「ユーストレス 第1部」 第2章
部屋は右側の壁に本棚が置かれ、窓際に天然ブナの机がどっしりと構えていた。その上にデスクトップのパソコンに、プリンターなどがあるのだが、周囲に積み上げられた書類が箱の中からあふれ出しそうであった。
その部屋の真ん中にこぢんまりとした応接セットがあり、真下はそこに座っていた。
「……こ……こんんちは……」
視線を逸らせながら恵太郎は言った。
「まあ、堅苦しい挨拶はいいとして、こっちに座ってくれないか?ああ、正永さん。ごくろうさまでした」
真下がそう言うと、正永は軽く頭を下げて、部屋から出ていった。それを見送り、恵太郎は不安げな顔で暫く扉の所に立ったまま、真下を再度見た。
「……同じ事は二度、言わないよ……」
真下はソファーに座り、書類に目を通しながらこちらをチラリとも見ずにそう言った。
「す……済みません……っ」
慌てて恵太郎は真下の前のソファーに両足をそろえて座った。もちろん持っていたスポーツバッグは足元に置く。
真下はやや面長の顔立ちで、鼻筋が通っており、顎がくっきり出ているのが印象的だ。元は艶のある太めの髪は量が多く、毛先が何故か茶色かった。
染めるのに失敗したような毛先が、隙のない雰囲気に柔らかさを添えているような気が恵太郎にはした。
その真下は相変わらず無言で書類を眺めていたが、急にぱさりと机の上にそれらを置いた。
「コーヒー……飲むかい?」
顔を上げ、真下は言いながらテーブルの端に置かれたポットに手を伸ばしていた。同じように紙コップと籐のかごに入れられたフレッシュと砂糖が置かれているのは、一人で飲むためのものなのだろう。
「あ……はい……」
恵太郎はそれだけを言い、また言葉に詰まった。
緊張しすぎた恵太郎はかちこちに身体を固まらせ、真下から差し出されたカップを受け取った。
「……ありがとうございます……」
「いや……一人で飲むのは失礼だろうからね……」
真下はそこでようやく、口元を緩ませた。
「お……美味しいです」
恵太郎が額に汗を滲ませながらそう言うと、真下は目を丸くした。
「器用だね……君は。一口も飲んでいないのに美味いのか?まあいいが……」
苦笑しながら真下は先程見ていた書類を手に取った。
「……あ……す……済みません……っ!」
顔が真っ赤になり、謝ることしか出来なかった恵太郎は、既に真下の方を見ることなどできなかった。それよりも穴が合ったら入りたい程恥ずかしかった。
「それでだ。今日君を呼んだのは他でもない。君は……将来どうしたい?」
いきなり将来のことを聞かれてすぐに答えられる人がいるのだろうか?何よりまだ十六になったばかりなのだ。
今の恵太郎には将来の事など漠然としていて形もない。
「……特に……何も……」
まるで三者懇談をしているような気分に恵太郎は陥った。
「君には夢がないのか?」
いきなり夢を問われ、益々恵太郎は何を言って良いのか分からなくなってきた。
「……ありません……」
恵太郎は考えたことなど無かった。
普通の大学に行き、あとはサラリーマンになれたらいいなあとは思うが、聞かれて話す夢のうちには入らないだろう。
「将来なってみたい職業は?」
真下はじっとこちらを見ながら、カップを手の中で廻していた。
「働けたら……良いです」
それで充分だった。
「だからどういう職業に?」
相変わらず真下はこちらの方を見ている。そんな風に見られると、非難されているような気がして仕方がなかった。
「本当に……その……何でも良いんです……」
真下の視線が痛くて、恵太郎は俯いたまま膝に置いた両手をじっと見つめた。
「……興味のあるものは?」
それでも真下は相変わらず質問を投げかけてくる。
「……これといって……」
恵太郎が言うと、真下は小さく溜息をついた。そしてカップを机に置く音が恵太郎の耳に入ってきた。
「君は……年齢を偽っているが実は老人だろう?」
「……え?」
いきなり言われ、恵太郎は思わず顔が上がった。
「東様も随分と歳を召されているが、あの方は若者より活動的だからね。将来のビジョンはまあいいとして、興味の持つことがなにもないというのは生きていて死んでいるようなものだ」
真下は眼鏡を外し、布で拭くとそれをまた掛けた。
「あの……」
「いや……いい。外見は生きているが、実際死んでいる人間は多いからね」
もうこちらを見ずに真下は言った。なにやら不味い答えを言ったようなのだが、恵太郎自身は正直に答えたのだ。
ただそれが、向こうにとって不満だったのだろう。
「……」
暫く沈黙していると真下がまた話し出した。
「君のどうしようもない内気さを直すのに男ばかりの所を選んで預けた筈が、ちっとも変わっていないのはどうしてだ?」
それは恵太郎にではなく、独り言のようであった。
「……僕……三姉妹の所にお世話になっていました……」
「は?三兄弟だろう?」
真下は本当に驚いた顔を恵太郎に向けた。
「いえ……女性ばかりです……」
「佐仲家だね?」
「佐中家です」
またそこで暫く沈黙がおりた。
「……あ……まてよ……同じ名前でふた家族合ったな……」
言って真下は立ち上がり、パソコンの置いてある机に向かい、キーボードをパチパチと叩いていた。だがこちらからは画面は見えない為に、何を調べているのか全く恵太郎には分からなかった。
「……なんてことだ……間違って預けられていたのか……。佐中……ああ、こっちは確かに女ばかりだ……しかも今は父親不在で完全に女性ばかりの所だったんだな……」
どちらかと言えば男性ばかりの所の方が良かったと恵太郎は思ったが、今更どうにもならないことだ。なにより、女ばかりの所であったとはいえ、苛められることは無く、逆にとても可愛がってもらったのだがから、そういう意味での不満は無い。
「……こっちの手違いか……仕方ないね」
真下は言いながらこちらに戻ってくると、またソファーに座り、温くなったコーヒーを一口飲んだ。
「僕……不自由はしませんでしたから……」
「自由、不自由の話じゃなくてね……。その内向的な性格をどうにかしたかったんだよ」
内向的と連呼されて嬉しくなど無い。これは恵太郎の性格なのだ。多分父親がはじけていたために自分はこんな風になってしまったのだろうと、自分で自分を分析した程だ。
「これは……僕の性格ですから……」
何とか自分の性格を直そうと努力はしたが、全て無駄に終わっている。だからこれが自分なのだと受け入れた。
そのもがいた時期を知らない真下に、簡単にどうにかしたかった……等と恵太郎は言われたくなかった。
「開き直られると困るんだ。君は男だ。それは理解しているね?」
「……僕は……女じゃありません」
ややムッとした顔で恵太郎は言った。内向的がどうして悪いのだとおもう気持が強かった。十人存在すれば、十人分の性格があるのだ。
だったら内向的な人間もいるはずだった。
「なんだ、分かっているじゃないか……。ならこれはなんだい?どうして学校でのクラブ活動が手芸部なんだ?」
呆れたように真下は言った。
「……手先が器用だから……僕ができそうなのってそれしかなかったんです」
確かに恥ずかしいなと思いながらも恵太郎は言った。
「手先が器用なのは分かっている。なら、それを生かすならもっと違うクラブが合っただろう?それが何を血迷って手芸部なんだ……」
深く溜息をついて真下はソファーに深く身体を沈ませた。
「別に血迷ったわけじゃ……。でも、マフラーとか簡単なものなら一日で編めます」
恵太郎には自慢であったことだが、真下にはそう思って貰えなかったようだ。
「……止めてくれ……そういう話が聞きたかった訳じゃない」
うんざりしたように真下は言った。
「……」
「君は……とにかく、佐中家には戻らなくて良い。当分ここから今の学校に通って貰うよ。一番大事なことは、手芸部はもう止めるんだ」
きっぱりと真下は言った。
「え……どうしてですか?」
「……何故疑問に思うのかそれが私には理解できない。男は将来、家庭を護らなくてはならないんだ。わかるかい?それには男らしく強くなければならないはずだ。それが……手芸部だって?ふざけないで欲しいな……」
と言われても、恵太郎自身は気に入って入部したのだ。逆に他のクラブを探せと言われてもこれと言って自分が出来そうなクラブなど無い。
別に男が手芸をやっても変じゃないと思うんだけど……
恵太郎はそう思うのだが、真下には許せないことのようだった。
「……考えさせてください……」
中学の三年間、手芸部に所属した。エスカレート式の学校であるため、退部届けを出さない限り、クラブもそのまま継続する。
それを今頃止めろと言われてもやはり恵太郎には納得できない。
クラブに入ったのは内申が良くなるためだ。もちろん中高の六年間同じクラブに所属している方がもっと評価は上がる。
確かに男としてはあまり感心できないクラブであるのだが、三年間のクラブ活動をこんな形で無駄にしたくはなかった。
「……多分御存知だと思うんですけど……僕の通うエスカレーター式の学校は六年間同じクラブにいると内申が良く付くんです。だから……止めるの……勿体ないと思うんですけど……」
チラチラと真下の様子を伺いながら恵太郎はボソボソと言った。
「もっと大きな声で言いなさい。ボソボソ話されても聞こえない」
天井を見ながら真下は言った。余程呆れているようだ。
「……僕……」
暫く沈黙が部屋に流れたが、真下はまた言った。
「今後……佐中家に任せるとどうなるか分からないな。当分君は屋敷の隣にある、秘書専用の住まいのうち、一つ確保するからそちらで生活をして貰うしかない。時間があるときは私が色々しつけ直すことも出来るだろう。ただ……何処まで私が面倒見られるか分からないが、これ以上君を他人に任せると、立派なナヨナヨちゃんに育ってしまいそうだ」
ナヨナヨちゃんて……
何だろう……
不思議そうな顔を向けると真下が更に言った。
「そう言うことを言われて腹を立てないのも問題なんだがね……」
苦笑する真下は、怒っている表情をしているわけではなかった。
「……あ……はあ……」
また俯いて恵太郎は言った。
「とりあえず荷物だな。君は佐中家に戻らなくていい。こっちで手配するから……」
言いながら真下はまた立ち上がると、パソコンの置かれた机の所に向かった。そうしてそこに設置されたインターフォンを取る。
「私だ。誰か手の空いている人間はいないか?鳴瀬?ああ、こちらに来て貰ってくれ」
真下は用件だけを言うと受話器を下ろした。
「年齢的に鳴瀬に任せるのがいいのかもしれないな……」
呟くように真下は更に言い、ソファーに座り直した。
恵太郎の方はやはり居心地が悪く、仕方無しにコーヒーを飲んでいる振りをしていた。
既に中身は無いのだが、ほかに間を持たせるものが無かったのだ。
暫くすると、部屋の扉が叩かれた。
「ああ、鳴瀬。入って良いよ」
真下が言うと、扉が開き、真下よりかなり若い男性がやはりスーツ姿で入ってきた。健康的に日焼けし、好青年という顔をしている鳴瀬は、大人の雰囲気をもつ真下とは違い、人懐っこい感じがした。
「彼は鳩谷恵太郎君だ。そっちの一階に確か一つ部屋が空いていただろう。そこに案内してやってくれないか?彼は当分ここから学校に通うことになるだろうからね」
真下が言うと、鳴瀬の方はチラリと恵太郎を見て、「分かりました」と言った。
「鳩谷君。彼はうちの秘書のなかで一番若い男だ。年齢的には多少離れているだろうが、多分話しやすい相手だと思う。これから困ったことがあれば彼に相談するんだよ。いいね」
ニコリと笑って真下は言った。その顔は初めて見る笑顔であった。
「はい……」
「じゃあ彼についていくと良い。じゃあ鳴瀬、頼んだよ」
真下は立ち上がると、机の書類を持ち、パソコンのある机に移動した。
「じゃあ……案内するからついてきてくれるかい?」
「あ……はい」
恵太郎は足元に置いたスポーツバックをまた抱えて立ち上がったが、自分の飲んだカップをどうしようか迷った。
「ああ、そのまま放置してくれて良いから……」
真下はそう言って、手を軽く振った。
「あの……ごちそうさまでした……」
「いえいえ」
突き放されたような気がしたが、恵太郎は鳴瀬に付いていくことにした。
屋敷の裏からカードを使って裏口を出ると、道なりに歩いた。建物の裏には何故か子供の遊び場のようなものが作られ、砂場や、ジャングルジム、ブランコなどがあった。
小さな子供でもいるのだろうかと思ったが、そんな子供は見あたらなかった。
それらを通り過ぎ、小さな小道にでると今度は道なりに歩いた。すると本家の隣にある建物の裏側に出た。
「大抵俺達はこっちから出入りするから、これからは裏から出入りするようにな。あ、さっき使ったカードは多分真下さんがちゃんと用意してくれると思うよ。表玄関は俺達殆ど使わないんだよ。あっちは厳重だしね。ただ敷地内はあちこちに防犯用のカメラが設置されているから、おいたは駄目だよ……」
鳴瀬はそう言って胸ポケットに入れているカードをチラリと見せた。
「おいたってなんですか?」
恵太郎が聞くと、鳴瀬は鼻のあたまをぼりぼりとかいた。
「冗談だよ……通じなかったら良いんだ……」
苦笑いしながら鳴瀬は言った。
「はあ……」
大股にあるく鳴瀬に付いてちょこちょこ歩いていると、ピタリと鳴瀬の足が止まった。
「え……っと。君はこれから秘書の仕事を学ぶのかい?」
「そういう話は何も無かったんですけど……」
ただ真下に呆れられただけであった。だが秘書など考えたことなどない。そんな責任の重い仕事は恵太郎はやりたいなどと考えたことも無かった。
「……ふうん」
それだけ言うと鳴瀬はまた前を向き、歩き出した。
真下は、パソコンを打つ手を止め溜息を付いた。
あんな子供をどう教育するんだ?
酷く気弱そうに見えた恵太郎を思いだし、真下は更に溜息を付く。話していると、内向的な中に意志だけは強いと感じた。だが終始俯き加減の恵太郎の印象は初めて会ったときよりマイナスになっていたのだ。
三姉妹ね……
何処でどう間違ったのか、当初予定していた家庭に恵太郎は預けられていなかったのだ。ただでさえ気弱な男の子を女ばかりの所に預けてしまったら、あんな風になるのではないかという見本の様な男の子になって帰ってきた。
丁度、恵太郎がこのうちに始めてきたとき、真下はそれまで秘書を統括していた海老原から引き継ぎを受けていたのだ。そのごたごたで、間違いが起こったのだろう。
東様はああいわれたが……
丁度一週間ほど前に東に呼ばれ、恵太郎を呼び戻すように言われたのだ。それはいいが、頼まれた内容に真下は耳を疑った。
恵太郎を父親よりも素晴らしい腕前に育ててくれ……
それがどれほど無謀なことか、恵太郎に会うまで真下は気がつかなかった。あんな根性のなさそうな子供にどうして東の望む教育が出来ると言うのか、全く真下には理解できない。
手先の器用さはどうも父親譲りのようだが、こともあろうか手芸部だ。だれが推薦したか、最悪自分で選んだのか分からないが、恵太郎はそれを止めるつもりはなさそうだった。
東が言うにはこれでも随分待ったというのだから、あのご老体はまだまだ気持は若いつもりでいるのだろう。
そろそろ落ち着いて頂きたいのだが……
東の家内である都からも、随分真下は東を諫めるように言われている。
ああ……
全く……
要するにこれが取引だったのだ。
今まで東が動き出さないようにそれとなく釘を刺していたのだが、あることで東が手放したくないと思っていた秘書を真下は一人解雇した。もちろんその権限は既に真下に移っているのだが、東はことのほか、宇都木という秘書を気に入っていたのだ。それを真下が解雇しようとしたものだから東が難色を示した。
滅多に真下の仕事のやりかたに口を出さない東なのだが、こればかりは流石に「駄目だ」と言い当初は全く耳を貸してくれなかったほどだ。
そこで事情を何度となく説明し、東からようやく許可を貰った真下は、宇都木の望んだ道を進ませるために彼を解雇することができた。
だが、それには条件が付いた。
あの、わくわくするような日々を取り戻したいんじゃ……
真下はその東の希望に頷くしかなかったのだ。