。
恵太郎は頷き、肩に掛けていたスポーツバックを両手で抱えた。何か抱きしめていないと安心できなかったのだ。
真下の自室は屋敷の一階奥にある。元々一階は外国からの客も収容できる応接とキッチン、ホールがあるのだ。二階が東と都の住まいになっているが、二人とも殆ど出かけているために滅多に会うことがない。
それほど二人は忙しくしている。
廊下を歩き、真下の自室前に立つと正永言った。
「真下様、恵太郎さんが到着されました」
「ああ、入ってくれて良いよ」
久しぶりに聞いた真下の声に恵太郎は、何故か懐かしさを感じた。