「ユーストレス 第1部」 第7章
「宇都木……久しぶりだね。元気にしていたかい？」
扉を開けて入ってきた宇都木に真下は親しげにそう言った。
「はい。毎日充実しております」
言って微笑む宇都木は、満たされた表情をしていた。真下からすると未だに納得が出来ないとはいえ、宇都木にはやはり如月の側が一番なのだろう。
「ああ、座ってくれて良い……」
ソファーに促すと、宇都木は腰を下ろした。
「真下さん……。家庭教師の話は伺いましたがどういうことでしょう？」
宇都木は問いかけるような表情でそう言った。
「一週間ほど……邦彦がいないんだってね？」
テーブルに置いたポットから宇都木のためのコーヒーを紙コップに注ぎ、真下は言った。
「ええ……オーストラリアの方へ出張に昨日から出かけていらっしゃいます。私も同行したかったのですが、仕事場の方の留守を守る人間も必要ですので……」
言って宇都木は微笑んだ。
「忙しくても宇都木はいつも幸せそうだな……」
東家にいた頃はもっとぴりぴりとした雰囲気を持っていたのだ。だが今は全くそんな様子はない。
「まだ暇な方ですよ……」
「そうか……で、本題なんだが、高校生の家庭教師をして欲しい。もちろん会社が終わってからで良いんだ。構わないかな……？」
真下が言うと宇都木が苦笑した。
「私に家庭教師が出来るかどうか……そちらの方が心配なのですが……」
本人はそう言うが、宇都木は学業に関しても非常に優秀だったのだ。ただ、本人がこのような性格をしているためにそれを認めることをしない。
「いや……。宇都木は勉強が良くできたからね。高校生くらい何とかなるだろう？邦彦が留守をしている間だけで良いんだよ。今、良さそうな人物を探しているんだが、信用のある人間でないとここに出入りさせられない。数名見繕った中から身元調査をした上で雇うことになるから時間がかかってね。その間、宇都木に頼みたいんだよ」
手の中でコーヒーの入った紙コップを回し、真下は言った。
「高校生ですか……確か……鳩谷恵太郎さんがそろそろそんな歳でしたね」
思い出すように宇都木は言った。
「そうだよ。良く覚えていてくれた……。宇都木は見たことがあったかな……」
「一度だけですが……。もっと小さい頃の恵太郎さんです。真下さんが手を繋いでいたのを良く覚えていますよ」
宇都木は小さく笑った。
「そうだったかな……」
「……ええ。確か……そう、鳩谷君のお父さん……確か……駿さんのお葬式の帰りでしたね。泣いている恵太郎さんを真下さんが引っ張って歩いていたのを良く覚えています」
思い出すように宇都木は遠くを見ながらそう言った。
「ああ……そんな事があったなあ……」
あの時の恵太郎はただめそめそ泣いてばかりいたのだ。何を言っても全く聞かず、そんな恵太郎の手を取ってほとんど無理矢理このうちに連れてきた。
随分と昔のことに思えるな……
まだそれほど経っていないはずだが……
「その恵太郎君を頼みたいんだ。とにかく……ほんとうに数学が滅茶苦茶なんだよ。あれでは留年するかもしれん」
深いため息を付いて真下は言った。
「無茶苦茶ですか……」
目を丸くして宇都木は言う。
「他が平均を取れているから、元々の頭の造りは悪い訳じゃないんだろう。アルバイト料ははずむよ」
真下が言うと、宇都木は驚いていた。
「とんでもない……お金は頂けません」
大げさに両手を振って宇都木は断ってきた。
「貴重な宇都木の時間を割いて貰うんだからそれは支払わせて貰うよ」
「いえ……本当に……気になさらないで下さい。それと……こちらに毎日は伺えないかもしれませんが宜しいでしょうか？」
申し訳なさそうに宇都木は言った。
「来られるときで良いさ。しかし……宇都木……」
「何でしょう？」
「手芸の趣味を持つ男の子をどう思う？」
コーヒーを一口のみ真下は宇都木に視線を移した。だがそれほど驚いている様子はない。
「……恵太郎さんは手芸が趣味なんですか？」
「らしいね……一日でマフラーを編めるそうだ」
全く……
どういう趣味なんだと真下は考えていたのだが、宇都木は違うようであった。
「すごいじゃないですか……」
本気で宇都木は感心している。
「褒めている場合か？男の子だぞ」
そうだ。
男性だ。
私ならもっと男らしい趣味を持ってもらいたかった。
「もし彼にその才能があるのなら、伸ばしてあげると良いんですよ。私は秀でたものがありませんでしたので、ただの秘書しか出来ませんが、本来そういう才能を気付いた人間が伸ばしてあげるのが東家の方針でしょうし……」
本気で宇都木は言っているようであった。
「……ま……まあなあ……」
真下には苦笑するしか無い。宇都木は冗談で言っている訳ではないからだ。何事も真剣に捉える男であるからここで茶化すことは出来ない。
「いけませんか？」
首を傾げて宇都木は問いかけてくる。
「あ、いい。忘れてくれ……」
「……はあ……」
やや納得出来ないような表情で宇都木は言った。
「そうだ。白川の事だ」
話題を変えようと真下は白川のことを出した。
「白川さんがどうされました？」
「……それがなあ……」
それを話して良いかどうか真下にも判断が付かなかったが、宇都木が知っているのかどうか真下は知りたかったのだ。
「もしかして告白でもされたのですか？」
突然の宇都木の言葉に真下の方が驚いた。
「宇都木は知っているのか？」
「知っているも何も……ここにいる秘書は殆どその事を存じ上げておりますが……。ご本人も自ら公言されていますし……」
きょとんとした顔で宇都木はこちらを見る。
「知っているって……あの男はそんな話をべらべら話して歩いているのか？」
それは非常に困ると真下は本気で思った。
「ベラベラ話されている訳ではないのですが……。見ていても分かりますよ。真下さんは気が付かれなかったのですか？」
クスクスと笑いながら宇都木は楽しそうだ。
「知らなかったよ。時折、奇妙なことは言っていたが……」
真下自身、ゲイに理解はあってもそんな目で男性を見たことがないために、自分に向けられる愛情や好意など気が付かなかったのだ。
「奇妙……というか……そのまま私には告白に聞こえていましたが……」
相変わらず笑い顔で宇都木は言う。
「……鳩谷君の父親と私が出来ていたのかと言われたんだよ……驚いた」
「違うんですか？」
真顔で宇都木に言われ、真下はコーヒーを吹いた。
「ううううう……宇都木っ！お前まで何を言ってるんだ！」
「だ……大丈夫ですか？いえ……その……先代の海老原さんがおっしゃっていたので……。だから私と邦彦さんとの仲も許して貰えたのだと思っていたのですが……」
海老原というのは以前秘書を統括していた人物であった。すでに七十を越え現在は全ての権限を真下に譲り自身は隠居している。
「ち……違う……。もしかして……みなそう思っているのか？」
「……それは知りません……。ただ海老原さんが、鳩谷さんと真下さんが一緒にいる姿を指さして、あれは愛を育んでいるんだよ……っておっしゃってましたから……」
見上げるような視線で宇都木は言った。
「……ああ……もう……海老原さんは何を広めてくれたんだ……」
はあああと深いため息を付き、真下は肩を落とした。だからあの白川が訳の分からない態度を取ってきたのだろう。しかも他の秘書もそうなのだと擦り込まれているに違いない。
「……海老原さんは確信されていましたが……違ったのですね」
どこまでも真面目に宇都木は言う。
「いちいち弁解するとなにやら余計に誤解をさせてしまいそうだな……まあいい……放っておく。そんな噂に構っていられるほど私は暇じゃない。全く……」
いつの間にかずれた眼鏡を戻しながら真下は座り直した。
「あ、もしかして……」
ふと真下は思い出したことがあった。
「どうされました？」
「恵太郎君に、聞かれたよ……そんなことをね……。本人はゲイが何かを分からないようだったから良いんだが……。ただ、ここに連れてきて良かったんだろうかと今フッと思った。教育に悪いような気がする……」
心臓の辺りを押さえながら真下は言った。
「……子供もいずれ大人になりますよ。温室で育てるのは感心しませんね。多少揉まれた方が恵太郎さんも立派な大人になるかと……」
確かに宇都木の言い分も分かるが、どうも真下には納得がいかなかった。
「宇都木……それは恵太郎君を見てから言ってくれ。あれは……普通の天然じゃないぞ……もまれても天然は天然だろう……大人になれるかどうか分からないね」
本気で真下はそう考えていたのだ。
「はあ？」
宇都木は分からないという表情だ。
「ああ……紹介した方が早いな。今、時間はいいか？」
言って真下は腰を上げた。
「ええ……帰ってもする事がありませんので……」
ニッコリと微笑んだ宇都木に真下は更に言った。
「ビシビシ教育してくれて良いぞ」
宇都木は苦笑した笑みを浮かべた。
運送業者が持ってきてくれた自分の荷物が入った箱を開け、本棚に本を片づけていると、また真下がやってきた。その後ろにはほっそりした男性がつきそっている。
また新しい人の紹介？
恵太郎が顔を上げると、その男性はニッコリと微笑んだ。
「今晩は……」
「あ……今晩は……」
真下の方に助けを求めるような目線を送ると、苦笑いを浮かべていた。
「彼は宇都木未来といって、さっき話していた君の数学を見て貰う先生になって貰う。優しそうに見えてこれで厳しいから甘えるんじゃないぞ」
恵太郎はその言葉に肩を竦めた。
「……数学……」
「そうだ。頑張るんだね。ああ、宇都木。どういう場所を今やっているのか見てやってくれないか。私もまだ仕事があってね」
真下は言って、すでに身体を反転させていた。
「ええ……構わないですよ。帰りにまた本家に寄ります」
宇都木のその丁寧な口調がなんだかとっつきにくそうに恵太郎は思った。
「あ、それと。彼が俯いたらその度に小遣いを１００円マイナスする事になっているから、宇都木も数えて置いてくれ。帰りに教えてくれたらいい」
と、余計なことを言い、真下は去っていった。
あんなの……
言わなくていいのにーーーー！
ぺったりと床に座り込み、溜息をついていると、宇都木が言った。
「今どういう勉強をしていますか？」
い……
いきなりだあ……
「え……えっと……僕、今日こっちに引っ越してきたばかりで……まだ荷物をちゃんと片づけてないんです……」
あわあわと今開けていた箱をかき混ぜてみたが、問題の教科書類が無い。
「手伝いますよ」
言って宇都木は腰を下ろし、箱に手を入れてきた。
「あ……僕……自分でしますから……」
と言って止めたが、遅かった。
「……上級手芸……」
本の題名を口ずさまれ、恵太郎は真っ赤になってしまった。
「そういえば、真下さんから窺いましたが、恵太郎さんは手芸が得意だそうですね」
にこやかに宇都木に言われ、恵太郎は俯きそうになった。
「……は……はい」
恵太郎さんなんて言い方……
恥ずかしいよ……
「素敵ですね。私にはそんな趣味がありませんので、とても羨ましいです」
……
なんだかイメージが……
恵太郎は宇都木のことをもっと恐いタイプを想像していたのだ。多分身体にぴったりと合ったスーツを着込んでいるせいだろう。それで隙が無いように見えたのだ。
「そうですか？」
そろそろと宇都木の方を見て恵太郎は言った。
「ええ。それほど好きで上手なら、将来先生になれば良いんですよ。好きなことをして働くのが一番良いことですから……」
宇都木は言って手芸の本をこちらに返してきた。
「男だけど良いかな……」
真下には男がそんな趣味を持つこと自体変だという風に言われたのだ。そのことに恵太郎は随分と傷ついていた。
「男だから駄目な職業があるんですか？」
不思議そうな顔で宇都木が言う。確かにその通りだと恵太郎は思った。
「そっか……そうですよね。僕、将来、手芸教室でもひらこうかなあ……」
初めて認めて貰った事で恵太郎は本当に嬉しかった。
「でも、まず学生としてしなければならないことをきちんと学ばないと駄目ですね」
ぴしゃりと言われ、恵太郎は笑うしかなかった。だが最初、どちらかというと白川に近いタイプに思えたが、こうやって話してみると宇都木はとても話しやすい。しかも白川に感じたとげとげしさが無い。
かといって優しいだけで無いのは恵太郎も宇都木の雰囲気から分かる。
「高校になると数学も急に難しくなりますからね……。最初に躓くと本当に嫌になるんですよ……」
と言った宇都木は既に恵太郎の教科書を持って中身を見ていた。
す……
素早い……
何処に入っていたんだろう……
ノロノロとしている恵太郎とは違い、おっとり見える宇都木の行動は驚くほど素早い。宇都木の持つ雰囲気の所為かバタバタとしているように見えないのだが実際はてきぱきとした動きでそつがないのだ。
「全部嫌いですか？」
教科書を見ていた宇都木の顔が急に上がった。
「え……」
「数学が全部嫌いなんでしょうか？」
「……そうなんです……数字が嫌いなんです……」
そう言うと宇都木は楽しそうに笑った。
「答えが一つしか無いものですから、公式と少しの応用が出来れば、平均くらいすぐに取れるようになりますよ」
胸を張って宇都木は言う。
「宇都木さんは数学が好きなんですか？」
信じられないと言う表情で恵太郎は宇都木を見た。
「ええ……」
「だって……国語の方が色々答えがあって楽しいと僕は思うんだけど……」
恵太郎は作者が何を考えていたのだろうかと色々空想にふけるのが好きだったのだ。時には主人公になりきったり、自分が何か違う人間になれるような気がするのも本を読んでいる時だ。
「私は……沢山の答えがあるものは苦手なんです。例えば、ある文章を読んで作者はこの時どう思ったか？と、問われても私は作者じゃありませんから分からないですと答えを書くしかありませんからね……。本当にそんな答えを書いたことはありませんが、何時もそう思っていたのは確かです。でも漢字を覚えたりするのは好きでしたね」
……
なんだか宇都木さんって……
絶対変わってる……
「僕と正反対なんだ……」
「そうかもしれません」
きっと宇都木はとても優秀な成績を収めていたに違いない。恵太郎とは別の世界の人間なのだと考えた。
数学が好きだなんてどこまで行っても恵太郎には言えそうにないからだ。
「さてと……大体どの当たりを今習おうとしているのか分かりましたので、明日にでも実力テストをしましょうか……。私の方も恵太郎さんの大体のレベルを把握しておきませんと、どこを中心に強化して良いのか分からないですので……」
天使の微笑みが悪魔に見えてしまった。
「そんな……突然すぎる……」
「突然だから本当の実力が分かるんですよ。別に予習はしなくていいですからね」
……
うう……
結構厳しいかもしれない……
「はい……」
仕方なしに恵太郎はそう言った。
「じゃあ……そろそろ戻ります。明日……そうですね八時頃参りますので……」
宇都木はそう言って立ち上がった。
「宇都木さんって、本当はどういう仕事してるんですか？」
恵太郎には想像が付かなかったのだ。
「秘書です」
「秘書？それって女の人がする仕事じゃないんですか？」
驚いた顔で恵太郎は聞いた。
「いいえ。男性も沢山いますよ。仕事に男女の区別はありません。だから恵太郎さんが手芸教室を将来開いてもおかしくなどない時代だと思うのですが……違いますか？」
どうしてそんなことを聞くのかという表情で宇都木は言う。もしかして恵太郎が世間知らずなだけなのかもしれない。
「ごめんなさい……僕なんにも知らなくて……」
「良いんですよ……」
宇都木は全く気など悪くしたような様子はなかった。
「明日実力テスト……なんですよね……」
忘れて欲しいのだが、どうあっても宇都木はテストを実行しそうであった。
「ええ……」
「じゃあ僕……逸輝に山を張って貰おう……」
逸輝は恵太郎の同級生で、一番仲の良い友人だ。何の因果か幼稚園の頃から腐れ縁は続いている。
「逸輝……さん……ですか？どなたでしょう？」
「僕の同級生で、何時もテストになったら山を張って貰ってるんです。それで僕、何時も助かってるんです」
「そうなんですか……じゃあ……私も意地悪な問題を幾つか作ってきますね」
……あ……
言わなきゃ良かった……
恵太郎が後悔しても遅かった。
「明日、逃げちゃ駄目ですよ」
じっとこちらを見る宇都木は真面目な顔でそう言う。逃げる場所などどこにも無いのだからどうあってもテストは受けなければならないだろう。
「……は……はあい……」
肩を落としながら恵太郎は観念した。
「それと……」
何かを思い出すように宇都木は言った。
「え？」
「５００円ほどマイナスになってしまいますね……」
僕……
五回も俯いた？
か……
数えてたんだ……
「そんなあ……」
「今日は顔合わせですから、真下さんには内緒にしておきますよ。どういう取り決めを恵太郎さんがしたのか分からないのですけど、ちょっぴり可哀相ですからね」
言って宇都木は恵太郎の頭を撫でると、そのまま部屋を出ていった。恵太郎の方と言えば気分が最悪になっていたのは言うまでもない。
真下がパソコンに向かって雑多な処理を片づけていると、宇都木が戻ってきた。
「宇都木の印象は？」
パソコンからやや顔を上げ、宇都木の方を真下は見た。すると表情がやや曇っていた。
「そうですね。依存心が強そうな感じですね……」
宇都木は自分のことに関しては全く駄目なのだが、第三者としての目はとても鋭いものを持っていた。
「だろう……」
笑いながら真下はキーボードから手を離した。
「気になったのですが……お友達で逸輝さんという方がいらっしゃるようですけど、どんなお友達でしょう……」
ちらりと宇都木はこちらを見る。
「逸輝……まてよ……」
がさがさと恵太郎の経歴などを書いた書類を繰り、友人関係を確認した。
「……ああ、駒井逸輝……すごい腐れ縁だな。幼稚園から一緒だ……」
真下は初めてそのことを知った。
「彼がどういうタイプか調べた方が良さそうですね」
にっこりと笑った宇都木の表情は東家で秘書をしていた頃と変わりないものであった。