Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第3章

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 鳴瀬に連れられ裏から回り、本家の屋敷より一回り小さな建物に出た。それは秘書専用の建物であることは恵太郎も知っていたが、中に入ったことは一度も無い。
 中には引き取られた人間でも、里子に出なかった子供はここに住み、学校に通うこともあると聞いた。
 僕は有無を言わさず預けられたけど……
 それって、内向的なのを直すには外に出すしかないと思ったのかな……
 当時、大人しかいないこの場所に残りたいと恵太郎は思わなかった。だから、預けられることにイヤな気はしなかった。
「こっちは鍵が必要だな……まあ……それも真下さんが用意してくれると思うよ。このうちは俺みたいな秘書ばっかり集まってるけど、一つ一つの部屋が独立して、鍵ついてるし、風呂やトイレとあと、キッチンがついてるからプライバシーは守れるよ。寮じゃないからね」
 鳴瀬はそう言って笑った。
「へえ……」
 マンションみたいな物なのかなあ……
 一人暮らしをしたいといつも思っていたため、鳴瀬の教えてくれたことがとても恵太郎は嬉しかった。
「ただ、君は収入源が無いから……そのへんをどうするんだろうな……。生活費として支払われて自炊するのか、おばさんに頼むのかな……」
 鳴瀬は独り言のように言い、玄関を開けた。
「おばさん?」
「そうだよ。独立した部屋にはなってるけど、掃除をしてくれるおばさんが通いできてくれているよ。まあここは男ばかりだから、自分達でするにしても女性の細やかさには敵わないんだよね。で、君の部屋だけど……一階の一番奥って……」
 チラリと恵太郎と見て怪訝な顔を鳴瀬はした。その理由が恵太郎には分からなかった。
「あの……どうしたんですか?」
 よいしょとスポーツバッグを持ち替え、恵太郎は鳴瀬を見た。
「……いや……何て言うか……」
 笑いながらどんどん鳴瀬は歩いていく。その後ろをやはり恵太郎は付いて歩いた。すると一番奥の部屋に案内された。何となく薄暗いような気がしたのは気のせいだろうと恵太郎は思うことにした。
「ここが君の部屋になるから……俺の部屋は二階。丁度ホールから上がった階段を左に曲がって手前から二つ目だから何かあったらいつでも呼んでくれたらいいよ。でもあんまりここにはいないからな……」
 扉を開き中に入ると、奥、手前に六畳ほどあり、全部で十二畳ほどのフローリングの部屋だった。真ん中にある仕切を外せば、広々とした部屋になるだろう。
 左側にあるキッチンはコンロが二つついた小さなもので、風呂やトイレは右側にあるようだった。
 なんだか……
 ワンルームっぽい……
 ふとそう思いながらそろそろ入ると、人が住んでいなかった割には綺麗な場所であった。
「まあ……慣れるよ。ちょっと寂しいだろうけどね。どう、何とか一人で住めそうかい?」
 クスクス笑いながら鳴瀬は言った。だが恵太郎は東に引き取られ、すぐに佐中家に預けられてからの数年は仮の家族が出来たが、それまでは父と子二人暮らしだったのだ。その父は滅多に家にはいない男だった。
 だから恵太郎が一人で料理を作り、それを食べ、かたづけて眠る。朝起きたら同じように朝食を作り学校へと向かっていた。
 だから別に寂しくはない。
 昔の生活に戻るだけなのだ。
 逆に、ここで干渉をされることも無いために楽かもしれないのだ。本当はどうかと問われたら寂しいと漏らしてしまうだろう。だが恵太郎は昔の生活を思い出すことで何とか言葉を呑み込んだ。
 内向的だと思われてるし……
 あ、そうなんだけど……
 寂しいとか言って、今度は乳離れしてないと言われるのは嫌だ……
 恵太郎はそう強く思いながら自分のスポーツバッグを床に置いた。そうしてペタペタとあるき、奥の部屋に入る。すると真っ先に大きな窓が見えた。
 窓にはクリーム色のカーテンが掛けられており、恵太郎はなにも考えずにそれを開けて外の景色を眺めようと思った。だがカーテンの端を掴むと、鳴瀬が「あ……」と、声をあげた。
「何ですか?」
 チラリと振り返り、恵太郎は言った。
「いや……何でもないよ……たださあ、景色が良くないから開けない方が良いかなあと思って……。ほら、こっちは建物の裏側の窓になるしさあ……」
 鳴瀬のその言葉に嫌な予感がしたが恵太郎はそろそろとカーテンを開け、外を覗いてみた。
「……」
 そこには鬱蒼と茂った木が生えており、何故か古ぼけた井戸がある。井戸はコンクリートで出来ているのだろうが、あちこち破損し、ヒビも入っているために気味が悪かった。
 見る限り、誰かが使っているようには見えない。だったら埋めてしまえば良いのだろうが、何故か風化するに任せているようだ。
 恵太郎はその井戸から何かが這ってくるような気持ちに駆られ、思わずカーテンを閉めた。
「ほら、見ない方が良いだろう?別にあの井戸で誰か死んだわけじゃ無いんだけど、ちょっと景色が良くないからってここは使ってない部屋だったんだ。まあ、ここしか空いていないから諦めて貰うしかないんだろうけどさ……」
 乾いた笑いで鳴瀬は言ったが、なんだかまだ何かありそうな雰囲気だった。
「……あのう……何か出たりします?」
 恐る恐る恵太郎は聞いた。
「何かって?」
「その……お化けとか……」
 そう言うと鳴瀬は真っ青な表情になった。
「止めてくれよ……俺……そういうの駄目なんだよ……。じゃあ……俺、実は自分の仕事部屋でやってる最中呼ばれたんだ。だから悪いんだけど暫く恵太郎君は自分の荷物を片づけて、適当にくつろいでくれる?済んだらまたこっちに来るよ」
「……あの……」
「あ、それと。俺は君に自己紹介したけどね、ここに住んでる人達の紹介は無いから。そうだなあ……この部屋一つがマンションの一室だと思ってくれたら良いよ。だから別に誰かにすれ違ったからっていちいち挨拶しなくていいから。他の人達にはきっと真下さんから連絡入っていると思う」
 ……紹介無いんだ……
 なんだか……
 すごいところに来たみたいな気がする……
 ここに来て恵太郎は初めて後悔した。それがそのまま表情に出ていたのか、鳴瀬は苦笑しながら近寄り、俯き加減の恵太郎の頭を撫でた。
「すぐに慣れるから……そんな顔しなくていいよ。まあ……癖のある人もいるけど、大抵みんないい人だから……な?ただ、仕事が忙しいと、表情も険しくなる時もあるし向こうは無視する気がなくても、君がそう見てしまうかもしれない。だからといって君に当たったりしないから怖がらなくても大丈夫だから……」
「……そうなんですか?」
 上目遣いで恵太郎が言うと、鳴瀬がいきなりこちらの頭に手を置き、髪をぐしゃぐしゃとさせた。
「なんか可愛いよなあ……こう、俺よりちっちゃいし、グリグリしてやりたいよ~。俺、こんな弟が欲しかったんだ」
 髪をくしゃくしゃにされた恵太郎は驚いて目を見開いた。
「え……え……あのう……ぼ、僕……」
「ま、これからも宜しくな」
 言って鳴瀬は、恵太郎の頭から手を離すと、部屋から出ていった。
 ……
 なんか……
 変な人だ……
 恵太郎は先程鳴瀬によってくしゃくしゃにされた髪を自分で整えながら、ベッドに腰をかけた。
 僕……
 もしかしてとんでもないところに来たのかも……
 はあと深いため息を付き、足をブラブラさせる。シンと静まりかえった部屋が妙に寂しく思うのは、何時も騒がしいうちにいた為に余計にそう思うのだろう。
 天井を見、次ぎにフローリングの床を見る。目線にはぽつんと置いたスポーツバックが転がっていた。
 とりあえず……
 荷物を片づけようかな。
 恵太郎はベッドから降りるとスポーツバッグを開け、持ってきた衣服を引っ張り出した。
 何処に片づけたら良いんだろう……
 幾つか衣服を手に持ち、キョロキョロすると、部屋の壁が開くようになっているのに気が付いた。そこを開けると左が引き出しになっており、右側がコートなどをぶら下げるポールが付いてた。
 恵太郎が適当に衣服を片づけながら、一番下の引き出しを何気なく開けた。すると引き出しの端に何かがあった。
 ……
 何これ……
 ボロボロになっている布が、引き出しの端に丸まっていたのだ。恵太郎はそれをゴミ箱に捨てようと手で掴むと、何やらぐにゃりとした。
「ひゃあっ!」
 思わず手に取った物を床に落とした。よく見るとネズミの死体だった。
 ……
 なんでこんな所に入ってたんだろう……
 もしかして迷い込んだまま、死んだのかな……
 でも……
 こんな所に迷い込むものかな……
 じっとネズミの死体を眺めながら恵太郎は考えた。引き出しは元々締まっていたのだ。頑丈な木の箱は何処にも穴など空いていない。
 ……
 もしかして……
 嫌がらせ?
 と、考えたが嫌がらせを受ける理由が思い浮かばない。
 気にしないことだよね……
 恵太郎はそう思うことで、ネズミの死骸がここに入っていたことを忘れることにした。今問題なのはこれをどうするかだった。
 ……
 埋めてあげた方が良いよね?
 昔何かの映画で、トイレに死んだ小鳥を流そうとした母親が、子供に見つけられ気まずい思いをするシーンがあったことを思い出した。
 埋めてあげよう……
 だが問題はどうやって掴むかだった。恵太郎は鞄からハンカチを取りだしそれで恐る恐る包むと立ち上がった。
 埋めるって言っても……
 扉を開けようとしたが、このうちは鍵が無いと入られないことを恵太郎は思いだした。何より敷地内にはあちこち防犯カメラがあるのだ。そんなものに、うろうろと挙動不審に歩き回る自分の姿を捉えられたく無かった。
 ……
 じゃあ……
 残ってるのって……
 ネズミを包んでいるハンカチを持ったまま、恵太郎はそろそろと窓際に近づいた。この向こう側は、木が茂りネズミを埋めてやれる場所も沢山広がっている。
 ただ井戸が問題だった。
 気持ち悪いんだよな……
 あれ……
 先程見た井戸は、なにやら不気味な雰囲気があったのだ。あの時は二度とカーテンを開けるものかと思ったのだが、手に持っているネズミを埋めてやれるのはその近くにしかない。
 ……
 どうしようかな……
 カーテンをそろそろと開けると、やはり井戸が不気味な存在をこちらに見せつけている。
 近づかなかったらいいよね……
 昼間だし……
 幽霊って昼間は出ないって決まってる。
 恵太郎は窓を開け、桟によじ登ると向こう側に降りた。だが昼間だというのに辺りは薄暗い。それは回りに生えている木が、葉を茂らせているからだ。それらが頭上で重なり合うために、ここまで日の光が降りてこないのだろう。
 上をぼんやり眺めていた恵太郎であったが、さっさとネズミを埋めてここから立ち去れば良いのだと思った。
 井戸の方を気にしながら、そこから少し離れた木の根元にネズミを包んだハンカチを置き、近くにあった木の棒を掴むと恵太郎は穴を掘りはじめた。
 だが土は意外に硬く、なかなか掘り起こすことが出来ない。
 何でこんなに硬いんだろう……
 ガシガシと木の棒で表面を突き刺し、硬い部分を柔らかくしようとするのだが、踏みしめられたような土がカチカチになっていた。
 だが恵太郎は諦めず、何度も木の棒を使って土を掘った。
 やっぱり深いところに埋めてやる方がいいよね……
 恵太郎は額に滲んだ汗を拭き、相変わらず硬い土を掘り起こすことに専念した。
 暫く土と格闘していたが、ようやく小さな穴が空いた。ホッとしながら恵太郎は更にその穴を広げ、とうとうネズミを埋められるほどの穴が空いた。
「ふう……」
 額の汗を拭い、恵太郎はハンカチに包んだネズミを穴に埋めようとした。ただ、いくら可哀相だとしても、死んだ生き物は何となく恐い。
 僕を恨まないでね……
 僕は何もしてないんだから……
 それに僕は君をこうやって埋めてあげるんだし……
 恨むなら、君をあそこに閉じこめた人を恨んでね……
 心の中で何度もそう呟きながら、穴の一番下にネズミを置こうとした瞬間、後ろから「うううう……」といううめき声が聞こえた。
「ひっ……!」
 あまりにも突然のことであった恵太郎は、手に持っていたネズミを包んだハンカチを放り投げ地面に膝を抱えて蹲った。
 ……
 シーン……
 暫くブルブルと震えていたが、二度と声が聞こえないことに気が付き、恵太郎は顔を上げた。
 ……
 声が聞こえたのは後ろからだった……
 後ろって……
 井戸じゃないかっ!
 ……
 やっぱり何かいる?
 お化けかな?
 だが声は一度聞こえただけでもう聞こえなかった。
 恵太郎はじわじわと井戸に近づき、側まで来ると縁を掴んで思い切って中を覗いた。すると真っ暗なのだがあるはずの水がなく、何故か明かりが漏れている。
 最初それをみた瞬間、恵太郎は自分の目がおかしいのだと思い、何度も目を擦ったのだがやはり下から明かりが見えた。
 ……
 この下に誰か住んでるの?
 地下通路になってるとか?
 もしかして……
 何かあったときのための秘密の抜け穴になってるとか?
 それとも、泥棒が必死にこの屋敷にある金庫を狙って地下を掘ってるとか?
 井戸の縁を掴んだまま恵太郎はそんなことを考えたが、飛び降りられる高さではない。
 ……
 気になるけど……
 無理だよなあ……
 暫く下を眺めていたが、恵太郎は顔を上げてネズミを探すことにした。だが結局ハンカチも、それに包んだネズミも見つけられなかった。
 下に落ちてしまったのだろうか?
 だが、仮に落ちてしまったとしても、井戸の底は弱々しい光が壁側の方から漏れているだけで、ハッキリと底が見えるわけではない。だから井戸のそこに落ちたかどうかも分からなかった。
 結局、恵太郎は確かめることが出来ず、散々井戸の回りをうろうろした結果、仕方無しに諦めることにした。
 
 来たときと同じように、恵太郎は開けはなった窓から部屋に戻ろうと足をかけたところで、誰かが部屋にいることに気が付いた。
「あ……」
 桟を跨いだまま恵太郎は、表情の読みとれない顔をして立っている真下と目があった。
「外で何か楽しい物でもみつけたかい?」 
 言って真下は口元だけで笑った。だが眼鏡のレンズ部分が丁度光を反射しており、冷たい表情に見える。
「……あの……井戸に……じゃなくて、持ってきた服を片づけていたらネズミが死んでいたんです。それで……埋めてあげようと思って……」
 恵太郎はネズミを見つけたこと。可哀相だから外に埋めてあげようとして、井戸から声が聞こえたこと。その事に驚いてネズミを何処かに投げてしまったことを話した。
 そうして話し終わると、真下は言った。
「ここは誰も使っていなかったのだから、どうにかしてネズミが入ったことになるね。じゃあ、ネズミはどうやって引き出しを開けたのか鳩谷君には説明できるのかい?」
 口調は優しいのだが、

 そんな馬鹿なことがある訳無いだろう。
 嘘を付くんじゃない。
 
 と、真下が考えているような雰囲気があった。
 だって……
 本当なんだもん……
 せめて井戸の底に落とさなければ、墓が出来上がったはずなのだ。だが、うめき声に驚いた瞬間、ネズミを包んだハンカチを何処かに投げてしまったのだから証拠がない。
 ……
 いいけどさ……
 別に……
 いじいじとしていると真下は更に言った。
「夕方には君の荷物が届く様に手配した。そうだな……数時間後には届く筈だよ。この建物の表に引っ越会社がくるだろうから、自分が思うところに配置して貰うと良い。足りない物は適当に買いそろえてあるから、見慣れない物が運ばれてきても自分のじゃないとは言うんじゃないぞ」
 淡々と真下はそう言って手をポケットに突っ込んだ。
「……あ……はい」
 見慣れない物が何を指しているのか分からないが、貰えるのなら良いかと恵太郎は思った。
「手を出してごらん」
 真下が言うので、恵太郎はそろそろと手を出した。すると鳴瀬が持っていたものと同じキーと、似ているが少し形状の違うものとを渡された。
「これはとても大切な鍵だ。一つは建物の鍵。一つは自分の部屋の鍵。この二つを大切にするんだよ。他の秘書達は自分の部屋にとても大切な資料を抱えているからね。これを落として泥棒にでも入られた日には目も当てられない……」
「はい。大事にします」
 ギュッと鍵を握って、恵太郎は言った。
「……良い子だ。本当に大切にしてくれよ。それと、屋敷の方のキーは申し訳ないが君にはまだ渡せない。何かあったらこちらから呼ぶから、その時は裏を自動で開けるようにするよ。当分はそのつもりでいてくれるかな?」
 恵太郎としてはその方が良かった。落としました。ごめんなさいで済まないようなものを持ちたいとも思わなかったのだ。
「はい……落とさないようにします」
 神妙な顔で恵太郎は言った。だがとにかく真下と一緒にいるとピリピリするのだ。嫌なのではない。真下がスマートなため、よけいに浮いてしまう自分の鈍くささが目に付くのだ。そんな自分が嫌だった。
「……そんなに、かしこまらなくて良いんだが……」
 苦笑しながら真下は眼鏡を外して、それを手で弄んだ。するとクールで近寄りがたい真下の雰囲気がやや柔らかくなった。
 期待されている訳ではないのだろうが、やはり迷惑だけは掛けたくない。
「あの……僕……ほんとうにここにいても良いんですか?」
「どうして?ここが君のうちだよ。他の秘書にとってもここがうちだ。別に遠慮することはないさ。普通引き取った子供は多少慣れるまでこのうちで生活をさせるんだが、君の場合はすぐに外に出してしまったからね。突然帰って来いだの、これからはここに住めだの言われたら、居心地が悪いのも仕方ないだろう。徐々に慣れていってくれたらいい。君より年上しかいないだろうが、優しい人間ばかりだからね」
 真下はおだやかな声で言い、外した眼鏡をかけ直した。
「……はい」
 不安は多々あるが、自分でここに戻る決心をしたのだ。慣れるまで真下の言うとおり色々あるだろうが、頑張るしかないと恵太郎は思った。
 だが、手芸部を止めるつもりはなかった。   
「あ、真下さん……」
 用事が済んだのか、鳴瀬が部屋に入ってきた。すると、真下はくるりと振り返り、ひそひそとこちらには聞こえない声で何かを話しを始めた。
 恵太郎は、仕事の話だろうとぼんやりしていると廊下からチラリとこちらを覗き、すぐに顔を引っ込めた男性の姿があった。
 だが一瞬こちらを覗き込んだだけで、二度と顔を出さなかった。
 今の……
 誰だろう……
 一瞬しか見えなかったが、背の高い細身の男性だった。年齢は鳴瀬よりもやや上くらいだが、冷えた目つきをこちらに寄越したような気がした。ただ、それを確かめるよりも先に向こうが顔を引っ込めてしまったため、恵太郎は今の男性がどんな顔をしていたのかもう一度確かめることは出来なかった。
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