Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第22章

前頁タイトル次頁
 恵太郎は、理解できない逸輝をその場において、入り口に向かって走ると、白川の前に立つ。そこで、ぺこりと頭を下げた。
「昨日はごめんなさい」
「……もういい。昨日から言ってるけど、私は君に対して怒っていたわけじゃない。それだけを言おうと思って声を掛けたんだ」
 怒っているように顔を赤らめている白川をじっと見つめながら恵太郎は真下が話してくれたことを思い出していた。すると不思議なことに、白川の表情は腹を立てているようにしか見えないが、実は照れくさいのを隠しているのだと、ようやく恵太郎にも分かった。
 なんだ……
 そうだったんだ。
 恵太郎は妙に嬉しくなった。
「白川さんって……僕とは違う意味で、すっごく自分を表現するのが苦手なんですね。なんだ。ずっと怖い人だと思ってました。でも、僕。そんな白川さんが大好きです」
 その言葉に、白川は更に顔を赤らめて、口を閉ざす。そしてなにを思ったのか、くるりときびすを返すと、思いきり扉を閉めて出ていった。今までなら、白川がなにを怒っているのだろうとオロオロしていた恵太郎だったが、もうそんなふうに誤解することはない。
 もっと仲良くなりたいな……。
 恵太郎はニコニコとした表情で閉められた扉を眺めていた。
「ケイはいつから誰にでも告白するようになったんだっ!」
 ハッと気がついて恵太郎が後ろを振り返ると、うじうじと逸輝は、まだ何かにこだわっている。一瞬、逸輝の存在を忘れていた恵太郎も、こうなると呆れるしかない。
「告白って……別に僕はそういうつもりで言った訳じゃないよ。白川さんに対する好きも、逸輝に対する好きも一緒だし。真下さんだって、宇都木さんだって、鳴瀬さんだって好きだよ。だってとっても僕によくしてくれるもん。そんな人達に逸輝は嫌いって言える?もし言えるっていうなら、そんな逸輝なんて、僕は嫌だよ」
「ケイ~!」
 逸輝は膝を床につけたまま、恵太郎の足元に巻き付いてくる。そんな逸輝を引き剥がして恵太郎は更に言った。
「逸輝はいつからそんな、心の狭い人になっちゃったんだよ。以前はそんなこといわなかったのに……」
「ケイは変わった。もっと、俺に頼ってくれたし、可愛かったっ!」
「……もう。訳の分からないことばっかり言わないでよ。それより、今日はなんの用?」
「俺、色々考えたんだ。ここに来てお前はどんどんおかしくなってきてる。だからさ、佐中のおばさんちに帰らないか?」
 冗談ではなく、真剣な面もちで逸輝はこちらを見ていた。だが、逸輝が言うように恵太郎は自分がおかしくなってるとはこれっぽっちも思わなかった。それより、少しずつだが、こちらでの生活に慣れてきて、ちょっぴり自立心も沸いてきた。勉強は相変わらず出来ないが、自分で出来ることは自分でしようという、かなり前向きな性格になってきたようには思える。
 これはもともと、恵太郎がそうなりたい自分の姿だ。まだまだ目標にはほど遠いが、数歩くらいは近づいているように思えた。以前から「俺がいないと駄目だだの」「もっとしっかりしろよ……」と、言い続けてきたのは他ならぬ逸輝だった。
 普通ならここで一緒に喜んでもいいはずだろう。
 なのに逸輝は、恵太郎にとってここが悪い場所だと言う。それは恵太郎の気持ちを踏みにじっているようなものだ。恵太郎は自分でここに戻ることを決めたのだから、本当に逸輝が恵太郎のことを考えてくれているのなら、喜んでくれてもいいはずだった。
「僕はおかしくなんかなってないよ。だって僕、いつだって逸輝から卒業したいと思ってきたんだもん。逸輝にばかり頼る自分が嫌だったんだ。それ、分かってよ……」
 宥めるように恵太郎が逸輝に言うと、キッと目つきを怒らせてまた腕を掴んできた。そうして逸輝は立ち上がり、嫌がる恵太郎を引きずって部屋から連れだそうとする。
「ちょっと、逸輝っ!」
「もう我慢できない。連れて帰るっ!」
「なにが我慢できないんだよっ!勝手に決めないでよっ!」
 ズルズルと廊下を引きずられながら、恵太郎が抵抗して見せても、逸輝の掴む手は緩まない。何かにとりつかれたように行動する逸輝に、恵太郎はどうしていいのか分からなかった。だが、この格好で外に出るなと真下に注意されているのだ。このまま玄関から外に連れ出されると、後で怒られることは間違いないだろう。
「帰ったら、絶対俺にケイは感謝するに決まってる。ここにいるから冷静な判断が出来ないんだっ!」
「冷静じゃないの、逸輝だろっ!パジャマで外に出たら駄目だって言われてるんだっ!こんな格好で外に出られるわけないじゃないかっ!いい加減にしてよっ!」
 二人の剣幕に、一度引っ込んだ白川がまた自室から出てきて苛々とした口調で言った。
「君達は、どうしてこう、私の部屋の前でいつも、いつもいつもっ!騒がしくするんだっ!静かにしてくれと、散々頼んでいるだろっ!こっちは仕事を持ち帰ってきて大変なんだっ!」
 今度は本気で白川は怒っていた。
「あ、白川さん。逸輝を止めてください。彼、僕を無理矢理連れ出そうとしてるんです。何か誤解してるんだと思うんですけど、ちっとも聞き入れてくれなくて困ってるんです。僕、こんな格好で外に出るとまた真下さんに怒られちゃうし……」
 ギュウッと両脚を踏ん張って逸輝が引っ張る力に対抗しながら恵太郎が白川に訴えると、チラリと逸輝の方を見て、髪をかき上げた。助けてくれないのかな……と恵太郎が思っていると、白川はつかつかと歩き、逸輝の前に立つ。
「君ね。彼、嫌がってるんじゃないのか?」
「五月蠅いなっ!俺やケイのことは放って置いてくれよっ!この場所が悪いから、こいつがおかしくなってんだよっ!だから俺が連れ戻すんだっ!」
「……へえ。この場所の何処が悪いんだって?」
 腕組みをして白川は言う。
「ケイがケイじゃなくなってくるっ!こんな、暗くて、あんたみたいな嫌な奴ばかりいるような所になんか置いておけるかっ!」
 逸輝が叫ぶと同時に、白川の平手が飛んだ。その拍子に逸輝の掴む手が離されて、恵太郎は床に尻餅をつく。逸輝の方は呆然としたようで、立ちすくんでいた。
「君がどういう人間か私には分からないけどね。この場所を悪く言うのだけはよしてくれないか?ここで暮らしている人間は、みな、両親を早くに失ったか、人には言えない事情で親と断絶しているかどちらかなんだよ。だからといって君に同情してくれなんて気持ちは更々ないけどね。ただし、なにも知らない人間に、えらそうに言われるのは堪らなくむかつくんだよ。平手一つで済んで良かったと思って欲しいね」
 聞いたこともない静かな口調で白川は言うと、逸輝の前から離れて、床に尻をつけている恵太郎に手を差し出した。
「そんな格好で座り込むと、汚れるだろ」
「……あ、はい」
 白川の手を取って、恵太郎は立ち上がった。チラリと逸輝の方を見ると、こちらに背を向けたままで無言で立っている。
「逸輝……僕が言うのもなんだけど……。ちょっと酷い言葉だったと思う」
 恐る恐る恵太郎が声をかけたが、逸輝は振り返らなかった。
「ああ、君に言い忘れた。悪いけど、個人の意志を尊重できない相手は、ここでは袋叩きに合うからね。気をつけた方がいいよ」
 白川が追い打ちを掛けるように言うと、逸輝は走ってホールまで行くと、そのまま玄関を飛び出していった。心配になった恵太郎が追おうとすると、白川が止める。
「やめておいた方がいいね。今はなにを言っても相手が頭に来ている状態じゃあ、君のことなど理解できないと思うな。まあ、誰とでも理解し合えるなんて考え方が間違いなんだろう。この場合は、向こうが歩み寄ってこない限り、平行線だと思うけどね。ま、私には関係ないことだ」
 逸輝の走っていった先を眺めながら、白川はそう言った。
「あの……済みません。友達が酷いこと言ったみたいで……」
「私で良かったと思って欲しいね。これが剣だったら、庭先の木にぶら下げられて、暫く椅子に座れないほど、木刀か何かで尻を殴られていただろ。特にああいう相手は一度で引き下がらないだろうから、はっきりと分からせるまで愛情の鞭が入るんだ。ここは子供の躾に五月蠅いからね。相手の気持ちを考えず、失礼なことを口にしたら、「ごめんなさい」という反省の言葉が出るまで殴られてるよ」
 剣はそんなことをする男には恵太郎には見えなかったが、白川の言うことを信用すると、言葉使いに気をつけた方がいいのだろう。
「今度……会ったら、ちゃんと話しておきます。ちょっと誤解しただけだと思うし。僕ももう少し話をしたら良かったんです」
 シュンと項垂れながら、恵太郎が言うと、白川はため息をついた。
「話し合いはいいけどね。あまり期待しない方がいい。理解してくれる相手なら、もう、分かっているだろ。なにを言ってもこちらの意見など耳に入らないから、私は、ああいう人間が嫌いだ。出来たらもう、ここには来ないで欲しいね。相手の話を聞かずに、自分の考えを押しつけて、さもそれが正しいように言う相手が一番、嫌いなんだ。しかも、話し合いができないとなると、今度は力で何とかしようとする。最低だっ!」
 吐き捨てるように白川は言って、そのまま自分の部屋に戻っていった。恵太郎は玄関と白川の部屋の扉を交互に見つめつつ、夕方逸輝に電話でもしようと考えた。こんな風に喧嘩したことがなかったから、どうしても誤解を解いておきたかったのだ。
 逸輝はすぐに熱くなるタイプだが、悪い人間ではない。話せば分かるだろうと恵太郎も思った。
「あ、そうそう。何度も言って悪いけど、部屋で多少五月蠅くするのは仕方ないんだろうけど、廊下で騒ぐのは止めてくれよ。筒抜けで、苛々する」
 一度閉めた扉を開けた白川は、顔だけ出してそう言うと、また扉を閉める。その姿がなんだかおかしくて、恵太郎は思わず顔に笑みが浮かんだ。
 あ……
 でも、さっさと着替えないと……。
 もう少しで、真下との食事を忘れてしまうところだった恵太郎は、部屋に戻ってキッチンの蛇口で顔を洗い、すぐに服を着替えた。
 まーちゃんにも餌をやらないと……
 引き出しから、餌の袋を取り出して、恵太郎は水槽に入っている亀のまーちゃんに餌をパラパラと落とした。亀はのろのろと動き餌が落ちている所まで来ると、小さな口をいっぱいにあけて、恵太郎が落とした餌を食べだした。亀の動きは鈍いが、恵太郎はその動きを追うのがとても楽しい。日がな一日、見ていても飽きないだろう。
 生き物を飼ったことがない恵太郎だが、部屋に自分とは違う生命が存在するだけで、心が穏やかになるのだ。何年も飼えば、きっと屋敷内にある湖に住むうっちゃんと同じくらいに成長するに違いない。そこまで大きくなったら、恵太郎もこのまーちゃんを池に放してやろうと決めた。
 ちょっぴり寂しいことではあるが、まーちゃんも友達が欲しいに違いない。今は小さくて、犬ですら噛みつく鯉の住む池には放せないが、いずれ大きくなったときに、うっちゃんと仲良くして貰おうと思ったのだ。
 うっちゃんもきっと仲間ができて、嬉しく思ってくれるはず。
 一人はやっぱり寂しいだろうから。
 じっと、亀を眺めていると、内線が鳴った。恵太郎は誰からかかってきたのかを、受話器を取らなくてもすぐに分かった。
「す、済みません。もう着替えましたから、すぐにそっちに行きますっ!」
 呆れたような真下の声を聞く前に恵太郎は叫ぶようにそう言った。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP