Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第17章

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 どうしよう……
 やっぱりこのうちってお化けがいるんだよ……
 みんな気が付かないのかな?
 ガクガクと身体を震わせながら恵太郎はすっぽり被った毛布の中で更に横長の枕を頭に乗せて耳を塞いでいた。折角今晩はぐっすり眠られるだろうと思っていたのに、奇妙なうめき声が聞こえだしたことで目が覚めたのだ。
 勇気を出して正体を突き止めようと部屋の出入り口まで近寄ってみたものの、ノブに手を掛けたところであまりの怖さに恵太郎は引き返した。
 引き返す途中、亀のまーちゃんを水槽から出してそのままベッドに潜り込み、このまま寝てしまえたら良いのにと考えつつも、そうすると連れてきたまーちゃんを押しつぶしてしまいそうで、困った。もう一度水槽の所まで歩いて行くのも、何かが暗闇の中で立っていそうで躊躇われる。
 白川さんも、守屋さんも恐くないのかな……
 それとも僕って……実は霊感があるの?
 そんなことを考えている間も相変わらず聞こえてくる呻き声が毛布と枕を通して恵太郎に聞こえてきた。耳を塞いでいても入ってくる声は小さくなっているとはいえ、まだ響いているのだということが怖さを助長させる。
 鳴瀬さん……
 帰ってきてなかったよね。
 白川さんの所に行ってみる?
 しかし、聞こえてくるのはどうも廊下からのような気がして仕方がない。昨日のこともあって窓の外から出たくは無かった。となると、ここから逃げ出そうにも、逃げ出せる経路がないのだ。
 廊下に幽霊が立っていたら……
 ううん。
 僕の部屋の前に立っていたら?
 昨日失敗したから今日は入り口の方から来たのかな……
 それも変だけど……
 更にブルッと身体を震わせて、恵太郎はだんだん涙目になってきた。男の癖に情けないと言われようと恐いものは恐い。男だって恐いものがあって良いはずだ。
 真下に内線をしてみたらどうだろう?
 ふと恵太郎はそんな考えが浮かんだ。今晩も迷惑をかけることは心苦しいが、何処か安心できるところに逃げ込みたい。真下の部屋はそれを踏まえて考えると一番ホッと出来る場所だった。
 この部屋より整然とした場所ではあるが、真下という存在が居心地を良くさせるのだろう。それよりも相手が自分より年上で、大人であると言う事実が恵太郎が真下を頼りたいと思わせているのかもしれない。
 暖かい場所。
 昨日ぐっすり眠ることができた真下のベッドがとても恵太郎は恋しかった。
 毛布を頭から被り、一気に廊下を駆け抜けたらどうだろう。屋敷から出てしまえば、あちこちに監視カメラも設置されていて、何かあってもうちのなかより外の方がいいのかもしれない。
 どうにも落ち着かず、恵太郎は頭から毛布を被ったまま、顔だけひょこりと出した状態でベッドからおりると、そろそろと出入り口まで歩き出した。
 そうしてキッチンまで来るとまず明かりを付け、次は手に持っていたまーちゃんをそっと水槽に戻して手を引っ込める。全力疾走の途中、転んだ拍子に下敷きになるのは予想しなくても十分現実に起こることだったから。
 これであとはここから出て、廊下を走り抜けて玄関に向かい、そのまま飛び出して一気に本家に走れば良い。
 また弱虫に思われるかな……
 フッとそう言う気持が沸いたが、今はここから逃げ出すのが先決だろう。
 自分の部屋の玄関まで来ると、恵太郎は扉のノブに手をもう一度かけた。電気は点けたままだが、電気代を云々言うような人間はいないだろう。もし言われたのなら謝ればいいのだ。真っ暗闇の中で何かをすることこそ恐ろしい。
 毛布を被っている所為なのか先程までの声が聞こえず、恵太郎は廊下に出ることにした。廊下は薄暗いが、真っ暗ではなく、光量を落としたフットライトがぼんやりと等間隔に設置されている。そのまま視線を上げると入り口ホールが見え、外へ出る大きな扉が見えた。
 気持はダッシュしたかったけれど、音を立てると「何か」に気付かれる。それも恐い恵太郎は、足音を立てずに歩こうとした。だが毛布がずるるっと床を擦る音が意外に大きく響き、恵太郎は慌てて足を止めた。
 や……
 やばあああ……
 とはいえ、立ち止まってみると周囲は静まりかえっている。いつの間にか声が聞こえなくなっていたのだ。
 お化け……
 消えちゃったのかな?
 暫く、聞き耳を立てていたが、先程まで聞こえていた恨めしそうな声は聞こえない。それでも恵太郎はここから出ることに決めた。人の気配が無さ過ぎるのも住むには適さないのかもしれない。生活をしようとしているのは恵太郎だけで、他に住んでいる筈の秘書達にとってここはただの休憩所に近い。決して友人を呼んで騒いだり、季節毎の行事をみんなで盛大で行う人達ではないのだ。
 恵太郎は自分が行事好きの子供だとは思わないが、せめて誕生日くらいは祝って貰いたいと思うタイプだ。ここではそんなものは求められないだろう。もしかすると嫌だと突っぱねた逸輝の提案を受け入れていた方が良かったのかもしれないとまで思うほどだ。
 駄目。
 僕は自立するんだから。
 恐怖ですくみ上がっている気持が、気弱な自分を認めようとしている。そんな自分自身を否定しながら、毛布を引っ張り上げて腕の所で弛ませると床を擦らないようにして玄関に向かった。

「あーーーーっ……!」

 びくっ!
 いきなり聞こえた声は白川のものだった。目を大きく見開きながら後ろを振り返り、白川の部屋の扉に視線を釘付けにする。
 いまの……
 白川さん?
 じゃあ、ずっと聞こえてたのは白川さんだったの?
 肩越しに振り返っていたのだが、身体もくるりと反転させ、そろそろと今来た道を戻り始めた。その間も苦痛なのか良く分からない、押し殺したような声が聞こえてくる。
 ええっと……
 お腹痛いのかな……
 なんだ……
 お化けじゃなかったんだ。
 それが分かると恵太郎は急に恥ずかしくなった。白川は何処か痛くて苦しんでいるのだろう。しかし、大人であるから誰にも言えずに耐えているのかもしれない。もし恵太郎が白川くらいの大人だったらきっとそうするはずだ。
 男って、辛くても耐えることも必要なんだもん。
 一人でそんなことを考えていたが、やはり気になる白川に恵太郎は声をかけようと思い立った。色々面倒を見てくれている白川の力に少しでもなれたら良いなあと思ったのだ。もし薬が必要なら佐中家からこちらに来るときにもって来た薬を渡せば良い。恵太郎も何かと気遣ってくれる白川に恩返しが出来る。
 恵太郎はいそいそと自分の部屋に一旦戻るとキッチンの戸棚に置いた薬箱を取りだした。それは小さなアルミで出来た菓子箱で当然お菓子は入ってはいない。捨てるはずであったが結構頑丈だったので恵太郎はそれを薬箱にしていたのだ。丁度、蓋の所に金具がついていて、逆さにしても簡単には開かない作りであったから、意外に重宝している。それを胸元に抱えて、いまだ毛布を肩から掛けたまま、もう一度部屋を出た。
 先程の声はまた収まり、シンと静まりかえっている。
 白川さん大丈夫かなあ……
 あまりにも辛そうにしているなら、それこそ真下に伝えたら良い。
 恵太郎はそう決めて白川の部屋の扉を叩いた。
「白川さん……何処か具合悪いんですか?」
 同時にそう言う。
 ……
 ……あれ?
 だが返事が無い。
「あの……僕、薬持ってきたんですけど……」
 今度は言ってノブを廻してみたが鍵がかかっていた。
「……えと……」
 部屋からは音が途絶えて、今までの声が嘘のように聞こえなくなった。部屋に白川が不在という訳では無さそうなのだが、返事がない。
「あの……遅くにごめんなさい。白川さんが何となく苦しそうに思えたから……僕……。あのう……お腹が痛いのでしたら、正露丸もあるし……。あ、これ良く効くんです」
 恵太郎が言うと、今度は誰かの押し殺したような笑い声が聞こえた。それが白川の笑い声かどうか恵太郎には分からない。だが、白川が笑う姿が想像できない恵太郎には白川のものだと思うしかないのだろう。それとも白川の他に誰かが部屋に来ているのか。
「……えと……あの……どうしよう……」
 折角持ってきた薬箱を引っ込めることが出来ず、かといって一人でぶつぶつ話している恥ずかしさと、いるの白川が答えてくれない寂しさが恵太郎の気持ちを萎ませた。
 何故何も言ってくれないのだろう……
 そのことが急に悲しく思えた。
「迷惑でしたよね。済みません。でも……僕は白川さんに良くして貰ったから……少しでも役に立ちたかったんです……ごめんなさい……」
 恵太郎がボソボソというと、ようやく扉が開かれる音がした。顔を上げると白川が何処か照れくさいのを押さえつけているような頬の赤らめ方を表情に作り、それを抑えるような微妙に怒った顔をしている。
 浅黄色のローブを羽織っているが、何となく慌てて着たと言う感じだ。どことなく髪も乱れている。だがそれは白川によって掻きあげられた。
「だから……何?あのさあ、今何時だと思ってるんだよ」
「え……だって白川さんが苦しんでるの聞こえたから……」
 薬箱を何度も手で撫でて恵太郎は言った。
「……べ……別にそう言う訳じゃあ……。もう良いからお子さまは寝てくれないか」
「お腹痛かったんじゃないんですか?」
 顔を上げ、不思議そうな顔を向けると白川はぐっと口元を引き絞る。
「……分かったよ。薬を貰えば良いんだろうっ!」
 やや怒鳴るように言って、白川は手を出してきた。
「あの……正露丸……臭わない方がいいですよね」
 薬を入れた缶を開け、恵太郎は臭わない方の薬の瓶を取りだそうとしたが、横から素早く白川がそれを奪って扉を閉めようとした。
「ありがたく貰うから、もう自分の部屋に帰ってくれよ」
 薄くまだ開いている扉向こうから白川は言う。
「あの……僕……」
 余計なことをしたのだろう。だから白川の機嫌が悪い。そんなつもりはこれっぽっちもなかったのだ。
「だから……っ!」
 益々顔を赤らめていく白川が不自然なのだが、どうも自分は怒られていると思った恵太郎は視線を床に落としたまま身体を竦めた。何故か瞳が異様に熱い。
「……な……泣かないでくれよ……」
 オロオロと急に宥めるようにして言った白川だが、自分のしたことが余計なことであったことに恵太郎はショックを受けていたのだ。人からこんな風に拒否をされたことが無い恵太郎であったから、白川の言葉がとてもショックだった。だから我慢しようとしているのに瞳がどんどん涙でかすむ。
「……僕……迷惑なの分からなくて……余計なことして……」
 アルミの缶が変形しそうなほど恵太郎はギュッと胸元で抱きしめた。 
「か……勝手に誤解するなよっ!」
 白川のどこから聞いても迷惑そうな声に、恵太郎はもう頬を伝う涙を止めることが出来なくなった。

 嫌な予感が的中するというのはこういうことなのだろう。まさにそんな状況を真下は見てしまったような気がした。
 離れに入ると、問題の恵太郎は廊下で泣いており、何故か白川がそれを宥めるという異様な光景に出くわしたのだ。
「白川っ!」
 真下がそう言って足早に近づくと、白川はギュッと唇を噛みしめてこちらを見た。顔は真っ赤になっているのだが、恥ずかしいと言う顔でもなく、かといって腹を立てていると言うわけでも無さそうだ。
 とはいえ、余計なところを目撃されたという後ろめたさを持っているのが白川から感じられた。
「……なんですか?」
「いい年をした大人が子供を相手に真剣に喧嘩をするなと言っただろう」
 怒っているわけではなく、真下は呆れていた。あれ程釘を刺して置いたにも関わらず、白川は子供に喧嘩を売っていたのだろう。そうであるから、恵太郎は泣いているのかもしれない。
「勝手に泣いたんですよ」
「僕が余計なことをしたんです。白川さんは……悪くない……」
 言いながらも恵太郎はぽろぽろと頬に涙を伝わせる。
「五月蠅いな。君は余計なことをしたわけじゃない。間が悪いときに来ただけだろう?」
「だって……怒ってる」
 恵太郎に見つめられた白川は、当然視線をそらせた。
「間が悪いって言ってるんだ」
「ごめんなさい……」
 視線をまた床に落として恵太郎は頭を下げる。
「怒ってないっ!いい加減にしてくれよ」
「二人ともだ。いい加減にしなさい……」
 これではどちらが子供か分からない。しかも恵太郎は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、白川にひたすら謝っている。
「要するに、私が鳩谷君の部屋の選定を間違えたんだろう。これがわるかったんだな」
 深くため息を付きながら真下は言った。その言葉に白川が余計に顔を強ばらせている。
「最初から分かっていたでしょう?」
 絞り出すような声で白川が言う。
「いや……」
 深くなど考えなかった。ただこの部屋しか今、空いていなかったから、恵太郎の部屋にしたのだ。もちろん、最初は二階にあるこれからはもう使わないだろうという宇都木の部屋があるのだが、あれは東がそのままにしておきたいというのだから、場所がない。
 それは後で考えるか……
 チラリと恵太郎に視線を戻すと、声を出さずにひたすら床を見つめたまま涙を落としていた。抱きしめるように胸元で抱えているアルミの缶には何が入っているのか真下には分からない。
「鳩谷君。話があるからちょっと本家までついてきてくれるかな。ああ、白川はもういい。邪魔をしたね」
 恵太郎に声をかけ、次ぎに白川に声をかける。すると安堵した表情で白川は自分の部屋の扉を閉めた。
「ほら、行くよ」
 軽く手を掴み、引っ張るとようやく恵太郎は顔を上げた。情けないほど涙で顔を濡らしている。そんな恵太郎に仕方無しに真下はポケットからハンカチを取りだすと、視線を逸らせたまま差し出す。するとおずおずと手をさしのべて恵太郎はハンカチを受け取った。
「……」
 真下のあとを追いながら目元を必死にハンカチで拭う恵太郎は、相変わらず無言だ。
「白川はね……あれで悪い男じゃないんだ。ただ、口べたで人と上手くつき合えないタイプだから、時にはグサリと来るような事を言うだろう。だけど本人からするとそれが精一杯の言葉だと分かってやってくれないか……」
 白川は両親に放置されていた子供だった。母親が再婚し、新しい父親に恵まれたのだが、最初から白川は無視をされ、その後すぐに出来た子供にばかり両親の愛情は注がれて白川はお荷物になっていた。
 両親は食事こそきちんと取らせていたが、無視という子供にとって最悪の方法で彼らは虐待したのだ。白川がここに引き取られてくる半年間、彼は押入に置いたダンボール箱の中ですごしていたらしい。いや、もしかするともっと長い期間だったのかもしれない。
 身近な人間とのコミュニケーション不足が、白川の人付き合いの悪さと、口べたな理由なのだろう。
「違うんです。僕が……間違ったから……」
 ぼそぼそと恵太郎は言った。
「間違った?」
「なんだか……変な声が聞こえたから……。僕……最初はお化けだと思って恐かったんですけど……。白川さんの声だって知って、きっとお腹でも痛いんだと考えたんです。それでいつも僕の事を気に掛けてくれる白川さんに、せめてもの感謝のつもりで、薬を持っていったんですけど……。それが余計なお世話になったみたい……」
 そこまで言って恵太郎は喉を詰まらせた。また泣いているのだ。
「……変な声……?」
 ……
 まて……
 剣は帰ってないな?
 挨拶は無いぞ。
 いや……
 どうなんだ?
 ホールまで来ると、二階から守屋が声を掛けてきた。
「やだあ……恵太郎君いたんだ……」
 驚いている。
「守屋……。やだとは何だ。失礼だぞ」
 益々恵太郎を萎縮させる言葉は本当に聞かせたくない。
「剣さんが帰ってきてるようですから真下さんが先に手を打ったと思っていたんですよ」
 手を左右に振って守屋は言った。
 帰ってる?
「まて、私の所にまだ顔を見せていないぞ。どう言うことだ……」
「じゃあ……先に白川に挨拶に行ったんだと……。やだあ……恵太郎君可哀相~」
 ……
 それは……
 要するに……
 とんでもないところで声をかけたということなのだろうか。
「……」
 チラリと恵太郎を見ると、こちらの会話を聞いていないようで、俯いたままひたすら目元を拭っていた。
「もういい……分かった」
 この状態は最悪ではないのか?
 どうなっているのだうちの秘書達は。
 とはいえ、個人的な事には口を出さない決まりだ。彼らが仕事をこなしてくれるのならそれでいいのだから、どういう恋愛観を持とうが、誰とつき合おうが真下には何も言うことなど出来ない。
「仕方ないから、本家に連れて行くよ……」
 真下がそう言うと守屋は目を丸くして、次ぎに笑った。
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