「ユーストレス 第1部」 第20章
もしかして僕は真下さんに嫌われているの？
恵太郎は薄く開いた扉向こうで交わされている言葉に、手が震える。この場から離れてベッドに戻った方がいいのだと頭では分かっているのに、両脚が動かないのだ。
聞かなければ良かったのだろう。とはいえ、既に聞いてしまってからでは遅すぎる。ここに戻ってきたことが間違いなら、自分から出ていきたいと言った方がいいのだろう。
どうせ慣れない生活をここで強いられているのだ。多少の居心地の悪ささえ我慢すれば、佐中家の方がまだ温かい。帰りたくない理由はあるが、それよりも真下の言葉に恵太郎は傷ついた。
涙は出ないが、あまりのショックに涙すら流す余裕がないのだろう。
「理由は？」
恵太郎の知らない男が話を続ける。
「剣。聞いてくれ。あの子の将来の希望は、手芸教室を開くことなんだ。そう言っていたよ。手先の器用さは父親に似たんだろう」
見知らぬ男は剣というのだ。恵太郎が知らない相手だったが、剣は、真下の言葉を受けて大笑いをした。何処となく冷たい表情に見えた男が、急に笑い出したものだから、恵太郎の方が驚いた。
「笑ってやるな。鳩谷君は真剣だった。いいじゃないか、手芸教室でも。本人がやりたいというなら私は応援してやりたいと思っている。だが、ここにいるとそれが叶えられるかどうか……東様の出方次第なんだろうが。私はね、駿があんな亡くなり方をしたものだから、出来るだけ鳩谷君の力になってやりたい。本当にそう考えている」
剣とは違い、真下は真剣だった。
そういう意味だったんだ……。
恵太郎が気に入らないとか、嫌いだとか、鬱陶しいなどと思っている訳ではなかったのだ。真下の気持ちを知って、急に恵太郎はこそこそ聞いている自分に恥ずかしいものを感じた。一瞬でも真下のことを疑った自分が情けないと言った方がいい。本当に嫌われているなら、真下ほどの人間なのだから、さっさと恵太郎を追い出していたに違いない。
聞かなかったことにして寝た方がいいんだよね……。
魔法が解けたように、突然身体の自由が戻ってきた恵太郎は、薄く開いていた扉から、そろそろと後退する。音を立てて見つかると、どんな顔をして良いか分からない状況に陥るだろうから。
「屋敷内に作ったらどうだ？女中の楽しみに良いんじゃないか？もしかすると白川も結構似合うかもしれないしな。そうか……手芸教室ね。今までいろんな子供がここから旅立っていったが、そういう夢を描く男は初めてだ。いや。なんだ。笑っては不味いが……笑わせてくれ」
剣の声はまだ聞こえていた。
「屋敷内……。最悪の時は考えておくよ。ただ、東様がどうされるかが問題だな。もちろん、将来手芸教室だろうと、金は出してくれる筈なんだ」
「その前に、例のことをやれと？」
「……困るだろう？私はそれを鳩谷君に言い出せずに困っているんだよ。だから何も知らないまま、ここから出ていってくれた方がいいのだと思った。知れば色々と問題が大きくなりそうで……。私は……憎まれてもいいが、それだけでは済まなかったら……。考えると頭が痛いことばかりだよ」
珍しく真下が疲れたように言った。
「駿のことは話さなければならないと思うが」
もう、笑い声は聞こえなかった。
「分かっている」
「東様を守るのが真下の役目だろうが、こればかりはいずれ話さなければならないことだろう？違うか？駿の息子には聞く権利があるだろうし、誰かを憎む権利もある」
「それも……分かっている。ただ、知ったとき、あの純粋な鳩谷君をどれだけ傷つけるかと考えると……二の足を踏んでしまうんだ」
真下は淡々と言った。
一体、どういったことを隠されているのだろうか。恵太郎はひどく気になったが、問いかけることは出来ない。何か大きな口が開いていて、恵太郎を呑み込みそうな気がした。
これ以上は本当に聞いたら駄目だ。
恵太郎はそこで完全に扉から離れてベッドに向かい、そろそろと毛布に潜り込む。色々と頭を混乱させるような会話ばかりで、何がどうなっているのか恵太郎は分からない。自分自身が誰かを憎むことになるなど、とても考えられないのだ。
未だかつて恵太郎は、人を憎んだり、嫌ったりしたことがない。もちろん、苦手な人は存在したが。
父親の秘密が何かあるのだ。
一体それは何だろう。
父親は恵太郎に何も残さなかった。財産はないし、かといって借金もなかった。そして、日記もなければ遺言も無い。もちろん父親の死の状況を聞いていた恵太郎には、あのような状態で何かを残すことなど出来なかっただろうと、当時から理解していた。
普段から何も話さない父だったのだ。
ただ、いつも「俺は悪いことはして稼いでないからな。もっとも、無職みたいなもんだろうが、人様に恥ずかしいことはしてない」と、言っていたのだ。恵太郎はそれを信じていた。泥棒であることは知っていたが、誰かを傷つけることも無かったのだ。
盗んで、元通りに戻すなら犯罪ではないと、恵太郎が考えている訳ではないが、犯罪だと烙印を押されたのは父親が亡くなったときだ。それまでは、トラブルもなければ、新聞沙汰になったこともない。
一体何がどうなってるんだろう……。
恵太郎は暫く寝付けなかったが、朝方ようやく睡魔が襲ってきて、そのまま眠りについた。
真下の方は結局、恵太郎が起きているあいだ、ベッドにはやってこなかった。
昼過ぎ頃、恵太郎がうっすらと目を開けると、真下の姿が目の前にあることに気がついた。セミダブルのベッドであるから、狭いとは思わなかったが、隣に寝ているとは思わなかったのだ。
メガネを外している真下の表情は、とても穏やかで、時折聞こえる寝息がなんとなく父親を思い出させる。こんな風に父親も良く恵太郎が寝ている間に帰ってきて、隣に寝ていたのだ。
クマ……出来てる。
目の下にうっすら出来ているクマは、仕事が過酷なことを示していた。真下のような生活など恵太郎にはまねできないだろう。
ずっとここで暮らしているのが分かるように、真下の肌は意外に白い。恵太郎の方が肌の色が濃いかもしれない。とはいえ、病的な白さではなく、滑らかさのある肌の色だ。
そこが父親とは違う。
父親の駿は真っ黒だった。もとより地黒なのか、太陽の下で走り回るから黒いのか分からないほど黒かった。その所為か、最初、恵太郎は、自分の父親は建築関係で働いていると勘違いしていたほどだ。
格好いいな……。
ふと、恵太郎は思った。
真下は父親と同級生だと聞いていたから三十六になるのだろう。だが父親よりも、若い顔立ちをしていた。
結婚してないからかなあ……
結婚していないと若く見えるって言うし……。
しっかりした黒い眉に、鼻筋の通った顔立ち。メガネを外すと余計にそれらがくっきりと浮かび上がる。父親よりも面長で、紳士的な雰囲気があった。父親とは正反対の男性だが、何故か懐かしい気持ちになるのは、もっと幼い頃に、真下に出会ったからかもしれない。
駿の遺体の入った棺にしがみつき、大泣きをした。誰が声を掛けようと、その場から離れず、恵太郎は悲しみの縁に立っていたのだ。その時、真下が恵太郎の手を掴んで、棺から引き離した。恵太郎は真下に対して、怒りすら感じたことを覚えている。なのに、真下は床に膝をついたまま、言葉に出来ないような表情で恵太郎を見つめ、何を思ったのか、恵太郎をギュッと抱きしめた。
父親の抱擁を思わせるような、暖かを感じて、恵太郎は、更に泣いた。悲しくて悲しくて、どうしようもなかったのだ。
たった一人の肉親を失った悲しみは、今も言葉に表せない。どんな言葉も慰めにならなかっただろう。
なのに、あのとき真下が言った言葉を恵太郎は良く覚えていた。
「すまない。私の責任なんだ……許してくれ」
その時、真下が泣いていたのかどうか。恵太郎は思い出せなかった。