Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第9章

前頁タイトル次頁
「……それってどういう意味?」
 恵太郎は逸輝が何故そんな風に言ったの分からなかった。
「だから……ほら、俺は一人暮らしだからさあ、そんな大人ばっかりいるところより、俺んちの方がケイも気が楽だろう?数学なら俺が教えてやるって……」
 逸輝の父親はサラリーマンなのだが、現在海外に住んでいる。もちろん逸輝も海外にと言う話があったのだが、本人は友人もいないしかも慣れない外国で暮らすのは嫌だと最後まで突っぱねた末、現在はコーポで一人で暮らしていた。
 もちろん恵太郎は逸輝のコーポを知っている。しかも何処に何があるのかも知っているほど入り浸っていたのだ。テスト前や学校帰りにゲームをするために遊びに行ったりと、既に自分の家のように思っているところが恵太郎にはあった。
「……それが出来たら良いんだけど……」
 もごもごと言うと逸輝は更に言った。
「聞いてると、すっげー激悪の環境じゃないか……」
 そうだよね……
 僕だけがそう思ってる訳じゃないんだ……
「思う。けど……僕が自分で決めてここに帰ってきたし……」
 ある意味逸輝の提案に気持ちは惹かれるが、恵太郎は自分で決めて戻ってきたのだ。だから逃げるようなことはしたくなかった。もちろん環境で言えば、逸輝の言うとおり近い年齢の人間が一人もいない大人ばかりの所だ。しかも真下は厳しく、独りぼっちの部屋も寂しい。確かに優しく迎えられるとは思わなかったが、これほど厳しいとは思わなかったのだ。だからといってここから逃げる事は避けたかった。
「……大丈夫だよ……ちょっとさ、愚痴ってみたかったんだ。ごめんねこんな事聞かせちゃって……」
 恵太郎は誰かに聞いて貰いたかっただけなのだ。言えばスッキリすると考えたから話した。逸輝なら聞いてくれることを恵太郎も知っていたし、どんなことでも言える間柄であったからだ。
「それともさ……俺……ケイが慣れるまでそっちにいてやろうか?」
 ……?
「そっちって……どっち?」
「ああもう……だから、俺がケイの所に暫く一緒にいてやろうかって言ってるんだよ。俺は別に構わないし……ケイもその方が良いだろう?」
 何故か逸輝は鼻息荒くそういった。
「……それは……駄目だと思う。このお屋敷って真下さんが言ってたんだけど誰でも出入りできる場所じゃないんだって……だから……ごめん」
 慌てて恵太郎は逸輝を宥めるように言った。逸輝は昔かから喧嘩っぱやい所があり、それに助けられたこともあるが、困ったこともあったのだ。だが悪い人間ではなく恵太郎の事を本当に心配してくれているのを知っていた。
「じゃあさ、とりあえずそっちに一度様子を見に行きたいから真下っていう人に頼んでくれよ。あ、俺から言っても良いけど……。友達が遊びに行くくらい良いだろう?」
 ……
 それは良いと思うけど……
「う……うん。話してみる。僕も逸輝に会いたいし……」
 恵太郎は別に意味を含めるわけではなく心からそういった。
「あ……そうか……うん」
 だが、逸輝はなにやら照れくさそうな声をしていた。
「どうしたの?」
「え、いや……何でもない……じゃあ電話しろよな?俺いつでも良いし……」
 嬉しそうに逸輝はそういって電話を終えた。
 なんだか……
 逸輝って……
 やっぱり何時もテンション高い……
 ポケットに携帯を入れて恵太郎はまたベッドに身体を沈めた。今日はとても疲れたのだ。お腹も空いていたが、身体が怠かった。
 眠いし……
「夕飯はどうするんだい?」
 いきなり真下に声を掛けられ恵太郎は飛び上がった。
「……あ……え……な……あわ……」
 オロオロしていると、真下は呆れたような顔で言った。
「先程から呼んでいたんだが……ずっとお友達と話し中だったからね……済むのを待っていたんだ……」
 ……
 ええっ!
 き……
 聞かれちゃったのかな?
「あの……会話を聞いていました?」
 見上げるように真下の言うとニッコリと微笑んで頷いた。
 うわあ……
 最悪……
「……と、言っても最後の方だけだったがね……そうか、鳩谷君は私の悪口を言っていたわけだ……。だから慌てているのだろう?」
 ニコニコと笑いながらも真下はずばっと切り込んできた。あれが悪口になるのかどうか恵太郎には分からなかったが、もし聞かれていたとしたら捉え方によっては悪口になっていたのかもしれないと恵太郎は反省した。
「済みません……悪口を言ったつもりはなかったんです……。自分でここに帰ってくるって決めたのに……なんだか慣れなくて……寂しいのもあるんです……。年齢近い人もいないし……大人しかいないから……」
 昼間聞こえた井戸からの声といい、ネズミの死骸と言い、恐いことばかりだ。一人で寝られないと言うお子さまのようなことは言わないが、気味の悪い部屋で過ごすことを考えるとやはり気が進まない。かといって違う部屋にしてくれとは養って貰っている恵太郎には言えなかった。
「……まあいい。確かにここには君と年齢の近い秘書はいないから寂しいだろうと思う。そういうときは外に出かけると良いんだ。いいね?別にこの屋敷内から出るなと言っている訳じゃない。鳩谷君は学生らしい遊びを心がけて、東家という名前に恥じない行動をしてくれたら良いんだよ。難しい事じゃないだろう?」
 む……
 難しいんですけど……
 恵太郎にはどの様な行動が恥じない行動であるのかが分からないのだ。もちろん普通に毎日を過ごしている分には問題は無いのだろう。ただ、今までそんな家の事など考えて外で行動したことなど恵太郎には無い。
「……あの……恥ずかしくないって……どういう行動なんでしょう……僕……そんなの考えたこと無いので分からないんですが……」
 俯かずに精一杯顔を上げて恵太郎は言った。
「そうだね……要するに褒められて新聞に載るのは構わないが、世間に顔向けできないような事で新聞に載ることだけはよしてくれよ……と、言いたいんだ。普通に暮らしていたらまずそんなことは無いだろうが……。まあそれより夕食は何か自分で作ったのかい?」
 この話はこれで終わりというように真下は話を変えた。
「え……まだ……何も……」
「だろうと思った。本家の方に用意して貰っているから今から一緒にどうだい?」
 それを断ることは恵太郎には出来なかった。
 
 夕食を終え、本家の裏口から恵太郎が出ると昼間見た滑り台などの影が電灯に照らされて異様な影を作っていた。夕食の前に自分の住む建物の鍵と、自分の部屋の鍵を恵太郎は真下から貰った。
 真下が言うには真下の住んでいる屋敷を本宅といい、隣の洋館は離れと言うらしい。
 ……
 それにしても恐い……
 本家の裏口から出ると恵太郎の後ろで自動的に扉がガシャンという音を立てて締まったのだ。自動で鍵が閉まる音なのだろうが静まりかえった中で響くとビクッと身体が反応してしまう。
 風が出てきたのか、周囲に植えられている木が左右に揺れ葉を重ね合わせるたびにザワザワと音を立てた。
 ぼ……
 僕は男だ……
 ざわめく木々の不気味な木霊にビクビクとしながら恵太郎は道なりに灯されている明かりを頼りにして離れの方へ向かって歩き出した。
 ざざっ……
「ひゃっ!」
 いきなり横の草むらから黒い影が飛び出し目の前を横切ったので恵太郎は声を上げて腰を抜かした。しかしその影は猫だった。
「……ねっ……猫だ……」
 屋敷で飼われている訳では無いのだろうが、ぎらりと目を光らせた猫は「にゃあおおお」と、鳴くとまた草むらに飛び込み、姿を消す。草だけがジグザグに揺れ、その下を猫が走っていることを恵太郎にも分からせた。
「お……脅かすなよっ!」
 精一杯虚勢を張り、恵太郎は逃げていった猫の後ろからそう叫んだ。
 気を取り直し、恵太郎は尻餅をついた腰を上げ、また歩き出す。回りは真っ暗ではないが、住宅街ではないためやはり明かりの数が少ない。警備員の巡回はあるそうだが未だに恵太郎はその人達の姿を見たことはない。もちろん防犯カメラも玄関にあるものを除いて何処に設置されているのか全くわからない。
 今の僕の情けない姿……
 見られていたのかな……
 うう……
 恥ずかしい……
 本当はライト貸して貰いたかったんだけど……
 言ったら笑われるだろうし……
 でもおなか一杯で気分はいいんだよな……
 夕食は鍋だった。
 屋敷内の長い廊下を歩いて突き当たりにある小さな座敷で、そこのお手伝いさんが用意してくれたらしい鍋を真下と共に恵太郎は食べたのだ。最初は緊張し、ネギや白菜が喉に通らなかったのだが真下が色々楽しい話をしてくれた事で、気分も和らぎ楽しく夕食時間を過ごせた。
 真下は厳しいが、優しくもある。それは良く分かっていた。
 なよなよくんと言われても仕方が無いという事も恵太郎には分かっている。何時も俯いていたからそう見えるのだろう。
 目立つことは嫌なのだ。特に父親のことが世間で報じられ、その後の恵太郎は自分でも分かるほど小さくなって生きてきた。
 俯き、世間からの声から耳を閉じ、噂が消えてしまうまで、沈黙していたのだ。それから俯く癖が付いた。
 もう人々の心から父親の記憶は薄れ忘れられているだろう。それでも恵太郎は目立たぬように俯いてきた。そんな恵太郎に真下は顔を上げろと言ったのだ。今まで人の目が恐くて自分の足を見つめてきた視線を、真下によって無理矢理上げさせられた。
 この状態は違和感がある。見える景色がいままでと違うからだ。しかも真っ直ぐと視線を寄越す真下が恵太郎の気持ちを見透かしているように思えて仕方がない。
 真下は恵太郎の父である駿の同級生であり、それだけの関係ではなかったと想像できるほど真下は恵太郎の知らない父を知っていた。学生の時の話だけではない。駿が恵太郎と暮らしていたときのことも知っている。
 何故知っているのだろうか?
 問いかけても適当に誤魔化されたので、恵太郎には追求が出来なかった。
 どういう関係だったんだろう……
 やっぱり……
 芸人がキーワード?
 恵太郎は真剣に考えていた。
 離れの玄関口まで来ると、恵太郎は扉を開けて中にはいる。玄関は煌々と明かりがついていたが、二階や人気のない廊下の奥など薄暗かった。
 うう……
 やっぱり恐い……
 恵太郎は扉の鍵を閉めると自分の部屋まで速攻走って部屋に駆け込んだ。今日から住むはずの部屋はまだ慣れていないとはいえ、廊下にいるよりホッと出来た。
 なんか……
 ここって恐いよ……
 大きな屋敷に独りぼっちというのはかなり不安だ。もちろん恵太郎は幽霊など見たことはないのだが、何か出そうだという雰囲気は好きではなかった。
 お風呂に入って寝ようかな……
 数学の予習をするつもりでいたのだが、どうせ今更何をやったところで間に合うわけがない。そのうえ逸輝に山を張って貰うことも忘れていた。
 ああ……
 僕って……
 ほんと色々すぐ忘れちゃう……
 プルプルと頭を振り、恵太郎はバスに向かった。トイレ脇にあるシステムバスは小さいが恵太郎にこれくらいが丁度良かった。
 恵太郎は小さい頃、良く風邪を引く痩せた子供だったらしい。今はいない父親は、よくそんな恵太郎には心配させられたと零していたが、破天荒な父親の事を心配していたのは恵太郎の方だ。
 あーあ……
 バスの湯を張りながら恵太郎はじっと蛇口から流れる湯を眺めていた。
 これからは自分で色々しなくちゃならないんだ……
 でも元々自分でやっていたし……
 それは心配ないかな……
 今は慣れないけど……
 暫くしたら慣れるよ……
 お湯をパシャパシャと手でかき混ぜながら、時間がかかりそうなことに気が付くと、先にパジャマや下着を用意することにした。
 廊下に出て、ベッドのある部屋に戻ると何故か窓が気になった。もちろんカーテンが下ろされているので向こう側は見えない。それでも昼間の事件以降、見えない向こう側にある井戸が気になっていた。
 夜遅く……
 何か出てきたらどうしよう……
 ふっとそんなことを考えて、頭を振った。
 馬鹿だな……
 そんなのあるわけないよ……
 ははと一人で笑い、気になる窓から視線を逸らすと、コトンと外から音が聞こえたような気がした。
「え?」
 振り返ってみても窓に近寄る気になれない。早くなった鼓動だけが耳の奥で木霊していた。
 な……
 何かいるのかな?
 あ……
 そうか……
 猫……
 猫だよきっと……
 先程見た猫が屋敷の回りをうろついているのだと恵太郎は思うことにした。
 そうそう……猫。
 言い聞かせるように心の中で猫だと繰り返し、恵太郎は小走りにバスルームに入った。
 湯は半分ほど入っており、もう少しで八分目まで入る。まだ早いのだが、恵太郎はお湯に浸かりたくて、服を脱ぐと半分ほど入った湯船に身体を浸けた。
 上半身が寒いので身体をずらし、肩の近くまで湯に浸かった。白い湯気が辺り一面覆い、それと同時に恵太郎も気持ちがほぐれてきた。
 はあ……
 もういいや……
 明日零点取ってもさ……
 最初から酷い点数だと向こうも知っている。しかも恵太郎は苦手だとはっきり言ったのだ。それでもし全く解けなかったとしても少し恥ずかしい思いをするのを我慢さえすれば重要なことではないだろう。
 でも……
 憂鬱だな……
 すっごい厳しかったらどうしようかな……
 出来なかったら叩かれちゃうとか……
 恵太郎の想像する家庭教師は何処か偏見に満ちていた。
 
 風呂から出ると恵太郎は身体をタオルで拭いもってきたパジャマに着替えた。見慣れたチェックのパジャマはそれだけで気持ちを落ち着かせてくれる。
 次ぎに洗面所で歯を磨き、寝る支度を整え、部屋の鍵を閉めて電気を消した。そろそろとベッドに登り毛布に潜り込むと、フカフカの枕に頭を乗せて目を閉じる。
 はあ……
 疲れちゃった……
 今日は一日めまぐるしかったなあ……
 既に目はトロトロと睡魔に浸りだしていたが、ぼんやりとしたライトの明かりが天井から壁に移動するのが見えた。
 え?
 がばと起きあがり恵太郎が目を擦って明かりの元を探すと、カーテンに覆われた窓の向こうに光がぼんやりと浮き上がっている。
 誰か居るの?
 恐る恐るベッドから降り、恵太郎は息を殺しながら窓に近づいた。カーテンを開けてみたら分かるんだ……と考えながらも、お化けだったらどうしよう……とも思う。
 ぼ……
 僕は男なんだから……
 そう自分に言い聞かせた恵太郎はカーテンの端を少しだけ開け、外を見た。すると真っ黒な人影が見え、しかも手にライトを持っていた。
 何……
 誰?
 恵太郎はその人物を特定しようと目を凝らしてみたが、上から下まで黒っぽい姿をしているために誰だか分からない。しかも顔が見えたとしても恵太郎が知っている相手だとは限らない。
 どうしよう……
 片目だけカーテンから覗かせ、恵太郎はライトを持ってうろつく人間を暫く見ていたが、ふっと人影は立ち止まりこちらにライトを向けた。
 ひっ……
 恵太郎は思わずカーテンを閉じ、転びながらもベッドまで戻ると毛布に潜り込んだ。
 気付かれたのかな?
 まさか……
 泥棒さん?
 でも……
 警備の人もいるらしいし……
 監視カメラだって……

 コン……

 ……!
 窓……
 窓叩いてるの?
 びくびくしながら恵太郎はそっと顔だけをだして窓の方を見ると、ライトを持った人影がぼんやりとカーテンに映っていた。だがカーテンに映る人影は歪んでおり、とても普通の人間には見えなかった。

 コン……コンコン……

 ひ……
 ひゃあああああ……
 ど……
 どうしよう……
 助けを求めたいのだが、今この離れには誰もいないのだ。大きな家であるにもかかわらず、恵太郎だけしかここにはいない。
 
 コンコンコンコン……

 ガラス戸を叩く音が大きくなったところで恵太郎はもう堪らなくなり、廊下へ出る扉を開けて掛けだした。
 怖い……
 怖いよ……っ!
 自分が男だろうが、怖いものは怖い。もし犯罪者なら恵太郎など簡単に捕まえられてしまうだろう。
 脱兎のごとく廊下を走り抜け、恵太郎はひたすら玄関に向かった。ようやく玄関にたどり着くと鍵を開け外に飛び出し、靴を履くことも既に忘れている裸足で本家の方へと走った。本家へは裏口から入るように言われていたが、小さな小道を抜けて裏に回るだけの根性が今の恵太郎には無かった。
 いや、ただ明るい光のあるところを目指して走ったためにいつの間にか本家の玄関に回っていたのだ。
 来るかな?
 あいつ……
 あいつって言って良いのか分からないけど……
 恵太郎よりも背の高い玄関の扉をどんどんと叩き、恵太郎は必死に叫んだ。
「開けてっ!開けてくださいっ!僕……僕っ!」
 どんどんと叩きながら何度も振り返り、先程見た黒い影が視界に入らないかどうか確かめながら、手が真っ赤になるほど恵太郎は扉を叩いた。
「開けてっ……誰かいるんだっ……!」
 恵太郎は既に半泣き状態で、パニックに近かった。すると扉の向こうでガシャッという音が鳴り、扉が薄く開かれた。
「なんだ……どうしたんだ……」
 呆れた顔で言った真下に恵太郎は思わずしがみついた。
「うわ……うわあああああん……」
「……まさか……一人で寝られないのか?」
 更に呆れた声で真下は言ったが、決して恵太郎を突き放すことはしなかった。
「おばけ……お化けが……ううん。泥棒かも……僕の……僕の……わああああん……」
 自分でも何を言っているのか分からず、恵太郎はぎゅうっと真下にしがみついたまま離れることが出来なかった。
「真下様……恵太郎様はどうされたのですか?」
 騒ぎに驚いて起きてきた執事の正永が言った。
「ああ……怖い夢でも見たんだろうね……。警備の方から連絡が入ったんだが……大事にしたくなくて私が出てきたんだ」
 苦笑に近い真下の声に何故か恵太郎はホッと胸をなで下ろした。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP