Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第13章

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 東と話していると内線が鳴った。それを取ると恵太郎の友人である逸輝が来たとの報告だった。真下は逸輝を恵太郎の元の案内するように頼んで内線を切る。
「恵太郎の友達か?」
「同級生ですよ」
「そうか……また子供達の笑い声がこの屋敷で聞けるのかの……」
 遠い目をして東は嬉しそうに目を細めた。東は子供達が幸せそうに笑っていたり、遊んでいる姿を見るのが好きな老人だ。だからあまりにも劣悪な環境に置かれている子供を見るとついこの屋敷に後先の事を何も考えず、連れて帰ってきてしまう。
 東家で秘書として働いている者全てが東によってここに連れてこられた。真下もそのうちの一人であったが、秘書として働いていなくても東都系列で働いていたり、全く違う職種に就いている人間も多い。
 そのどの子も東は可愛いがっている。
 元々子供好きなのもあるのだろうが、東がまだまだ若かった頃は戦後まだ復興途中であり、日本はとても貧しかった。そんな中、生まれたばかりの赤ん坊や、ガリガリに痩せた子供達が食べ物もなく道ばたで死んでいく姿を傍観することしか出来なかった悔しさが東を今もそんな行動に駆り立てるのかもしれない。
「東様。そんな小さな子供ではありませんよ。この四月に高校生です。この位になりますと砂場で遊ぶ年頃でも無いでしょう」
 何か東は勘違いしているのが真下には分かる。だがこの年齢になると、高校生であろうと東から見れば砂場で遊ぶ子供にみえるのかもしれない。
「……そうか。残念じゃ……。なんなら裏の公園を整備しても良いと思ったんだが……」
「それより、地下をなんとかしませんか?もう駿はいません。あそこを潰して埋めた方が私は宜しいかと思います」
 以前からこの話を真下はしているのだが東がうんと首を縦に振らないのだ。
「……あれは……わしの一番楽しかった時期の思い出じゃ。それを光彦は潰せというのか?」
「……もう駿はいません。そうでしょう?」
「分かっておる。だが……まだあのままにしておきたい。息子が後を引き継ぐかもしれないだろう?」
 いや……
 それは無理だと……
 だがこれ以上は真下であっても東には言えなかった。
「そうですね……もう暫く待ちましょうか?」
 仕方無しに真下が言うと、東は嬉しそうな表情をくしゃくしゃの皺の中に作る。とりあえず今はどうしようもない。
「それでだ、佐中家の嬢が盗んだ仏像だったな。あれを使って試してみたらどうじゃ?」
 真下の伝えていない情報が既に東の耳に入っていた。
「はあ……まあその……私も考えてみたんですが……」
「自信を付けてやるにはそれしかあるまい……その結果をみてどうするかわしも考えることにする。いいな?」
 有無を言わせない言動に、真下はただ頷くしかない。
「わしも行くか。そろそろ都の準備も整っただろう」
 まだ曲がっていない腰を上げた東はそれでも杖がもう必要な年齢であるため、形ばかりの杖を手に持っていた。本人は杖を持つのが嫌なようだがこればかりは寄る年波に逆らえない。
「そう言えば本日は大蔵の武石様と会食でしたね……」
「そうじゃ。もうそろそろ爺を頼るなといいたいんじゃが……うちの真澄があそこにいるだろう?助けてやらんとな……」
 菅野真澄という男も昔ここにいた。だがある女性に引きずられるように東家を出ていった男だ。ある意味手順を踏まず強引に出ていってしまった真澄を真下は快く思っていなかったのだが、東の身内びいきはそんなものでは揺るがない。助けてくれと言われると嫌だと言えないところがある。
 これが東様なのだ……
 そうして東が出ていくと真下はふとこれからのことを考えてしまった。
 東の後は誰が継ぐのだろう……
 子供は男と女が一人ずつ東にはいるが、女性の方は祐馬の母親だ。こちらには期待できない。祐馬の母親は何処か浮世離れしている女性で、箱入りに育てられたから世間を知らない女性になったのか、元々の性格であるのかまるでわからないタイプなのだ。
 その相手となった男はこれがまた仕事が出来ない家庭的なだけの凡人だった。
 男の方は今アメリカ東都の方で修行をさせているが、優しいだけで厳しさが無い。それは東が一番良く知っていることだろう。
 これではどちらにも継がせることは出来ないはずだ。
 東は優しい男だが、ここというところでは私情は挟まない。どれだけ多くの社員を抱え、関連会社にも同じように世帯をもっている人間がいるかを知っているからだ。彼らを路頭に迷わすことはグループを束ねる男として絶対にしない。
 結局は東都という名前と、グループ全体を背負ってもぽっきりと折れてしまわない精神力。そして時には冷酷だと言われようと腐った部分を切り捨てられる経営手腕を持った男でなければ務まらないだろう。今から探すのでは遅すぎるため、東には既に目を付けている男がいるはず。だが真下はそれが誰であるか聞いたことも聞かされたこともない。
 では誰が……
 この事はおおっぴらに聞くわけにもいかず真下は沈黙を続けている。何より東が引退すれば真下も筆頭秘書を引退するつもりなのだ。そして余生につき合ってやろうと真下は考えている。いつか亡くなったら初めて真下はこのうちを出ることが出来るのだ。
 東だからついてきた。例えどれだけの男が次を継ごうと真下は従う気など無い。
 ここまで来ると自分の忠義心に笑いも漏れそうになるが、それが本心なのだから仕方ないのだ。
 ま……
 なるようにしかならない……か。
 先のことは分からない。自分がどうこれから生きていくか遠い未来のことなど真下には想像すらできないのだ。
 そう、自分が誰かを心から愛せる相手ができるのかどうか……という問題も同じように想像が付かない。
 今の真下が一番悩み、考えなければならないのはあの恵太郎のことだった。。

「まーちゃん……まーちゃんにしようかな……」
 男か女か分からない亀を見つめて恵太郎は一人呟いた。とりあえず何か名前を付けないと亀とだけ呼ぶのも寂しかったのだ。まーちゃんなら男でお女でも良いのではないかと恵太郎は考え、更に池に住むうっちゃんという亀とペアーな感じがして自分でもセンスがあるなあと根拠なく思っていた。
 うっちゃんとまーちゃん……
 なんか似合ってない?
 僕って結構センスある?
 えへへ……
 水槽に入れたまーちゃんを撫でながら恵太郎は一人でニヤニヤとしていると、自分の部屋の扉が叩かれた。
「あ……はい……」
 手を引っ込めた恵太郎は、立ち上がって入り口の方に向かう。すると逸輝が立っていた。
「よ……」
 恵太郎をチラリと見て、すぐに部屋の中を見渡している。
 逸輝は恵太郎より背が高く、その所為でやや背が猫背になることがある。別にそれは見苦しい格好ではなく今風にポーズを取っているように恵太郎には見えた。
 髪は染めていてやや黄色ぽい。一重の瞳はどことなくひねた感じがする。その目の所為で最初恵太郎は逸輝が怒っているものだと勘違いし、良くおどおどしたものだった。
 だがこのやや細い目つきが笑うと逆に鋭さがなくなり、可愛く見えるのだから不思議だ。「久しぶり……なんかこんな所に来ちゃったよ……」
 へへへと恵太郎が笑うと逸輝は自分より大きな手で頭を軽く叩いてきた。
「へへへじゃねえよ……。お前さあ、俺になんにも相談無しでどういうことなんだよ」
 口を尖らせて逸輝は不服げだ。
「急な事だったんだ……あ、御茶でも入れようか……?」
 玄関から離れて恵太郎はすぐ側にある簡易キッチンに立った。
「……2LDKって感じだな……」
 スニーカーを脱いだ逸輝はそのまま椅子に座り、やはり視線を彷徨わせていた。余程珍しいのだろうか。
「逸輝のマンションもこんな感じだろ?」
「いやそうなんだけどよ。ほら、うちはマンションだから変に思わないけど、ここは屋敷って感じでさあ、それが中に入ったら部屋じゃなくて住居だろ?だからこう、何となく違和感があるんだ……」
 それは恵太郎も最初感じていたことだ。
「僕も思うけど……どこの部屋もこんな感じらしいんだ。他に住んでるのもみんな東家の秘書なんだって。だから何時もこのうちにいるわけじゃないって。今まで佐中のおばさんの家にいたからちょっとこの雰囲気に慣れるまでが大変かもしれない……」
 本当はちょっとではなくかなりだ。人の気配がしない大きな屋敷に一人住んでいると、はっきり言って恐い。いつ慣れるのだろうかと不安にもなる。
「……だったらよ。俺言ってるだろ?俺んち来いよ。ここと似たような作りだけど、別に二人で住んでも狭いって程じゃないし……そうしろって」
「……いいよ。逸輝のうちにいったら僕、ほんと何もしなくなっちゃいそうだもん。それが分かってるから逸輝のうちは行けない……。僕は自分のことは自分で出来るんだから……大丈夫だよ」 
 茶の葉をバラバラ足下に落としながら恵太郎は言った。それを見ている逸輝がため息をつく。恵太郎は慌てて落ちた茶の葉を手で拾い集めて流しに捨てた。
「ちょ……ちょっと失敗もするけどさ……」
 手を払いながらとりあえず恵太郎は笑った。
「いつものことだから良いけどな……。でもよ、ここ……寂しいと俺は思うぞ。なんか外に遊びに行くにもいちいち許可なんて貰わないと出られないって感じだろ?で、門限が8時とか言いそうだ……」
 誰かをここに呼ぶ場合のことを聞いた覚えはあったが、遊びに行くときどうすれば良いのか真下から聞いていないことに恵太郎は気が付いた。逸輝の言うように本当に外出するときは許可を貰わなければならないような気がする。だがそうすると自分がどういう理由で何のために一体何処に行くか、事細かに報告しなければならないのか?
 真下さんに聞かないと……
 でも……
 遊びたいっていったら怒られるかも……
 勉強が出来ない恵太郎に真下は家庭教師を付けた。要するに寝る間も惜しんで勉強しましょう。と、いうことだ。それなのに、恵太郎が遊びたいなどと浮かれたことを言えば又今度は何を言われるか分からない。
 違う。
 遊んでも良いが、その代わり……という条件が出てきそうな気がして仕方がないのだ。もちろん、全てをのまなくて良いのだろうが、真下に対して嫌だと言えない自分を知っている。それは有無を言わさない真下の態度からではなく、恵太郎自身が自分で納得するようなことで言いくるめられるからだろう。
 俯けば一回につき百円というのも理不尽だと思いつつ、自分の中でその癖を直したいと思っていたから強く嫌だと言えなかった。
 そうであるから遊んでもいいが、これこれの……と、次ぎにどういう条件を付けられるか恵太郎には予想もつかない。そしてまた恵太郎は今のように仕方ないと思って頷いていそうで怖かったのだ。もちろん納得できることならいいのだろうが、今のマイナス金もきつい中、それ以上に上乗せされるととても恵太郎は困る。
 小遣い確保が今、一番恵太郎には大切な事だった。
「……暫く慣れるまで、遊びに行く気はないから……」
 ようやく沸いたお湯を急須に入れて恵太郎は言った。
「お前さあ……こんなくっらい所に引っ込むつもりか?つうか、映画行く話とかスキーの話はどうなったんだよ……」
 ブチブチと逸輝は言う。
「でも……ほら……絶対行けるって約束した訳じゃないし……ごめん」
 恵太郎も忘れていたわけではないのだが、今の自分の立場でそんなことを言える勇気はなかった。我が儘は言いたくない。こうしたい、ああしたいというのはあれど、甘えることだけはしたくなかった。
 もちろん東家には恵太郎が想像がつかないほど財産があるに違いない。恵太郎が望みさえすれば、何かと手配してくれるにちがいない。
 ただ、恵太郎がそれに甘えたくないだけだ。
 父親が残したものはほとんど無い。金もなければそれに相当する品物もない。自分が本当に自由になるお金は手元に無いのだから、諦めるしかないのだ。小遣いとして支給される金額自体が違う逸輝から比べると、恵太郎がもらっている金額はかなり少額に違いない。だがそれですら、なにやら申し訳なく思っている恵太郎であるから無茶は言えない。
「俺が出してやるって言ってるだろ」
「……逸輝はすぐそれだけど……僕は嫌だ」
 逸輝は本当に毎月の小遣いを驚くほど貰っている。羨ましいとは思うが本当に欲しいとは恵太郎も思わない。
 必要以上にあっても使わないからだ。いや、必要以上にあれば、何か勘違いして浪費してしまうだろう。そんな自分にはなりたくない。逸輝がそうだとは言わないが、やはり金遣いは荒い方だ。だから何時も逸輝に恵太郎は「お父さんが働いているから逸輝は小遣いをもらえるんだよ。だから大事に使わないと……」と、所帯じみたことを言ってしまう。
 逸輝は恵太郎がその話をすると、嫌がるのだが本当にそう思うのだから仕方ない。
「俺はさあ、楽しみにしてたんだぜ。初めて二人きりの旅行だってさ……」
「旅行なんて今までも行ったじゃないか。だって逸輝とは小さい頃から学校一緒だったし遠足から修学旅行までいつも一緒だったから、今回流れても大したこと無いじゃないか……」
 呆れたように恵太郎が言うと、逸輝は更に不機嫌な顔になった。その理由が恵太郎には分からなかった。
「そういう問題じゃねえよっ!どうしてケイはこう、鈍感なんだよっ!」
 頭をがしがしとかいた逸輝は恵太郎が差し出した湯飲みを無視してぷいと向こうを向く。その態度があまりにも恵太郎には理解不能だった。
 何故旅行がそれほど問題なのだろうか?
 今まで必要以上に一緒にいた二人であるから今更旅行にこだわる逸輝のことが分からないのだ。
「……何、怒ってるの?」
 向こう側を向いている逸輝の顔を覗き込むように恵太郎は身をかがめる。すると逸輝の瞳がチラチラとこちらに動いてはまた視線を避けるように逸らされた。だがやや逸輝の頬が赤くなっていることに恵太郎は気が付いた。
「あ、トイレ我慢してたんだ。トイレはね、すぐそこだよ」
 にこやかな笑みで恵太郎が入り口近くにあるトイレの扉を指さすと、逸輝は口をポカンと開けてあっけにとられていた。
 あれ……
 なんか違ったのかな?
「おま……お前って……はああ……俺……俺がどれだけ苦労してるのかちっとも分かってねえよな……」
 先程と同じように逸輝は頭をかくが同時に肩も落とす。
「苦労ってなに?」
 やっぱり理解できない今までにない逸輝の態度に恵太郎の方が困惑した。何を先程からそわそわとしているのか恵太郎には分からないのだ。
「苦労って……苦労ってのは……その……なんだ……」
 そわそわの次は何故かモジモジしているように見える。だがそれを得意としているのは恵太郎の方だ。
「……やっぱりトイレ……」
「ちが~う!!いい加減にしろよお前っ!」
 バンッと机を叩いて怒鳴るように逸輝は言った。だがその所為で折角恵太郎が逸輝のために入れたお茶の入った湯飲みが倒れ、熱い湯が辺りに飛び散った。それは当然逸輝の方に流れて行く。
「うわっちいいいい!」  
「うわわっ!」
 恵太郎は慌てて布巾でテーブルの端をせき止めると、湯が下に落ちるのを防いだ。
「……なあ……普通……俺を拭いてやろうって思わないか?」
 ジーパンを濡らしながらも逸輝は言った。熱さに強い男だ。
「逸輝っ!なにぼーっとしてるんだよっ!折角せき止めてるんだから椅子からどけてよ!そっちにまた湯が落ちるってっ!」
 恵太郎は相変わらず必死にテーブルにこぼれた湯をせき止めていた。何処がおかしいことに本人は全く気が付いていないのだ。
「……も……いいけどな……」
 渋々という感じで逸輝は椅子から腰を上げ、濡れた膝に自分のハンカチを押し当てていた。
「大丈夫?火傷しなかった?」
「うるせえっ!」
 机を拭きながら恵太郎が言うと、逸輝は真っ赤な顔をして怒っていた。
「……だからさあ……逸輝……。さっきから何を怒ってるの?」
「怒ってねえっ!」
「怒ってるじゃないか……僕……何か気に障ることでもした?」
「してねえよ……」
「してねえって……してるから怒ってるんだろ?」
 暫くにらみ合っていたが、逸輝の方から視線を逸らせた。
「……ねえ、濡れてるよ……脱いだら?干したら夕方までに乾くと思うし……」 
「……分かってる」
 逸輝が機嫌を損ねているのは気付いているが、やはり理由の分からない恵太郎は布巾を流しで絞るとテーブルに畳んで置いた。
 何怒ってるんだろう……
 普段と変わらないように見えて逸輝の行動は不自然で仕方がない。その逸輝を見ているとキッチンから出て、ベッドのある部屋でジーパンをいそいそと脱いでいた。春先とは言えパンツ一枚では寒いだろうと思った恵太郎は逸輝が履くことの出来るズボンを探すことにした。
 恵太郎は逸輝のいる後ろ側にあるタンスを開け、大きめのズボンがないか探してみた。だが元来衣装持ちではない恵太郎の衣類では逸輝のサイズに合いそうなズボンが無い。
 どうしようかなあ……
 引き出しの中身を見つめながらぼんやりしていると、逸輝がいきなり後ろから抱きついてきた。
「なあ……」
「……え?」
「ケイって……俺の気持ち分かってる?」
「……気持ちって?」
「俺は……その……なんて言うか……」
「別にパンツ一丁でも、僕は恥ずかしくないから隠さなくていいよ」
 恵太郎は逸輝がパンツ姿になった自分が恥ずかしいからこんな事をしているのだと考えた。
「……だから……違うんだって……」
「……違うって何が?」
「お……俺は……その……」
 もにゃもにゃとはっきりと逸輝は言わない。
「……お前が……」
 目をパチパチと数度瞬かせた恵太郎は次の言葉を待った。
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