Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第8章

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「そうだな……すぐに調べさせよう……」
 真下はパソコンの画面を見ながらそういった。
「依存心が最初それほど無くても、頼らせてくれる相手が側にいたら、助長されてしまうような気がします……」
 意味ありげに宇都木は言って微笑んだ。それは東家にいたころには見られなかった柔らかな笑みだった。この笑顔を見るたびに真下は宇都木を東のうちから出して良かったと思う。
 真下はここに一生居座るつもりだが、出来るなら他にいる秘書達にもいつか東のうちを出て、自分達の道を歩んで欲しいと願っているのだ。
 もちろん慣れた秘書の方が真下の立場からするとありがたい。だからといって東の名前に縛り付ける権利はない。
 宇都木のようにおだやかに笑えるようになるのなら、人からのお仕着せでなく自分で選び、より良い人生を歩んで貰いたいと真下は本気で考えていた。もちろん、全てが上手く行くとは限らないだろう。その時はここに戻ってくればいいのだ。
 それこそ家というもののあるべき姿なのだと常日頃真下は考えているのだ。
 もちろん東の方針でもある。
 時に手の付けられない程の頑固な部分を見せる東であったが、基本的に善人だ。仕事上でどれだけ冷酷さをみせても、道で泣いている子供を捨て置けない優しさも同時に持ち合わせているのが東という老人だ。
 東がそれほど子供に執着するのは、本人がやはり同じ境遇だったらしい。今の自分があるのはもうこの世にはいない養父母が養ってくれたからだという。
 まるで本当の子供のように可愛がって貰ったそうだが東が戦争から引き上げてくるとどちらも亡くなっていた。
 そこでがむしゃらに働き、その苦しい時代に今の東グループの基盤を構築した。もっと若い頃は随分悪いこともしたらしいが、ふと振り返ったときに、一人両親に路傍に置き去りにされた自分を思い出し愕然としたらしい。
 それから虐待されている子供や、置き去りにされる子供を見つけるとこのうちに連れて帰ってくる。
 真下から見ると東は子供の無邪気さを未だに持っている老人だ。いや、持っているのではなく取り戻そうとしているように真下には見える。
 本人も無邪気なことが出来る時期が無かったから、今、ようやく取り戻しているんだと、しわだらけの老人は冗談ではなく本気で口に出していた。十五離れている都もそんな東が夫であるのに可愛らしく思い、止めることはない。
 そんな東につきあわされているのが真下だった。秘書でありながら、個人的な遊びにもつきあうのが真下の仕事になっている。
 真下はそんな子供っぽいところを持つ東を尊敬してた。だからこそこの屋敷に今も居座っているのだ。もちろん真下自身も東に拾われてここに連れてこられた。
 今までに何度となく見合いを東は勧め、他の仕事に興味がないのかと問われてきたが、ここが一番真下には水が合っていた。
 出たいと思ったことなど本当に無い。結婚も煩わしいだけで家庭を築きたいと考えたことも無かった。
 普通興味を持つだろう事柄を真下が三十六になっても持たないのは、一つは仕事が忙しく気が回らないからだろう。もう一つは、これが多分一番の問題なのだろうが、両親に捨てられたという複雑な気持ちから家庭を持つことに躊躇するのかもしれない……と、最近は結婚を考えない自分をそう分析するようになった。
 だが自覚は無い。
 ただ、そうなのかもしれないと考えるだけであった。
「真下さん?」
「ああ……済まないね……ちょっと考え事をしていた……」
 フッと我に返り真下はややずれている眼鏡をかけ直した。
「珍しいですね……」
「そうか?だが私は宇都木が誰かさんに頼っているから、恵太郎君の事が分かるかと思ったよ……」
 切り返すように真下は言って笑うと、宇都木は頬を赤らめていた。
「は……そう……そうでしょうか?」
「まあ……頼りない相手だから心配だがね……」
 クスクス笑うと宇都木は慌てていった。
「いいえ……あの人は頼りになります」
 そこには信頼しきっている瞳がある。宇都木にとっては如月が頼りになる大切な人になるのだろう。
「そうか?」
「そうです」
「……のろけられると困るんだが……」
 にやにやとしながら真下は言った。
「……え……あ……済みません。いえ……違います」
 オロオロする宇都木は本当に見ていて楽しい。 
「それでだ……宇都木。話は変わるが白川をどうしたらいいと思う?」
 宇都木に言うとまた目をまん丸くした。
「良いのではありませんか?人を想う気持ちは自由です。もしかすると、今後は真下さんも好意を抱くこともあるかもしれないでしょうし……」
 真面目に宇都木は言う。
「……抱くわけ無いだろう……」
 苦笑いしながら真下はやんわりと否定した。
「……人間の気持ちなど本当に分からないものです。私も……今自分がこれほど幸せになれるとは思いもよりませんでした。だから真下さんもこの先のことは分からないと思うんです」
 真下とは違い、宇都木は相変わらず真剣だ。
「……まあ……そんな事もあるだろうということにしておくよ……」
 聞いた相手が間違っていたのだ。
「ええ……。真下さんが応えられなくても……誰かを思う気持ちまで止めてやらないでください……」
 多分宇都木は自分と重ねているのだろう。
 だがなあ……
 白川に幾ら惚れられても……
 そうは思うがもちろん、白川の気持ちを無理に押さえつけることは出来ない。例え想いの矛先がこちらを向いていたとしても、人が誰を想おうが真下には感心がないのだ。
 宇都木……
 実は私は冷たい男なんだよ……
 どんな穏やかな表情も作ってみせるが、真下にとって一番大切なことはこの東の家を守ることだ。もし如月がこの東家に仇なすような行動をとろうものなら、計画前につぶしているだろう。そこで宇都木が泣くだろうと予想しても真下は自分の手をゆるめることは無い。
 だからこんな自分は冷たいのだと真下は考えていた。だが本当の真下を知る人間は多分いないだろう。
 それで良いのだ。
「じゃあ真下さん……私はこれで失礼します。帰りの参考書など買わなくてはなりませんし……」
「参考書?」
 扉のノブに手をかけた宇都木に真下は聞いた。
「あ、明日実力テストを行いますので……」
 思い出したように宇都木は振り返った。
「実力テスト?」
「ええ……何処が弱いのかを私も把握しておきませんと、闇雲に教えることは出来ませんので……」
 ふふと楽しそうに宇都木は笑った。
「……忙しいところ頼んで悪かった」
「あの人も留守ですし、暇をもてあましていたんです。私の方こそ楽しいお話で、感謝しています」
 本当に宇都木はそう思っているようだった。なら、気を使う必要は無い。逆に一人で宇都木が寂しそうに家で暇をもてあましている姿を想像する方が可哀相だと本気で真下は考えていた。
「そうか……じゃあ明日また来てやってくれ……」
 真下が言うと、宇都木は丁寧に頭を下げて部屋から出ていった。
 その表情は嬉しそうだった。
 宇都木は特に如月がいないと、顔には出さないようにしているようだが、趣味のない男は何か気を紛らわせる事を何も見つけられずに、途方に暮れるのだ。真下は如月のことなど本当にどうでもいいのだが、宇都木が何かに耐えていたり、悲しんだりすると心が痛む。
 特に宇都木はこちらが見ていられないほど相手に尽くすタイプだった。だから何かに没頭する宇都木はまず自分の身体のことを二の次に考える。
 これは如月に対してだけでなく、宇都木は何事にもそうであるから真下は心配なのだ。だが生い立ちから考えるとこの性格は仕方のないことなのだろう。事情を知っているからこそ真下も諦め、できるだけ気を配ってやることで宇都木の負担を減らしてきた。
 もちろん宇都木だけではなく、真下は自分が束ねている秘書達のこと全員に気を配っている。それぞれの性格があるために、その個性にあった一番良いであろう方法を選んで接していた。
 誰かに偏ることは責任者にあるまじき行為だからだ。
 まあ……
 宇都木が如月ともめていたときは色々あったが……
 それなりに皆、色々事情を抱えているからな……
 あの時は滅多に屋敷から出ることのない真下が自分で車を運転したものだから周囲が驚いたものだった。
 たまには……
 車の運転もするさ……
 そう正永に言い、屋敷から出たのが最後、最近はまた敷地内から外には出ていない。用事が無いのもあるが、外に出るのが億劫なのだ。
 これもまた問題なのかもしれない。
 椅子に深くもたれながら、そのまま窓側に身体を動かして真下は外を眺めた。すると屋敷内を照らすライトに浮かび上がった常緑樹が真っ黒なシルエットとして目に映る。突きだしている枝は風に揺れ、左右にユラユラと枝や葉を動かし、その姿はまるで奇妙なダンスを踊っているようだった。
 そのシルエットに人の姿が混じっていたことがある。
 それは遠い昔のことだった。
 
 恵太郎がようやく全てを片づけ終わると、お腹が空いていることに気が付いた。
 お腹空いた……
 シャツの上から腹の辺りを撫で、途方に暮れたようにキョロキョロと見回したが答えをくれる人間は今ここに誰もいない。分かっていることと言えば自分の身長より小さな冷蔵庫に沢山食材が入れられていることだけだ。
 それは冷蔵庫がここに運ばれてきた段階で既に入れられていたものだった。
 用意が良いんだ……
 何から何までお膳立てされた場所に、恵太郎は一人ぽつんと座り込んでいた。先程まで荷物をあちこち片づけていたため、終わったとたんに脱力した。
「疲れちゃった……」
 ベッドに身体を伸ばし、声を出す。たった一人しかいないこの部屋で声を出すことは滑稽なのだろうが、今まで血は繋がっていなかったとはいえ家族がいたのだ。
 一人で部屋に籠もっていても、下から横から聞こえてくる楽しげに話す声や、怒られている声など、このうちには人がいるのだという物音が無く、ひたすら静かだ。
 もしかしてみんな息をひそめ、小さな物音すら立てないようにひっそりと暮らしているのだろうか?それとも本当にこの大きな家に誰もいないのか?
 先程の白川が出ていった気配はしなかったのだが、扉の開閉を聞き逃しているのはたぶんにある。大体がぼんやりしている恵太郎であるから、どちらかと言えば気付かなかったというほうが正しいのだろう。
「あ~あ……」
 先程やってきた宇都木は明日抜き打ちテストをすると言ったことを思いだし、恵太郎は憂鬱になっていた。数学が嫌いなのは昔からだ。今更好きになることなど出来ない。
 もちろん、宇都木が恵太郎に数学を好きになれとは言わなかったが、たいていの人は自分が好きなものは相手も好きになると思い違いをしているから困るのだ。
 恵太郎は何度も言うようだが数学が嫌いだった。どんなに好きになれと言われてもきっと無理だ。
 要するに……
 僕の頭って数字が得意じゃないんだよ……
 自分で納得するように恵太郎は天井を見ながら呟いた。
 好きになれるんだったらもっと早くになってると思わないのかな……
 地を這う成績は進学に影響するとはいえ、とりあえず悪いのもひっくるめて平均を出すとごく普通の数値になるのだ。
 これでいいと思う……
 人には向き不向きがあると恵太郎は考える。恵太郎の場合、向いていたのは手芸であり、向いてなかったのは数学という教科だ。
 何となく二つを並べるのは間違っているかもしれない……と感じたが、好き嫌いで分けているのだからおかしくはないのだと思うことにした。
 でも……
 宇都木さんって……
 すっごく厳しそう……
 白川の様に目に見える冷たさや、それを醸し出すような雰囲気はない。逆に宇都木の立ち居振る舞いは、とてもおだやかで、一緒にいると安心できるものだった。だからどう考えても数学を理解しない恵太郎にむかつく事はあっても、本気で優しく言葉をかけてくれると思わないのだ。
 もちろん宇都木は表面上は優しげに微笑むだろう。しかし、数学が嫌だと言って泣きわめいたとしても、泣きつかまるまでそばで佇んでいそうな相手だった。
 いや……
 本当に待っているはずだ。
 ただ、恵太郎の物覚えが悪いからと言って、あの宇都木が理不尽な暴力を恵太郎に振るったり、力づくで何とかしようとするとは思えない。それでも何か使命を帯びているような相手は困るのだ。
 まず恵太郎は家庭教師という人間を信用しない。
 厳しいタイプも優しいタイプもどちらとも信用できない。担当する子供の事よりも、どれだけ成績を伸ばすことに成功したか……だけが彼らの目的だからだ。
 何故そうなるのか、それを覚えて勉強することにどういう意味合いがあるのかなど聞いても真面目に教えてはくれない。
 要するに迷わないで覚えてしまえと言うことだ。恵太郎のくだらない質問に答える為に時間を割くより、一問でも例題をやってもらいたいと思うのが家庭教師だ。
 確かに事情が分からなくも無いが、恵太郎は実力成果主義の家庭教師になど来て欲しく無かった。
 要するに家庭教師などというものは一概に成績のみの結果だけで一喜一憂するのだから呆れてしまう。随分以前のことだがあまりにも恵太郎の成績が下降線をたどった時期に母親役である敬子が家庭教師を雇うことにした。そのときキッチンで派遣会社と敬子の会話を聞いてから、恵太郎は気が進まなかったが、少しだけ存在していたやる気を完全に無くしてしまったのだ。
 内容は家庭教師の派遣会社とは約束された成績のラインがあり、それを乗り越えたら彼らに支払われる報酬が上がるというものだった。だから彼らは人間相手に勉強を教えているのではないのだろう。
 もしかすると彼らには恵太郎の顔が金の成る木のように映っていたのかもしれない。
 そりゃあ……
 あんな優しそうな宇都木さんがそんなこと考えてるとは見えなかったけど……
 恵太郎は過去あったことで家庭教師という言葉自体に先入観があるのだから、いくら否定しても結局は自分が昔受けた出来事と重ね合わせてしまう。
 何度目か分からないため息をついたところで携帯が鳴った。
「もしも……あ、逸輝……」
 ベッドから恵太郎は身体を起こして座った。
「おまえ、何処にいるんだよ。おばさんに聞いたら元々のうちに戻ったっていうだけで家の住所教えてくれなかったしさあ……」
 逸輝はぶつぶつと言った。かなり頭にきているようだった。
「ごめん……落ち着いたら連絡しようと思ってたんだけど……今日引っ越しだったんだ」
 その話を逸輝にはしてなかったのだ。
 するつもりでいたのだが、転校になるかもしれないという不安があったために、はっきりと話せなかったのだ。
「まあ……ちゃんと生きてるみたいだから良いんだけど……」
 安堵のため息が電話口から聞こえた。
「ほんっとごめん……」
「で、実際何処に引っ越したんだ?」
「随分前に話したと思うけど……東のお屋敷に何故か住むことになって……。言っても僕は元々佐中家には正式に養子に出されていた訳じゃないから、元々の予定と言えばそうなるんだけど……」
 もごもごと恵太郎は言った。
「……そういや……そんなこと言ってたよな……思い出した……。でも東家って……あの東グループの本拠地って言うか……すっげーじいさんが王様みたいに暮らしてるところだったっけ?」
 何か逸輝は間違った事を誰かに聞いたようだ。
「東のおじいさんにはまだ挨拶してないけど……。なんか……大変なことになりそうだから憂鬱なんだ……」
 恵太郎は俯き加減にそう言い、逸輝に今までの事の次第を話し出した。
 全部話し終わると逸輝は暫く無言になり、そうして恵太郎がぐるぐるあちこち見渡すほどの時間が経ってから口を開いた。
「なあ……おれんちに来たら?」
 その逸輝の声は滅多に聞かれないほどの真剣な 口調だった。
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