「ユーストレス 第1部」 第18章
昨日も来た真下の部屋に通された恵太郎は、同じようにベッドに座らされた。
今日は裸足で走り回ったわけではなかったので、足を洗う必要がない。疲れたような表情の真下だが、その原因を作っているのが恵太郎だった。
それが心苦しい。
恵太郎がここで寝ることになると真下がゆっくりと身体を休める場所がなくなり、またソファーへと追いやってしまう。
「今日……僕がソファーで寝ます……」
「子供は気を使わなくて良いんだよ」
言いながら真下は眼鏡の奥にある瞳を和らげた。
「……僕……白川さんに嫌われたのかも……」
何故白川があれほど怒っていたのかどう考えても恵太郎には分からない。これほど人から嫌悪感を露わにされたことがなかった恵太郎は酷く傷ついていたのだ。
白川の事を思ってしたことが裏目に出たのだけは理解できる。
その、裏目の原因が分からないから恵太郎は落ち込んでいたのだ。
年齢の差もあり、友人という関係には到底なれないのだろうが、せめて隣人に恵太郎はなりたかった。
しかし、白川との関係は出会ったときよりも最悪だ。
ではあのとき、どうすれば良かったのだろうか。
「白川こそそれを怖がるタイプだから、良いんだよ気にしなくて……」
真下のその言葉の意味が恵太郎には良く分からなかった。
「……え?」
「いや、良いんだ」
「あの……僕、本当にソファーで寝ます。これでも僕、何処ででも寝られる特技を持っていて……その、机に座ったままでも寝られるし、ぼーっとテレビを見ながらいつの間にか寝られるし、こんな僕だからソファーって結構お似合いだと思いませんか?」
自分でも恵太郎は何を言っているのか分からなかったのだがとりあえず何か言わなければ駄目だと、慌てて言ったのだ。
真下の忙しさはずっと側にいて見ていなくても恵太郎には分かる。だからこそ、少ない睡眠時間くらい、ベッドでゆっくりと身体を休めて欲しいのだ。
恵太郎は明日も明後日も、十分な時間の睡眠を取ることを約束されているのだから、一日くらい何処でだって寝られるはずだった。
それよりも、ここに連れて来られるのを拒み、自分の部屋へ逃げ帰っても良かったのだろう。
いや、そうすべきだった。
「それは、鳩谷君が勉強に身が入っていないと言いたいのかな……。とても困る」
恵太郎の思惑とは全く違う意味に取った真下は、苦笑しながらメガネを外して数度レンズの部分を袖で拭うと、またかけた。
「……僕は元々勉強が出来ません。嫌いな訳じゃないんですけど……その……あ、やっぱり嫌いかも……」
「そう言うことをね、ニコニコしながら言っては駄目だ。余計に嫌いになるだろう?」
「真下さんは勉強好きだったんですか?」
「好きと言うほどではなかったが、将来の自分の為になると思ったから必死に勉強はしたね」
言いながら真下はベッドに腰を掛けてこちらを見る。
恵太郎に向ける瞳はとても優しい。
「僕、別に頭を良くして、真下さんの様な大変な仕事をする気ないし……。ううん。僕には無理だから、将来は手芸教室でも開けたらいいなあ~って思ったことはあるけど……。それって数学とか英語関係ないですよね?」
「……う~ん……」
恵太郎の問いに真下は腕組みをして唸った。
「君は手先が器用だ。それは父親譲りだと私は思う」
そうなのだろうか?
恵太郎には分からない。
頑丈な南京錠をピン一つで開けられた父親の手先と、恵太郎のように手芸が出来るという器用さが同じなのかどうか。
「違うと思う」
「そうかな?」
「だって、僕、鍵なんて開けたことないし……」
「そうだったかな?」
何かを知っているような真下の口調だ。
「……それって、どういう意味ですか?」
「私は見たことあるよ。鳩谷君が鍵で遊んでいた頃をね」
「え。……え~と……それって幼稚園の頃の話だと思うんですけど」
幼い恵太郎に父親は事もあろうか自分が昔練習用で使っていた様々な鍵を渡し、それで遊ばせていた。
恵太郎は鍵を開けるということがどういう事か理解できず、ただ一つ鍵を開けると同時に頭を撫でてくれる父親に、もっと沢山撫でてもらいたかったから、与えられるまま、時には一日じゅう鍵を開けることに没頭していたのだ。
しかしそれも小学生に上がる頃には飽きていた。
そんな恵太郎に無理矢理父親は鍵を与えることはなかった。多分、母親がいなかったことで恵太郎をどう遊ばせて良いのか父には分からなかったのだと恵太郎は思う。
だから日常使っていたものを恵太郎の遊び道具として与えていただけにすぎない。
「ああ、そうそう。幼稚園だったな。ああいうことはもうしないのかい?」
「……しませんけど。だって父さんのしてたことって……その……泥棒なんですよ。ただ人を傷つけたりはしなかったし、盗むって言っても、父さんは変わっていて盗んだらまた元の所に戻すことを楽しんでいた人だから……。それでも犯罪だし。僕は泥棒だった父さんの息子だけど、泥棒を親に持つ息子は泥棒にならないと駄目なんですか?」
事実を認めたくないのだが、父親は世に言う泥棒だ。人のものを盗んで、また元の場所に戻すという変わった泥棒。
それでも犯罪に違いない。
確かめたことはないが、今でも警察の犯罪履歴に載っているのだろう。
あれだけ世間を騒がせて、そのまま帰らぬ人となったのだから、父親は泥棒ではない。単に盗む課程を楽しんでいた人だった。と、恵太郎が言ったところで誰も信じてくれないに違いない。
恵太郎はそれが辛かった。
父は決してものを盗み、それを売り払い、収入を得ていた訳ではないのだ。盗んだものをあとで返しているのだから、どう考えても収入にはなり得ないだろう。
ただ、恵太郎が不思議だったのは、そんな父であってもちゃんと月末には銀行にお金が振り込まれていたことだ。
一体どうやって収入を得ていたのか未だに不明だった。
生前、何度聞いても、父は笑って適当な事を言い、はぐらかすばかりで恵太郎が納得のいく答えをもらったことが無かった。
いつだってそんな調子であったから、恵太郎も聞かなくなったのだ。
「私は君の父親を誇りに思うよ……。駿は……立派だった」
何処か寂しげに目線を落として真下は言うと、ベッドから腰を上げた。そんな真下の様子が恵太郎には気になった。
確かに最期の仕事は、立派だと恵太郎も認めていた。
当然、恵太郎自身は、泥棒であったが、父親を誇りに思っていた。
しかし、何も知らないはずの真下が父親のことを立派だとどうして言えるのだろうか。
「僕の知らない父さんを真下さんは知ってるんですか?」
「……少しだけ。だがそれほど差は無いはずだよ。さて、しんみりした話になったな。私も仕事に戻るから、鳩谷君は気にしないでここで寝ること。良いね?」
立ち上がった真下はそれだけを言うと、恵太郎が呼び止める声すら無視して隣にある仕事部屋へと去っていった。
……
なんだろう……
真下さんの知ってる事って。
ふかふかの毛布に潜り込み、恵太郎は目を閉じた。
……あれ?
どうしてこんな話しになったんだろう?
最初は何処で寝るかって話をしていたのに……。
何となく真下に上手く誘導されて父親の話題に向けられたような気がしたが、恵太郎の気のせいに違いない。
真下はそう言う男では無いはずだから。
ここまで来たら話してしまえと、決心をつけていたものの、恵太郎を前に結局真下は肝心な話をすることが出来なかった。
はあ……
頭が痛い。
真下の立場上、板挟みになることは多々あったが、今回はかなり面倒な話だったのだ。
東が恵太郎の事を諦めてさえくれたら、誰も傷つかず、過去あった様々なこと全てに二度と開かない鍵でもつけて、時間と共に忘却の彼方に追いやれたものを。
恵太郎の父親である駿が生きていたらこのことに対してどう言うだろうか。
別に、話しても良いんじゃないか?
俺は楽しかったぜ。
多分、あの男ならそう言うだろう。
間違っていないはず。
ただ、駿が生きていて恵太郎が真実を知るのと、父親が亡くなった今、このことを知らせるのとではショックの重さが違う。
ショックではない。
恵太郎は東家を、いや、東自身を憎むことになりかねないのだ。
当事者ではないが、真下もそれを容認していた。
違う。
参加していたと言っても良いだろう。
では、東とともに、真下自身も憎まれるに違いない。
どうしたものか……
ソファーに腰を掛けて、機械的に真下はカップを手にとってポットからコーヒーを注ぎ入れた。
あのときと同じ暗闇がカップの中でグルグルと円を描いていた。
何故止めなかったのだ。
誰かが止めていたら……。
未だに真下はあの晩の事を忘れられないでいた。
未来を見通せる力など誰にもない。
そして終局に向かって既に事は動き出していたのだろう。
暗い、星の瞬きすらすっかり呑み込んだ暗雲を見たときに何故、運命の輪が回り出したことに気が付かなかったのだ。
あの日、胸騒ぎがした事をはっきりと真下は覚えている。
素直にそれを口にしていたら、あんな結果にはならなかったのかもしれない。
駿は最期、事もあろうか笑っていたのだ。
命の灯が消える瞬間まで、自分の人生は冒険に満ちた楽しいものだったと。
ありがとうと言った。
感謝しているとも言った。
それは……
真下が己を責めないように……
東に責任が及ばないように……
笑って逝った。
「駿……私はどうすれば良いんだろうね」
その問いに誰も答えを与えてはくれなかった。