Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第4章

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「ああ、彼は白川葉月」
 真下はそう言って振り返った。
「え?」
「今、廊下から顔を出していただろう?その彼の事だよ」
 ニコリと笑って真下は言った。
「は……はい」
 恵太郎は自分が考えたことを見透かされたような気がした。
「じゃあ、俺、行きます……」
 鳴瀬はそれだけを言うと部屋から出ていった。
 恵太郎は、真下と二人きりになったことで視線を俯かせた。
 何故か真下と二人きりになると、落ち着かなくなりそわそわしてしまうのだ。
「下を向かない」
 俯かせた顔を掴まれ上を向くよう真下に促された。
「……は……はい」
「そうやって俯くと余計に内気に見られるだろう。私と話すときはもちろんだが、誰と話すときでもきちんと相手の顔を見て話すんだよ。いいね?」
 穏やかな口調ではあるが、きっぱりと真下は言った。恵太郎はとりあえず真下の方を向くと小さく頷いた。
「私は君の父親を知っているよ」
 突然、真下は小さく笑った。
「……え?」
「いや……同級生だったんだよ。高校の時だが……。と言っても、昵懇の仲という訳ではないんだが、聞いたことはないかい?」
「いえ……」
 真下から初めて聞かされたことは驚きだった。父親のような破天荒な人間と、しっかり地に足を着けているように見える真下と同級生だと聞かされても信じられないのだ。
「そうか」
 何処か遠くを見ながら真下は何か思い出している。恵太郎はその表情から目を離せなかった。
 真下の物事を深く見据える瞳は思慮深く、優しい輝きがある。厳しい口調の中にも確かにこちらを気遣う気持ちが見えるのだ。
 ただ、じっとこちらを見られると、恵太郎はどうしても俯いてしまう。自信を持って生きている男と、自分に自信が無く人の顔色を見てばかりいる恵太郎との差がそうさせるのだろう。
 僕だって……
 こんな風に胸を張れたらと思うけど……
「また俯いているね。困ったな……」
 鼻にかかる眼鏡を押し上げ、真下は困ったように言った。
「……す……すぐに治らないし……」
 顔を赤くして恵太郎は言った。
「もちろんそれは分かっているが……。そうだ。君が私とこうやって話している間に一度俯けばペナルティとして君に支払うお小遣いを減らすと言うのはどうだい?」
 ……はあああ?
 なにそれ?
 恵太郎は驚いて目を見開いているのだが、真下の方は楽しそうだった。
「それって……僕が何度も俯いたら……どうなるんですか?」
 不安げな顔で恵太郎は真下に聞いた。
「そりゃあ、最後にはゼロになるんだろうね」
 クスクスと笑いながら真下は言う。
「……じょ……冗談ですよね?」
「いや……冗談は言わないよ。そうだね。せめてこの話は秘書の間でも有効にしておくといいか……」
 当然の如く真下は言うと、一人で頷いていた。
「……ぼ、僕にきょ……拒否権は無いんですか?」
「無いだろう。東家から君の養育費の一切合切が出ているんだからね。まあこの位して、初めて君は自分の内気な部分を何とかしようと頑張るんじゃないか?一度くらい必死になってみるのもいいだろう」
「……そんなあ……」
 と、言いつつ俯き加減になる自分の顔に気付いた恵太郎はすぐに上に向けた。恵太郎は毎月楽しみにしている雑誌があった。それが小遣いを減らされ、もしくは小遣いが無くなり購入出来なくなると本当に困るのだ。
「ふふ、分かったみたいだね。その調子で、頑張ると良いんだよ」
「……は……はい……」
 養われている身としては立場が弱い。仕方ないといえば仕方ないことだ。
「それともう一つ。こちらが肝心なんだが……」
 やや目線を細め、真下は言った。
「はい……」
 なんのことだろうと恵太郎がドキドキしていると、真下が溜息を付いて言った。
「君の数学の成績は……あれはなんだ?もちろん満点を取れとは言わないが、いくらなんでも酷すぎる」
 ……あ
 ばれちゃった……
 だって……
 数字が嫌いなんだもん……
「……僕……その……数学嫌いなんです……」
 また俯きたくなる顔を必死に上に向けるように努力し、恵太郎は視線だけが彷徨った。
「です。と完結されると、将来君が困るんだよ」
 やや強い口調で真下は言った。
「別に学者になるつもりはないから……」
 とにかく小さな頃から恵太郎は一つしか答えのない算数や数学が嫌いだった。
 数学が出来なくても生きていける。
 お店で買い物をし、お釣りの計算だけできたら良いと恵太郎は考えていた。だから別段数学が悪かろうと気にしたことがなかったのだ。ただ、そう思うことで余計に成績が下降線をたどっていたのは確かであった。
「学者になって貰いたいと言ってるわけじゃない。まず、なってくれと言ったところで、あの成績じゃあ君には無理だろう。そうではなくて、とりあえずの平均は取りなさいと話しているんだ。分かるね?」
 それは分かるけど……
 苦手だし……
「僕……答えが一つなのが嫌いなんです」
 恵太郎は真っ直ぐ真下を見つめて本心を話した。すると真下は何故か口元を抑えて笑いを堪えている。
 自分が何か変なことでも言ったのだろうかと考えていると、真下が言った。
「……多角的に物事を判断する場合、答えは沢山ある。どれを選ぶかは自分の経験がものを言うんだ。ただし、経験というのは沢山の物事を学んで培われるものだよ。好き嫌いは駄目だね……」
 真下の言葉は真面目な内容なのだが、口元は笑っている。それが恵太郎には気になっていた。
「……何が可笑しいんですか?」
 ……
 へ……
 変な人かもしれない……
 初めて恵太郎はそう思った。
「いや……同じような台詞を昔聞かされてね。思い出して可笑しかったんだ。だがその男は数学が抜群に良かったよ。おなじ嫌いでもこんなに差があるのかと思うと可笑しくてね……」
 それって……
 僕のお父さんのこと?
「あの……父ですか?」
「……そうだよ。まあ……どこか飄々とした男だったが……頭は良かったね」
 目の端に涙を浮かべて真下は言った。余程可笑しかったのだろう。だがこちらは可笑しくとも何ともないのだ。
「父と僕は違います」

 ケイも俺の血を引いているからな……
 きっと俺のやっていることを理解できるさ……
 いつかきっと……
 それを理解してくれたら……
 俺の後を追ってくるんだろうな……
   
 恵太郎の父、駿は良くそう言った。だが駿の言うことなど恵太郎は全く分からなかった。恵太郎が望んでいたのは普通の父親だ。だが父親らしいことなど何一つして貰ったことがない。
 母親について聞いたときも話すこともなし。その上、母親を偲ぶような写真すら、駿は全部燃やしたと言って一人で腹を立てていた。
 聞くところによると、母親は恵太郎がまだ赤ん坊の頃、あまりの父親の無鉄砲さに呆れて男を他で作って出ていったそうだ。
 だから母親の写真が無い。もちろん、母親に逃げられるような男が、恵太郎の幼い頃の写真をまめに撮ることなど無い。
 そういう事情で恵太郎には自分の小さな頃の写真が無かった。
「あんなの……父親じゃない……」
 恵太郎はそう言ってベッドに腰をかけた。
 父親のことを話題に出されると本当に嫌なのだ。
「良い父親だったと思うよ……」
 真下は分かったように言う。だが何を知っていてそう断言できるのか恵太郎には分からない。
「……真下さんは知らないから……。僕は……」
「何時も君のことを心配していた……それは知っているよ。もちろん、父親として失格なのは失格だろうけどね」
 真下は恵太郎の真横に腰を下ろし、前を向いたままそう言った。
「僕は普通の父親になって欲しかったのに……全然聞いてくれなかった。あんな奴……父親じゃない……」
 
「……彼はそれでも努力していたよ。まあ亡くなってから聞かされても信じられないだろうがね……」
 淡々と真下はそう言う。
「僕は……英雄になって欲しかった訳じゃない……あんな死に方して……僕は……」
 思い出すと未だに涙が出る。
 あの時のショックを恵太郎は忘れられないのだ。
 問題の日、父である駿から連絡はなかった。それは日常のことで、別段変わったことではなかった。
 恵太郎は普段と変わりなく一人で朝食を食べながら朝のニュースを見ていた。そこで父親が亡くなったのを知った。
 テレビではある事件を報じており、それに係わった男が亡くなり身元不明として写真が公開されていた。
 その身元不明の男が父親だったのだ。
 テレビ画面に映る顔写真を確認した恵太郎は、すぐに警察に走っていった。
 何もかも信じられないことばかりで、自分がパジャマ姿であったことも気がつかなかったほどだった。
 ようやく面会した父親は、まるで眠っているような顔をしており、父親が死んだということがすぐには理解できなかった事を恵太郎は良く覚えている。

 これで最後にするから……

 ようやく普通の父親になることを約束してくれた矢先の事だった。
 僕は……
 ただ普通に暮らしたかったんだ……
 母さんが居なくても良かった。
 父さんが例え破天荒な男であっても良かった。
 二人で肩を寄せ合って普通に暮らしたかっただけだ。
 それなのに……
 父さんは、期待だけを僕に残して死んでしまった。
 恵太郎は数年思い出さなかった父親のことを久しぶりに思い、涙が滲んだ。すると温かい手が頭に触れるのが分かった。
 ……え?
 真下は恵太郎の頭を優しく撫でてくれていたのだ。その温もりに余計涙が落ちそうになったのを、恵太郎は必死に耐えた。
「どんなに腹が立ったとしても、憎むことだけはしてはいけないよ……」
 恵太郎を宥めるように真下は言うと、腰を上げて続けて言った。
「そうだな……可哀想だからとりあえずマイナス100円というところかな?そうだ、もうすぐ君の荷物が届くだろうから、それを片づけたら、本家の方に来るんだよ。いいね」
 真下は立ち上がり、部屋を出ていこうとしたのを恵太郎はぼんやりと見ていた。
 ……マイナス100円って?
 えと……
 もしかして僕……
 俯いてた?
 そ……
 そんなあ……
 今のは無しだよ……
「ま……真下さん……」
 どうにも納得できなかった恵太郎は自分もベッドから腰を上げると、部屋の出口に走った。例え100円でも小遣いをマイナスにされるのは嫌だったのだ。
 だが廊下に出たところで、真下は先程こちらを覗き込んでいた白川という男と話をしていた。
 その二人の雰囲気に恵太郎は声をかけることが出来ずに、思わず柱に身体を押し込んだ。
 ……
 な……
 何だかまずいみたい……
 話が終わってから声をかけたらいいかな……
 と、恵太郎が考えていると、二人の会話が聞こえてきた。

「……それで?白川は何が気に入らないんだ?」
 真下は酷く不機嫌そうな声をしている。先程の口調とは大違いだった。同じ真下の声とは思えない。
「……彼をこちらに住まわせる話は聞いていません」
 白川はそう言って、同じように不機嫌だ。
「東様が決められたことだよ。私じゃない。私は反対したんだからね」
 やや口調を収めて真下は言うと、小さく溜息を付いた。
「真下さんにしたら嬉しいことなんでしょう?あの鳩谷駿の息子ですし……」
 何故、自分の父親のことを白川が知っているのだろう……。
 恵太郎は気になって仕方がなかった。真下も駿の事を知っているのだ。一体父親はここの人達とどういう関わりがあり、本当はどんな人間だったのか恵太郎には想像することも出来なかった。
 父親である駿は何も語らなかったからだ。
「そうじゃない。何度も言わせないでくれ。東様が望まれたんだよ。白川。なにが気に入らないんだ?」
 真下が困ったような声で言うと、暫く沈黙が漂った。
「真下さんは……鳩谷駿を好きだったのでしょう?その彼が亡くなってからは宇都木がその対象だった。では私は?」
 意味が分からない……
 だけど……
 聞いたら駄目なような気がする……
 壁に身体を擦りつけるようにして恵太郎は小さくなった。見つかったらやばいと思ったのだ。
「そうだよ。君も含めて私はみんなのことが好きだよ。それでいいんだろう?」
 真下は当然のようにそう言った。その言葉は本心からのようだ。
「違う……」
 白川の方は逆にせっぱ詰まったような口調をしていた。
「違うって……なにがだ?白川は時折、奇妙なことを聞いてくるね。どうしたんだい?また何かあったのか?」
 心配そうな真下の様子が姿を見ていなくても恵太郎には分かった。
「……もう良いです」
「心配事ならいつでも相談にのるぞ」
 明るい声で真下は言い、靴音が聞こえた。真下が玄関に向かって歩き出したのだろう。その音が小さくなる頃、恵太郎はそっと柱から顔を出し、様子を窺おうとしたがまだそこに立っていた白川と目が合った。
 ……わっ……
 思わず恵太郎は再度身体を壁にへばりつけて、隠れようとしたが無駄に終わったようだ。
「君……盗み聞きするのが得意みたいだね」
 冷ややかな声が恵太郎の耳に入り、そろそろと顔をあげると、いつの間にか白川は目の前に立っていた。
「ご……御免なさい……。聞くつもりは無かったんです。……あの……僕……真下さんに話があって……」
 おどおどと恵太郎はそう言ったが、白川の視線は相変わらず冷たい。
「……どうしてこんなガキが……」
 小さな声で独り言のように白川は言ったが、はっきりと恵太郎には聞こえていた。歓迎されていないのだ。
「……ごめんなさい……」
 今度は俯いて、恵太郎はそう言うと、扉の閉まる音が聞こえた。顔を上げて確認すると自分の部屋の前が、どうも白川の部屋のようであった。
 さ……
 最悪……
 一気に緊張感が解けた恵太郎は、深呼吸をして強ばった身体を元に戻そうとしたが、締められた筈の扉がまた開けられた。
「……ちょっと」
 白川は不機嫌な顔でそう言った。
「な……なんですか?」
 再度身体を強ばらせて恵太郎は聞いた。
「話があるんだけど……こっちに来てくれないかな?」
 恵太郎はどう返事を返して良いのか分からずに、その場に立ちすくんだまま言葉を失っていた。
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