「ユーストレス 第1部」 第24章
「逸輝ーーーー!」
井戸の縁に手をかけて、恵太郎が叫ぶ。覗き込む井戸の底は真っ暗で、水面すら見えない。何度も恵太郎が叫ぶと、下から呻くような声が聞こえ、次に逸輝の声が響いた。
「あいた……あたたたた……。なんだ、ここ……」
「逸輝っ!逸輝っ!大丈夫?怪我、怪我してない?」
大きく身を乗り出して、恵太郎が必死に叫ぶ。もし、どこか折れていたらどうしようとそればかり恵太郎は心配だったのだ。
「腰を打ったけどな~!怪我はしてないから、大丈夫だっ!ていうか、ここ、水ねえよ。井戸じゃないみたいだっ!横に道がある」
下から逸輝は声を張り上げて叫ぶように言う。それが井戸の内側に反射して、エコーしながら恵太郎の耳に届いた。とはいえ、それほど井戸は深くないのか、逸輝の声は遠くから聞こえているようには思えなかった。
「ねえ、僕からそっちは真っ暗で見えないんだけど、深いの?」
「深くはないみたいだぜ。ケイの顔もよく見えるしさ。でも、這い上がれるほどの距離じゃないみたいだ。底にマットみたいな、柔らかいシートが敷いてあって、俺が落ちたとき、そいつがクッションになってくれたみたいだな。だから怪我はしなかった」
じっと井戸の底を見つめていると、ようやくぼんやりと逸輝の姿が恵太郎の目に映った。外の明るさに慣れた瞳は、覗き込んだ井戸の暗さに慣れずに、暫く見えなかったのだろう。
慣れてくると、井戸を作っている石の重なり合いや、そこに生えている雑草まではっきりと見え出した。
「どうしよう……」
「横に道があるから、そっちに行ってみるよ。どこかに出口があるんじゃないのかな……」
逸輝は慌てることもなくそう言った。
「僕、真下さんを呼んでくるよ。危険かもしれないから、逸輝、そこにいてよ」
その声に逸輝は答えなかった。横道があるといっていたから、既にそちらに向かって歩いていったのかもしれない。
恵太郎は井戸の縁から手を離すと、本家に向かって走り出した。この場所は、妙な男がうろついていた所なのだ。あれは、真夜中のことだが、昼間現れないとは言えないだろう。真下も知らない誰かが、フラフラと彷徨っている可能性だってある。
もしかすると、あの井戸の中に住んでいるかもしれない。そうなると、逸輝が下で鉢合わせしてしまう。
恵太郎は額に汗を浮かばせながら、本家の裏口から中に駆け込むと、真下の部屋に走った。途中で息が切れてしまいそうなほど、喉が痛くなる。
「真下さんっ!」
扉を開けて恵太郎が叫んだものの、部屋には誰もいなかった。
「恵太郎様。真下様は既に食事に行かれましたよ」
いきなり背後から声をかけられて、恵太郎は振り返りながらも後退した。
「どうされたんです?」
執事の正永の方が恵太郎より驚いた顔で言った。
「いえ……あの。真下さんに話が……」
「通路を真っ直ぐ奥まで行った、その手前の部屋で剣様と食事を摂られているはずですよ。恵太郎様もおいでになるようにと言付かってます」
正永のにこやかな表情に、恵太郎はとりあえず「ありがとうございます」と、言って、今度は廊下を走った。後ろから、正永が「走ってはなりません……!」と、叫んでいたが、今、恵太郎にはそんな言葉など聞こえなかった。
通路の奥まで走り、正永が教えてくれた部屋を恵太郎はノックもせずに扉を開けた。すると当然のことながら、真下は厳しい顔で恵太郎の方を見て、剣の方は笑いを堪えていた。
「ノックも無しに駆け込んでくるとはどういうことなんだ?しかも、廊下を思いきり走っていたのは鳩谷君だったのか」
真下は呆れつつも、きつい口調でそう言ったが、恵太郎は堪えている暇はなかった。
「逸輝がっ!逸輝が大変なんですっ!」
ゼエゼエと息を吐き出しながらも、恵太郎はようやくそう叫んだ。
「逸輝?そういえば、昼前に来たという話は聞いていたが……彼がどうしたんだ」
恵太郎の尋常ではない様子に、真下が腰を上げた。
「僕の……僕の窓から見える……あの、井戸、井戸に落ちちゃったんです!」
その言葉に、剣が飲んでいたお茶を吹き出して、真下は目を大きく見開いた。
「井戸に……落ちたって?」
真下の方は顔色を変えて、戸口にいる恵太郎の前に立った。
「はい。ちょっとふざけてたら……その……逸輝が落ちて……あ、怪我はしてません。逸輝は元気なんですけど……井戸を上がることができずに、下でうろついてるんです。なんでも横道があるって言って……そっちに歩いて行っちゃったみたいで、後から僕が声を掛けても答えてくれなかった。だからその……どこかに出口があるんだろうと思うんですけど……そうなんですか?」
窺うように下から見つめていると、真下は困惑した表情を恵太郎に向けた。何か不味いことでもあるのだろうか。そんな表情だ。
「下から開けるしか無いだろう。井戸からはとても無理だろうしな。横道を歩いて行ったのなら、どうせ見られてる」
剣が、テーブルを布巾で拭きながら淡々と言った。二人とも何か緊張しているように恵太郎には思えたが、それがどういった理由からなのか分からない。
「そうだな……困ったことをしてくれたよ……」
真下の言葉に、恵太郎は肩を竦めるしかなかった。
「あのう……」
「君はここで待っていてくれたらいい。私が行ってくる」
「真下。どうせなら連れて行ってやればいいだろう。その子に権利はあるだろうし、丁度よかったじゃないか」
剣は、自分でお茶を入れて、言う。権利があるというのはどういうことなのか、恵太郎には全く想像ができない。
「それはそうなんだろうが……」
困ったように真下は言う。
「真下さんがここで待ってろっておっしゃるのなら、僕、ここで待ってます」
二人の間に漂うただならぬ気配を察した恵太郎はそう言った。真下を困らせるつもりなどなかったのだ。逸輝があんなことさえしなければ、恵太郎は突き飛ばすこともなかったし、落ちることもなかったのだろう。とはいえ、恵太郎に非があることは自覚していた。
あそこに井戸があることを知っていたのは恵太郎であり、逸輝は知らなかったのだ。というより、逸輝には井戸のことなど全く頭になかっただろう。危険だと言うことを恵太郎さえ注意していたらこんなことにならなかったのだ。
逸輝が無事であるから、まだ余裕があるが、これで大けがでもしていたら、恵太郎はどう責任を負っていいのか分からないところだった。
「……いや……。剣の言うとおりだ。君を連れて行った方がいいんだろう。どうせ話すつもりだった」
真下は決心したようにぽつりと言った。
「……はい。でも……もし、都合が悪いなら……僕は、いつだって……」
恵太郎の肩を真下は軽く叩き、促すように扉を開けた。恵太郎は剣にぺこりと頭を下げると、先に歩いていった真下を追いかけた。
「走らない」
ぱたぱたと音を立てて走る恵太郎を振り向くことなく真下は言う。広い背中が恵太郎を拒否しているようにも思えて、胸がチクチクと痛んだ。どう悪いことをしたのか分からないまま、それでも真下が怒っているのが分かる。怒らせるつもりなどなかったと、口に出して言いたいのだが、そうすると余計に怒られそうで、恵太郎は無言で後を追う。
途中、正永とすれ違ったが、真下が何か目配せをしたのか、何も言わず、チラリと恵太郎の方に視線を向けただけで、通り過ぎていった。
どうしよう。
怒らせてしまった……。
後でどんな風に怒られるのだろうか。
今のところ、真下は無言でいるが、沈黙ほど怖いものはないのだ。冷や汗を額に浮かばせていると、恵太郎に真下が言った。
「隠しておくつもりはなかったんだよ」
「……え?」
「君のお父さんの事だ」
「……はい」
「少しだけ……分かるかもしれないね。君にはすぐに理解はできないだろうが……」
淡々と話す真下の口調にはどこか、懐かしむようなものが感じ取られた。