「ユーストレス 第1部」 第10章
何があったのか泣くばかりで何も言わない恵太郎を仕方なしに真下は自室へ連れて行くことにした。すでに屋敷内の廊下は明かりが落とされ、夜間専用のフットライトが足元を照らしている。その中を真下は恵太郎を半ば引きずるように歩いてた。問題の恵太郎は真下の腕をギュッと掴み、身体を密着させて離れず、ぐすぐすと鼻を鳴らしてまだ泣いている。
全く……
男だろう……
と、真下は呆れるのだが放っておけない性格をしている恵太郎だから仕方ない。
これも性格なのだろうか……
チラリと横にくっついて歩く恵太郎に視線を落とし、ビクビクと後ろを振り返っている恵太郎はどう見てもウサギのようだった。
……
なんというか……
今までこんな子供はいなかったのだ。みなどことなく大人び、背伸びばかりしているような子供が多かった所為だ。親に捨てられたという心の傷から、自立しようと背一杯背伸びするからだろう。
今いる秘書達もみなそうだった。性格の差はあれど東の家のために役立つような人間になるために勉強に勤しみ、そして他人に頼ることや、干渉されることを酷く嫌う。
それらが恵太郎には無く、警戒心というものがない。もちろん本人は頼ろうなどとは思っていないのだろうが、回りが放っておけない危うさがある。
自信なげに俯く顔や、見上げる不安げな瞳。しかもあまり体つきが立派な方ではない恵太郎はどちらかといえば小さくて痩せていた。
食欲もこの年代にあるはずの旺盛さはなく、ぽつぽつと口に運ぶのを見てこちらの方がそれで大丈夫なのかと心配になったほどだ。
だからといって女性化してるわけではない。自分に自信がないために、目立たぬように人目を避けている。そんなところだろう。
恵太郎の父親である駿と正反対だ。しかも母親に似ているわけでもない。何故こんな風に縮こまっているのか真下にも分からなかった。
父親のことがあるのだろうか?
涙目になっている恵太郎にもう一度視線を向けると目があった。
「……ぐす……」
……ぐすって……
はあ……
「だから……どうしたんだ?」
真下が尋ねると、恵太郎は身体をビクッと振るわせ、フルフルと顔を左右に振った。
「言わなければ分からないだろう?」
宥めるように言うと恵太郎は俯いた。先程から何度俯いたか分からないほどだ。取り決めた約束もこの間だけは無効にしてあげなければ本当に小遣いが無くなってしまう。
仕方ないな……
怯えた恵太郎に追い打ちをかけたくないのだ。力づくで押さえつけても恵太郎のようなタイプは益々萎縮するだけで逆効果なのを真下は知っていた。
「……もう大丈夫だから……」
自室の扉を開けて中に入るのだが、恵太郎はひたすら後ろを気にしている。
「鳩谷君」
声を掛けるとまた視線がこちらを向くが涙目の恵太郎が本当に真下を見ているかどうか分からない。
「足がドロドロだよ……」
真下が言うと下を向き、自分の足を確認した恵太郎は足先をもじもじと動かした。
「こっちは仕事部屋だから……隣が私の部屋だ。そこならバスルームもあるから汚れた足を洗うといい」
引きずるように恵太郎を仕事場から隣の部屋へ真下は連れ込んだ。
真下の自室は壁に沿うようにベッドを配置し、窓側には小さな机を置いている。出来るだけ仕事場のものをこちらに置かないようにしているのだが、机の上にはまだ未処理の書類が積まれていた。
ベッド側とは逆の壁はクロゼットになっており、端に向こう側にある小さな部屋に入られるように扉のない出入り口がある。そこを抜けると小さな台所があり、バスルームもあるのだ。
真下は恵太郎を連れバスルームに向かおうとしたが、今度恵太郎が窓側を見て硬直してしまい、動かなくなってしまった。
「鳩谷君……ほら……」
そう言って恵太郎の腕を掴み引っ張るのだが、視線を窓側に固定させたまま、ブルブルと震えだけで動こうとしなかった。
仕方ない……
真下は硬直した恵太郎を抱き上げてバスルームに向けて歩き出したが、やはり恵太郎の目線は窓に注がれて離れない。
窓の外に何があるんだ……?
チラリと真下もその方向を眺めたが、カーテンが下りている為、窓もその向こう側に見えるはずの景色も当然見えない。部屋の明かりもついているために外も窺いしれない。
……
幽霊か……
ちらつく影でも見て怯えたのだろうか?
そんな年齢だろうか?
恵太郎とはあまりにも年齢が離れている所為で、この年頃がどういう行動をとるのか真下には分からないのだ。
仕方無しに恵太郎を抱き上げたままバスルームに入り、そこで下ろすとタオルを渡して足を洗うように恵太郎に言ったのだが、今度は脱衣場から出ようとする真下の服を掴んでまた離さない。
……
私にどうしろと?
……
ああもう……
ここで怒鳴ると、恵太郎は声を上げて泣き出しそうな気がした真下は、服を引っ張る恵太郎を伴ってバスルームに入ると、浴槽に座らせパジャマの裾を膝まで折り曲げた。
そうして桶に足を入れるよ促すと、恵太郎は素直に真下の言うことに従う。
「……ぐす……ぐすぐす……」
鼻を相変わらず鳴らしながら涙目になっている恵太郎は可愛いと言うより情けない。だからといって大声で怒鳴ったところでどうにもならない性格なのだから仕方ない。
心の中で溜息をつきながら真下は湯を蛇口から出すと、スポンジにソープを付け泡立て、恵太郎のドロドロになった足を洗ってやった。
「……それで?話せないのかい?」
洗った足を濯いでいる最中に問いかけると、恵太郎はごしごしと鼻を擦っていた。
「幽霊って……お化けなどこの敷地内に出ないぞ。布か何か見間違えたんじゃないのかい?」
真下が言うと恵太郎は肩を竦めて俯いた。
「……先程から君は全く話をしないが……口をどうかしたのか?」
「……僕……僕……ぐすぐす……」
……
話にならない……
「僕……の続きは?」
洗った足をタオルで拭いてあげながら真下が続けて言うと、恵太郎はもしょもしょと小さな声を出した。だが言葉になっていない。
「小さすぎて聞こえないぞ」
「……あの……あのうう……ごめんなさい……僕……」
言って恵太郎はまた目を潤ませる。
泣くか、無口になるかどちらかだと話が通じない。
「困ったね……」
真下は諦めたようにそう言った。
自室に戻ると、真下は恵太郎をベッドに座らせキッチンに向かった。怯えた恵太郎を落ち着かせるために冷蔵庫からミルクを取り出し、レンジに入れて温める。それをカップに注ぎ、縮こまっている恐縮したように座っている恵太郎に渡した。
「落ち着くよ……少し甘くしてある」
「ずみばぜん……」
……
鼻……詰まってるな……
恵太郎の言葉に真下は思わず笑いが漏れた。
「……可笑しいですか……?」
うるうるとした瞳で恵太郎は真下に言った。
「悪いね……そういうつもりじゃないんだが……」
笑いを抑えながら真下は頭を掻いた。
「……恐かったんです……」
くしゃくしゃの顔で恵太郎はそう言って項垂れた。その表情をみた真下は笑いを引っ込めティッシュケースを渡した。
「……男の子だろう?めそめそ泣いてばかりじゃあ、分からないよ」
「はい……」
カップを両手で掴んだまま、恵太郎はじっとシーツを眺めている。これほど怯える理由を話すつもりがあるのか無いのか分からない恵太郎の態度に、真下はどうして良いか分からない。
まして恵太郎とは二十も歳の差がある。埋めようにも埋まらないこの大きな開きが恵太郎の考えを真下に分からなくしているのだ。
「……で?」
恵太郎が座り込んでいるベッドの隣りに腰を下ろし、真下は問いかけた。
「井戸……」
ぽつりと恵太郎は言った。
「井戸?ああ……そういえば君の部屋からは見えるな……」
思い出すように真下は言った。
「井戸の側に……誰かいたんです……ライトをもって……歩いていたんだけど……僕、その誰かを確認しようと思ってカーテンの隙間から外を見ていたら……気付かれて……」
ウッと胸が詰まるような声を上げて恵太郎は咳き込んだ。そんな恵太郎の背を真下は撫でて落ち着かせた。
「それで?」
「僕……びっくりして……すぐにカーテンを閉めて……布団に潜り込んだんですけど……窓……窓を叩くんです」
だんだん意味不明になってきた。
「何が窓を叩くんだい?」
「その……外にいた誰かが……窓……窓をコンコンって叩くんです……コンコンって……ずっと……ずっと叩くんですっ!」
思い出したのか恵太郎はブルブルと身体を振るわせてそう言った。足先まで震えているところを見ると余程恐かったのだろう。顔色も真っ青だ。
だが、真下にはコンコン窓を叩かれたところで何が恐いのかと不思議で仕方がない。どうせ夜間巡回している警備員に違いないからだ。
警備員がからかったんだろう……
「きっと警備員だ。夜間ライトをもってうろつくのは警備員しかいないからね。もし不審人物なら逆に警備員が取り押さえているだろうし……君はからかわれたんじゃないのかい?」
例え警備員でも窓を叩いてからかうとは思わないが、怯えている恵太郎を宥めるにはそれしかないと真下は思った。
「……そうなんですか?」
怯えたウサギは疑い深くなっている。
「もちろん。からかった警備員にはきちんと注意しておくよ。恐がりな男の子がいるから脅かすような真似をしないでくれ……ってね。泣いて大変だから……とも付け加えておこうか……」
「僕……恐がりじゃないけど……」
ベッドから下ろしている両足の指先を何度も擦り合わせてボソボソと言った。
「窓を叩かれたくらいでこれだけ怯えているのにかい?」
「あれ……絶対警備員じゃないと僕……思う。だって黒っぽい服を着てたし……」
チラリと視線を上げて恵太郎は言った。
「……黒っぽく見えたんだろう。ほら、冷める前に飲みなさい……」
ミルクの入ったカップを見て真下が言うと、恵太郎は言うとおりに口元に持っていった。
それにしても……
警備員以外がうろつくのは考えられないが……
恵太郎には気付かせないように真下は考えていた。最初はもちろん警備員かと思ったのだ。だがどう考えても警備員が脅かすような真似をするとは思えない。
かといって、不審人物ならすぐに警報が鳴っているはずだ。
月夜の元では紺色の警備員の服装は黒く見えるだろう。だから恵太郎が見たのは警備員なのだ。
……
と、思うんだが……
どうも腑に落ちない……
「……は~」
恵太郎が息を吐く音を聞き、真下は考えることを止めた。すると持っているカップのミルクは綺麗に飲み干されて一滴も残っていなかった。
「落ち着いたかい?」
「はい……ありがとうございます」
ようやく顔に赤みが差した表情で恵太郎は固いながらも笑みを返してきた。
「じゃあ一人で部屋に帰られるね?」
真下がそう言って腰を上げると、折角赤みの差した恵太郎の表情がまた色を失った。
……
はああ?
まさかここで寝たいと言う訳じゃないだろうな?
「お化けじゃないと分かっただろう?」
呆れた風に言うと、恵太郎はまたもやフルフルと顔を左右に振った。
「……男の子だろう?」
次は目に涙を溜める。
だから……
どうしろと?
「僕……僕は……」
「……鳩谷君はどうしたいんだい?」
仕方無しに真下はそう聞くと、恵太郎はおずおずと言った。
「こ……今晩だけで良いんです。ここにいても良いですか?」
「そんなに恐いのかい?」
「……恐いです……ごめんなさい……」
と言ってまた泣き出す始末だ。
「……ああ……ああ分かった。分かったからもう泣くんじゃない」
恵太郎の頭を撫でながら真下は言った。なんだかもう、どうして良いか分からない。真下からすると恵太郎はエイリアンだ。
「ごめんなさい……」
ティッシュをいくつも手に持ち、鼻を押さえながら恵太郎は申し訳なさそうに言った。こうなると駄目だと強く言えないだろう。
「……いや……気にしなくて良いから……」
顔は笑顔で言ったが、真下は益々心配になってきた。本当に恵太郎が人に頼らず自立出来る性格になれるのか分からない。きつい態度で望んだ方が良いのか、優しく宥めながらの方が良いのかも判断が付かないでいる。
こんな事は真下も初めてだった。
要するに真下自身は、恵太郎のこの性格を知った瞬間から、変えられないと確信したのだ。それはもう随分昔の事だ。父親が亡くなり、泣いている恵太郎を初めて東家に連れてきた時から気づいていたことだ。
ただどうにもならないことをどうにかしろと言う人間がいるからややこしくなる。東さえ恵太郎に拘らなければ良かったのだ。
今更言っても仕方のないことなのだが、この性格をどうあっても変えることは出来ないと半ば諦めている真下であるから打つ手が無い。
もう少し大人になれば少しは変わるのだろうか?
そんなことを考えて真下は恵太郎を見たが、立派になった姿など想像が付かなかった。
「……あの……ほんとうに良いんですか?」
「……あ、ああ良いよ。私はまだ仕事があるから、君はここで眠ると良い。添い寝が無いと寝られないと言われるとこまるが……」
苦笑しながら真下は言ったが、ここで本当に添い寝して欲しいと言われるとかなり困る。
「……え、僕……大丈夫です……」
精一杯恵太郎が無理をしているのが真下には見て取れた。
「隣りにいるから、また窓が叩かれたら呼びに来ると良い。そんな悪戯をするような警備員はこちらも雇っていられないからね」
きっぱりとそう言うと、恵太郎はようやく満面の笑みを浮かべた。余程嬉しかったようだ。
「ほら、じゃあもう遅いから寝なさい」
そう言うと恵太郎はいそいそと毛布の中に潜り込んで丸くなった。安心した表情は確かに可愛らしい。
「お休みなさい……」
恵太郎は毛布から少しだけ顔を出してそう言った。
「ああ……お休み」
真下はそう言ってようやく本来の仕事に戻ることが出来た。
朝、目が覚めると自分がぐっすり寝込んでいたことに恵太郎は気が付いた。
あ……
朝だ……
もぞもぞと毛布から顔を出し、明るい日差しがカーテンに透けているのを確認して起きあがった。薄暗い室内は所々カーテンの隙間から漏れる光を床に反射させ、あちこち筋を作っている。見慣れた朝の光景が恵太郎の気持ちをホッとさせた。
恐かった……
昨日の晩は本当に恐かったのだ。真下が追いだしたらどうしようかと思ったが、意外な事にここで眠ることを許してくれた。それが恵太郎には嬉しかった。
部屋をぐるりと見回し、真下の姿を探したが見つからなかった。室内時計はまだ六時をさしている。
まだ仕事かな?それとももう起きて仕事なのかな?
恵太郎はベッドから下りると、仕事場だと言われていた隣の部屋に向かう扉をそっと開けた。すると隣りもカーテンが引かれているのか、部屋は薄暗かった。
……
えっと……
部屋は恵太郎が開けた側の壁が本棚になっており、窓側にデスクトップのパソコンが置かれた机がある。そして自分の立つ位置から真正面に応接セットのようなソファーと机が置かれ、真下はそのソファーに横になって眠っていた。
……
僕が占領しちゃったからかな……
机には紙コップがいくつも重ねられ、何杯も何かを飲んだ後が見受けられた。もしかすると自分がベッドを占領したために、真下がここに寝ているのかもしれないと思うと恵太郎は申し訳なく思った。
真下はまだぐっすり眠っているようで、恵太郎は向かい側に座りその姿を眺めた。
優しい人なのだ。
恵太郎はそう感じた。
厳しいのだが、優しさを持っているのだろう。
本来なら恵太郎の面倒など見られないほど忙しい筈なのだ。それなのに恵太郎の面倒を見てくれている。
恵太郎は自分が鈍くさくて、しかも決してこの東家で望まれるようなタイプの人間ではないと感じていた。どの秘書を見てもてきぱきと自分の仕事をこなしているからだ。
恵太郎にはそんな手際の良さなどない。
もちろん、マフラーを編む競争でもあれば、一番に編む自信はあるが、そのほかのことで競うことはまず無理だった。
勉強も出来ない。
てきぱきと行動できない。
しかも一人で自分の部屋で眠られない。
ここまで来ると立派な落ちこぼれだろう。
自分自身、情けないと思うことはよくあることだったが、今ほどそれを痛感したことはない。
頼るつもりはない。
依存する気もない。
だが思うことと、実際は違うのだ。
父親と二人で暮らしていたときは多少自立できていたような気がするが、昔のことはもう殆ど覚えていない。過去は現在の行動に上書きされて、当時の記憶が曖昧になっているからだ。
ちゃんとしなきゃ……
必死に自分に言い聞かせる。
真下が期待していないのは分かるが、少しでもそれに応えたいと恵太郎は思ったのだ。東の家のためではなく、真下が褒めてくれるような自分になりたいと恵太郎は本当に考えた。
父親のような破天荒さや、時には恵太郎より子供っぽいところを持っていた駿は、真下とは正反対だ。
しっかり地に足を着け、仕事をこなす男は端で見ていても格好がいい。
眠っている真下はよく観察すると意外に顔の彫りが深いのが分かる。だが父親とは違う端正に整った顔立ちは、男らしいと言うより学者っぽくみえた。多分恵太郎の父親はほお骨のしっかりしたややエラの張った顔立ちであったから余計に真下は細い顔立ちに見えるのかもしれない。
父親はジーパンの似合う男だったが真下は違う。英国紳士のようなかっちりとしたスーツが似合うはずだ。
あれ……
なんだろ……
何故か赤らんだ自分の頬に手を当てて恵太郎は自分の変化にとまどった。