Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第19章

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 窓から視線を外し、目と目の間をメガネを外して揉む。ひどくつかれているのか、触れた部分からじんとした痛みを感じる。顔を上げ、外したメガネを掛けると、いつの間にか目の前に剣が立っていた。
「つ……剣っ!いつ、入ってきた?」
「今さっき。随分と考え込んでいたようだから声を掛けなかったんだ」
 剣は額にかかる真っ黒な髪をかき上げ、真下の前に座る。目つきが鋭く、どちらかと言えば秘書と言うより剣は、影で暗躍するのが似合うタイプだ。とはいえ、剣の情報収集能力はどの秘書よりも抜きんでていた。
 一体どこから集めてくるのだ……という内容も時には含まれるが、それを何処で手に入れてくるのか、真下は深く追求したことはない。求めたものが用意されたらそれで良いからだ。
 パッした印象は、どちらかというと目立つ容貌をしているのだが、濃いグレーのスーツを着て、佇んでいると不思議と周囲に溶け込むのが剣という男だった。
「驚かさないでくれ。それでなくても色々と最近はごちゃついて、頭が痛いことばかりなんだ」
「珍しいな。真下が弱音を吐いている」
 細い目を更に細くさせて剣は笑った。
「それより、帰ってきていたのなら、先にどうしてここに来ない。全く……白川の事が気になるのは分かるが、挨拶くらいしろ」
「ああ、私は彼の精神科医だからな。色々と悩んでいるようだったから相談に乗っていただけだ。駿の息子が来たことで動揺しているんだろう」
 剣は勝手にテーブルの上に置かれている紙コップに、コーヒーを入れると、一気に半分まで飲み干し、一つ息を付く。
「だれが精神科医だ。君は、秘書だろう」
「そうだった」
 ニヤリと口元だけ歪ませて剣は笑った。
 食えない男というのはこういう相手を言うのだろう。
 真下と年齢がさほど変わらないせいか、剣はいつもこんな調子だった。
「全く。白川をまた箱に入れて苛めたんだろう……」
「別に箱に入れて苛めた訳じゃないさ。あの男のトラウマは根本的に『ミカン箱』なんだからな。たまに押し込んでやればストレスも解消されるって事だ。妙な男だが、可哀想な奴だよ」
 小さい頃、そうやって両親に虐待された白川は、いつまで経ってもミカン箱にこだわっていた。白川にとってそれが本当は怖い存在であるのか、そうでないのか、真下にもはっきりしないのだが、一番安心して落ち着く場所が『ミカン箱』らしい。
「時々白川が不憫になる」
「趣味だと思えばいい。箱に入ってホッとするなら、安いものだろう」
 剣は軽く考えているようだが、真下は違った。
 幼い頃に受けた傷がまだ治りきっていないからこそ、白川は箱にこだわっているのだ。いずれ箱からは卒業させてやらなければならない。
 とはいえ、方法など真下には思いつかないのだから、今のところ剣に任せていると言った方が良かった。
 剣は、好きなら入らせてやれと言う。
 嫌な過去だからこそ、逆にそれらと向き合うことで、傷が癒されるそうだ。自分から箱を捨てることが出来て初めて心の傷が治療されたことになる……と、剣は、昔かじった精神科医の知識からいつも真下に言って聞かせる。
 それは耳にたこができるほどだった。
 あながち的はずれでもないのだろうが、剣のやり方が少々、荒っぽいこともあり、真下は心配していた。
 かといって、幼い頃一度終えた治療を、今更再開するわけにもいかない。
 今、白川は日常生活を普通に過ごし、秘書としても充分な戦力だ。人付き合いの下手な部分は、個々の性格なのだから無理矢理どうこうしようと真下は考えなかった。
 仕事さえ、きちんとこなしてくれたらそれで良いのだ。
 人は誰でも心に傷を秘めている。
 向き合おうとする前向きな心があるうちは、何とかなるものだと真下は信じていた。
「だがな、真下。そんな免許でも取らなければ不味い事態になってる」
「佳行さんか?」
「ああ、優しいだけの男にヨーロッパ地方を任せるのは無理だと思うが」
 言って剣はまたコーヒーを飲んで、空になった紙コップを手の中で握りつぶした。
「だからお前を付けているんだろ?そう言わずに面倒を見てくれ。だがまあ、何かあったからお前が戻ってきたんだろうが……」
「ご明察の通り」
「……弟に任せた方が良いか?」
「聞かなくても私は最初からそう言ってるぞ」
「そうか……」
 佳行は都の弟にあたる森野の息子だが、優しすぎる性格が徒になり、思い切った采配が振れない。だからいつも危なっかしい経営をしてしまうのだ。
「私から東様にそう伝えておくよ。仕方ない」
「そういえば、宇都木がここから出たそうだな。そのことでも白川が堪えているようだ」
 新しい紙コップを取り、また剣はコーヒーを入れた。
「どうして白川が宇都木を気にしているのか分からないんだが……」
「白川は自分と同じように不幸だった宇都木が一人だけ幸せになったのが気に入らないんだろうな。口に出して言うことは無いが、多分そうだと私は見ているよ」
 小さく笑って剣はコーヒーを飲んだ。
「幸せか……どうなんだろうな。私にはあれが幸せだとは到底思えないんだ。ただ、選んだのは宇都木だから私は何も言えなかったよ」
 東がこだわるよりも、実際のところ一番手放したくないと思っていたのは真下の方だった。
 あれほど私心無く誰かに尽くす男は滅多にいない。
 ああいう男は地位も名誉も望まないから、時に策略高い人間が蜜に群がる蜂のように集まってくるこの屋敷で、真下は安心できたのだ。
「真下は宇都木を買っていたからなあ……そうだな。私もそう思うよ。あれは性格のいい男だった。ただ、少々自虐的ではあるが……」
 フッと口元に笑みを浮かべて剣はコーヒーカップを手の中で揺らした。
「まあ、宇都木のことは良いが、白川だな」
「あれもお前が一晩でも抱いてやれば、飼い猫のように素直になるんだが。どうだ、試してみるか?」
「は?」
「なんだ。まだ気付かない振りでもしているのか。面白くない男だな」
「……何を言い出すかと思えば……。」
「やや本気ではある」
 意外に真面目な顔で剣は言った。
「……よしてくれ。私はそういうことは冗談でも駄目だ。男に対して恋愛感情を持てないんだよ。人様はどうであれ……な」
 はあとため息をついて真下は手を振った。
「それもどうでもいい話だったな。駿の息子の話がしたかったんだ。東様は何を考えていらっしゃるんだ?」
 覗き込むように剣は下からこちらを眺める。
「ああ……駿と同じ事をさせたいようだ。ただ、同じと言っても別に続けてもらいたいと考えていらっしゃるわけではないようだ。単に、世間で思われていたような父親ではなかったと、経験してもらって、理解してもらおうと思われている節がある」
「経験か。まあ、言葉で話したところで理解など得られないだろうが、かといって同じ事をさせるもの問題があるんじゃないか?」
「あるだろうね……あの件では随分とあちこち手を回して、真実を封印したから……それは駿が望んだことだったというのもあるんだが……」

 真実を明るみにすれば関わった人間全てが傷つく。
 そんなことを俺は望まない。

 駿がそう言ったからこそ当時、真下は使えるものは全て使って本当のことを消し去った。だが、そのことで傷ついた息子がいたのだ。
 いわれのない罪を被り、犯罪者と扱われた男には息子がいたのだ。恵太郎が、それを知った当時、どれほど傷ついただろう。
 それらを考えると真下はいつでも胸の辺りが苦しくなった。
「コーヒーを入れてやろうか?」
 真下の気持ちを察したのか、剣はカップを取り、コーヒーを入れた。

 夜半遅く、恵太郎が目を覚まして辺りを見回したが、やはり真下はいなかった。結局、ソファーで眠っているのだろうと思った恵太郎はそろそろとベッドを下りると仕事場への扉をそっと開けて様子を窺った。
 だが、真下は、恵太郎が初めて見る男性と話をしていた。
 多分、仕事の打ち合わせでもしているのだ。
 恵太郎は目を擦って、今、三時なのを確認した。世間は既に寝静まっている時間だ。それでも二人はなにやら難しそうな顔をして、話をしている。
 これほど仕事熱心な人間を恵太郎は見たことがなかったが、もしかするとここにいる秘書達はみな、このような生活をしているのかもしれない。
 恵太郎には秘書が何をする仕事であるのか今のところよく分からないのだが、皆が忙しそうにしているのだけは分かる。そんな中、独りだけ浮いているのが恵太郎だった。
 ただ、彼らの姿を見て奮起するほど、恵太郎は愚かではなかった。自分を良く知っていたから。
 勉強をどれだけ頑張ったところで、秀才や天才になれない。
 もともと恵太郎は勉強嫌いなのだから、知識の蓄積という作業など、黙々と出来るわけがないのだ。
 一体何のために東は恵太郎をここに呼び戻したのだろう。
 ここでは自分のやりたいことを自分で決められると聞いていた。全ての人間が秘書になるわけではないと。
 なのに、将来はこうしたいと、恵太郎がまだ見えない未来を語ったところで真下はいい顔をしない。
 それとも何か真下が望むような答えがあって、恵太郎がそれを口にするのを待っているのだろうか。
「それで……あの坊主をどうしたいんだ?」
 見たことのない男が口を開いた。
「できれば……」
 真下がすぐに答える。
「私から言えないが、鳩谷君にはこのうちから出ていってもらいたい」
 その言葉に恵太郎は身体が硬直し、岩にでもなった気分に陥った。
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