「ユーストレス 第1部」 第6章
「鳩谷くん?」
恵太郎の姿に真下は問いかけてくるような言葉を発してきたが、何も返さなかった。
「じゃあ……ケイちゃん。また来るね。あ、ピッチに電話するね」
ウインクして知佳はいそいそと帰っていった。
「ああ……ひとつ忘れていたよ……」
真下は知佳が帰っていくのを見ながら言った。
「なんですか?」
やはり俯いたまま恵太郎は言った。
「鳩谷くんも友達をまだまだうちに呼びたい年頃だろうが、東家が特殊なのを知っているね。だから今日は仕方ないが、これからはまず許可を取ってもらうことになるよ。誰でもがこの敷地に入られることを許される訳じゃないからね……。いいね?」
それはもちろん恵太郎にとって願ったりかなったりだ。知佳のことだからまたどうせ話を蒸し返すに決まっている。
恵太郎も多少は知佳に同情をするが、こればかりはどうにもしてやれないのだ。
もちろん、父が生きておれば何とかなったのかもしれない。だが頼りの父はもうこの世にはいない。
残されたのは、生きることがとても不器用な息子だけだった。
「はい……分かりました」
「それと……200円マイナス」
真顔で真下は言う。
「え」
……?
あ……
わ……
忘れてた……
ペナルティのことを忘れていた恵太郎は、あわてて顔を上げたが許してもらえるはずなど無かった。
「困ったね。これじゃあすぐにでも君の一週間のお小遣いが無くなりそうだ……」
楽しそうに真下は言った。
「……」
だから……
その約束事を反故にして欲しいと恵太郎は思ったが口にはしなかった。
「それと、荷物の搬入が終わったら本家に来るように言っておいたはずだよ。部屋の内線を鳴らしても出ないからわざわざ出向いてきたんだ……」
恵太郎はすっかりそのことを忘れていた。
「す……済みません……忘れてました」
あわてて言うと、真下はまた眼鏡をかけ直していた。
「ところで恵太郎君は何を弱みとして握られているんだい?話してくれたら力になるが……」
眼鏡の奥から見せる真下の瞳は優しげだ。だが恵太郎はこんな風に視線を固定されることが苦手だった。本来ならこんな時恵太郎は視線を逸らせて俯くか、何処か遠くを眺めたりする。しかしそれをすると、また小遣いを減らされるような気がした恵太郎は必死に視線を受け止めていた。
「……」
「どうも何かを強要されていたね……」
くすりと笑い、真下は言う。
「な……なんでもないです……」
強要……
そうだよな……
強要になるんだろう……
ただ出来たら協力してあげたいけど、僕には出来ないと言うだけで、同情はしているのだと恵太郎は思った。
「何でもないのに、彼女があれだけ君に詰め寄るのも変だと思うんだが……」
さらに笑いを強めて、真下は言った。
だが向けられる瞳からは話しなさいと言う意思表示が感じられた。
「……僕は……」
また俯きそうになる顔を上げ、恵太郎は悩んだ。話してしまいたいという気持ちと、話しては知佳に申し訳がないという気持ちがせめぎ合っているのだ。
だけど……
これは僕がしたことじゃないし……
だったら逆に何とかしてもらえるかもしれない。
東家にならそれだけの力がある筈だ。父親の形見も本来なら絶対返してもらえないようなものを恵太郎の為になんとか取り戻してしてくれた。
それが出来る東家なら今の問題など取るに足らないことかもしれないと恵太郎は考えた。
だけど……
ちらりと真下の方を見て、恵太郎は薄く口を開いたが、結局決心が付かず暫くするとしっかりとそれを閉じた。
「鳩谷君」
今まで見たことのない強い視線を真下から感じ、恵太郎は肩を竦めた。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいはどうでも良いんだよ」
真下の態度は話すまで許さないと言う態度だ。
「僕の事じゃないんです……。あの……知佳さんのことだから……」
声が最後の方になると小さくなり言葉が途切れた。
「じゃあその佐中さんの長女の話をしようか?」
「……だから……そのう……」
俯きたくて仕方がない。
「そのうだのあのうだの言わずにハッキリ言いなさい」
真下は語調を強めて言った。
「……」
言葉を失って絶句していると真下は続けた。
「難題が出ることは仕方ない。ただ、そういう事を放置することに問題があるんだよ。例え逃げたくなるような難題があったとしても、その場ですぐ対策を練ることが解決の早道でもある。後になればなるほど余計ややこしくなり、片づかない事も多い。君がどういう理由で私に話してくれないのか分からないが、君一人で何とかなると考えているのならそれで良いだろう」
何とか出来たら……
こんなに悩まないけど……
恵太郎はまた気持ちが揺れだした。真下に相談すれば何か良い知恵を授けてくれそうな気がするからだ。
言ってみようか……
このままでは解決しないだろう。
知佳からの連絡もこれから日に何度もあるに違いない。それは恵太郎も嫌だった。
ただ気になることがある。それを聞いてからにしようと恵太郎は思った。
「……あの……」
「なんだい?」
にこやかな笑みに戻った真下が言った。
「座って良いですか?」
ずっと立ちっぱなしで疲れた恵太郎は言い、新しく入れて貰ったキッチンテーブルの椅子に腰をかけた。これも真下が手配してくれたのだろう。
その点については後でお礼を言わなければと恵太郎は考えた。
「ああ……いいよ」
そうして二人とも椅子に腰をかけると向かい合わせに座る。この座り方は正面からこちらを見られるため、余り好きではないのだが、真下が後からそこに座ったのだから今更言いようが無かった。
「……あの……変なことを聞くんですけど……」
言うと真下は頷く。
「真下さんは外国の生活をされたことがあるんですか?」
「……いや……仕事で出ることはあるが、ここ何年来海外には出ていないね……それがどうしたんだい?」
不思議そうな表情を真下は返してきた。
「……じゃあ……その……アメリカ式の生活をされてるんですか?」
「アメリカ式……って?話が全く見えないんだが……」
次に真下は困ったような表情になる。
「白川さんに聞いたのですが……真下さんは僕の父とキスする間柄だって……。それって親密って事ですか?」
恵太郎が言うと真下は目を丸くさせた。
「……それは……私と君のお父さんが出来ていたと言っていたのか?」
「出来るって?」
意味が不明であった。
「私と君のお父さんがゲイだと言いたいのかい?」
呆れたように真下が言い直したが、いまいちゲイがなにを指しているのか恵太郎には分からなかった。
「ゲイって……芸人ですか?」
想像が付いた言葉はそれだけであった。
「……いや……いい。それが私に聞きたかったことかい?」
小さく息を吐いて真下は言った。
「聞きたかったのはそれですけど、相談したかったことは違うんです……」
「それを聞こうか……。ああ、白川の言うことは耳を貸さなくて良い。彼は妄想癖があるんだろう……いいね?」
……妄想癖……
そうなのかなあ……
芸人だったのが恥ずかしかったのかな?
恵太郎は本当に真面目に考えていた。
「芸人ですか?」
「もういいから……その話は忘れなさい。だから君は何を言いたかったんだい?」
こちらに手のひらを見せ、その話はもう終わりだというように真下は言った。
「あ……はい……その。知佳さん……修学旅行に行ったときに……その……あるお寺にあった小さな仏像を持って帰って来ちゃったんです。それで……なんだか大騒ぎになったみたいで……。知佳さんがこっそり戻そうとしようと思ったときには、監視カメラもつけられて、とても戻すことが出来なかったそうです。それで僕に何とかして欲しいって……」
小さな声で恵太郎は言った。
「ふうん。それは君の父親のことを知っているからだろうね……」
真下は何故か嬉しそうに言った。
「はい……でも……僕は父とは違うので……。出来ないって断ったんです。でも知佳さんは分かってくれなくて困ってる。父なら上手くやってくれたでしょうけど……」
そう……
恵太郎の父である駿は盗みを趣味としていた。
正確には盗んだ物を暫く手元に置き、また元あった場所に返すという変わったものだった。本人は盗む過程が楽しいらしく、盗ってきたものに執着をすることはない。だから暫くするとまた返しに行くのだ。
もちろん盗んだときと同じようにこっそりと忍び込み何事も無かったように戻してくる。時には厳戒態勢の中でも駿は簡単に出入りして戻すのだ。
そんな恵太郎から見ると意味のない行為の何処が楽しいのか聞いたことがあったが男のロマンだの生涯かけての楽しみだの恵太郎には理解できないことばかり聞かされた。
本当に盗ったら泥棒だろう……
俺は犯罪者じゃないぞ……
駿はよくそう言ったが恵太郎には例え返してきたとしても泥棒は泥棒だと思う。が、駿からすると全く違う事だとよく力説していた。
未だに恵太郎にはその違いが分からない。
暫く考えるような仕草で、真下は天井を仰いでいたが、視線がこちらに戻ってきた。
「そうだね……」
「……」
「だがまあ……女性に頼られたからには男にならないとね。そうだろう?」
ニコニコと気持ち悪いほど真下は機嫌良く言った。
「でも……」
犯罪なんですけど……と恵太郎は言いたかったがその言葉が出なかった。
「君は鳩谷の息子だ」
何故か自信たっぷりに真下は言う。
「……はあ……」
「そりゃあ、君にしか頼めないだろう……」
分かってるけど……
僕は泥棒なんてしたことないし……
いつの間にか俯いていた事に気が付かず、恵太郎はテーブルのクロスを眺めていた。
「マイナス200円……困ったね。これじゃあ本当に君の小遣いが無くなってしまうね……」
真下は苦笑しながらそう言った。
「あ……」
顔を上げ、恵太郎はまた自分が俯いていたことにようやく気が付いた。
「仕方ないね……約束だから」
一方的に決められたことなのだろうが、貰う立場の恵太郎に文句は言えないだろう。
「小遣い……無くなっても良いですから……その……何とかしてもらえませんか?東家って力があるんですよね?僕……当分無くても良い……だから……」
何とかして欲しいと切実に恵太郎は訴えたが真下が首を縦に振る様子は無かった。
「駄目だね。犯罪に絡むことは幾ら私でも聞いてあげられないよ。私は東家を守る立場の人間だ。その私に頼むのも間違っていると思わないのかい?」
言いながらも真下は笑みを浮かべている。
「……そう……ですよね」
ただ真下なら何とかしてくれるのではないかと恵太郎は甘く考えたのだ。正確には東家が何とかしてくれたらいいなあと思っていた。
だがその望みもこの瞬間に消えたのだ。
「君が何とかしてあげないと……もちろん、東家から切り離したところでの行動になるだろうが……」
当然だろうという口調で真下は言った。
「もう良いです」
自分のことではない他人のしでかしたことで悩むのは嫌だった。悩んだところでなにもしてあげられないからだろう。
「ん?」
「だってあれは僕がしたことじゃないんです。知佳さんがしたことだし……僕には関係ない……」
なのにどうして自分がこんなに悩まなければならないのかが恵太郎には不思議だった。もっと不思議なのはそれを何とかしてやれと言う真下の言動だ。
「君は頼りがいのない男だな」
チラリと視線を向けられ恵太郎は視線を下ではなく真横の壁に向けた。
「……そんなこと言われても……」
見えないのは知ってる。
だから逆に頼りになるねと言われるより良いのかもしれない。
「君だから佐中の長女は頼ってきたんだろう?」
頼ってきたのではない。
責任転嫁されているだけだ。
「……真下さん……僕に泥棒の真似事をしろって言うんですか?」
「誰も泥棒になってくれとは言ってないよ」
知佳の力になるというなら同じ事だと恵太郎は思った。だが真下からすると違うようだ。
「……暫く自分で考えると良い。君が男になるか、情けない弱虫を選ぶか……それは君次第だ……」
「……そんなの……変だっ!」
盗みの片棒を担げとどう考えても真下は臭わせている。いくら鈍感な恵太郎でもそれが分かった。
「変か?まあ……今すぐどうこうというものでは無さそうだから、ゆっくり自分で考えるんだね。ああそうそう、この話で私は君を呼んだんじゃなかったんだ」
真下は思い出したように言った。
「……なんですか?」
「暫く家庭教師をつける。とりあえず数学の強化。数学が出来るようになれば物事をもっと理論的に組み立てて考えられるようになるだろうからね」
家庭教師?
恵太郎が想像したのは痩せて眼鏡を掛けた頭でっかちの変人だった。数学が出来る男は変人だと思っているからかもしれない。
「えええええ……」
「拒否する権利はないよ」
恵太郎が言う前に真下が言う。
「……は……はい」
「優しい先生だろうから、君もきっと先生を好きになる」
真下は意味ありげに笑った。
「……無駄だと思うけど……」
小さな声で恵太郎は言った。
「何か言ったかい?」
じろとこちらを睨んで真下は問いかけてきた。
「い……いえ……別に……」
「その先生だが、実は本来の仕事は別にある男でね。聞くと一週間ほど時間があるらしいから晩はこちらに来てくれるように頼んでるよ。その間に君にあった家庭教師を手配するから暫く代理の人間で我慢して貰う」
真下は淡々とそう言った。
「はあい……」
ここに来たのだから今までのようにだらだら出来るとは考えなかったが、いきなり家庭教師をつけられることになるとは恵太郎も予想しなかった。
「はいだろう?」
「はい……」
き……
厳しい……
「夕方彼が来たら紹介するよ。まあそれまで暫く片づけをしておくことだ」
真下は言って立ち上がったが、恵太郎は見送ることをしなかった。なんだか酷く疲れて立ち上がる事が出来なかったのだ。
そんな恵太郎に真下は何も言わずに出ていった。
自室に戻るまえに真下は恵太郎の部屋の前にある白川の部屋を訊ねた。くだらないことを吹き込んだ相手に釘を刺しておこうと思ったのだ。
「白川……いるのか?」
「どうぞ……空いていますよ」
慌てるわけでもなく、淡々と白川は言う。
中に入ると白川はキッチンテーブルに資料を山積みにしてそれらを整理しているのが見えた。
「忙しいところ悪いね……」
「いえ……何でしょう?」
「鳩谷くんに何か私のことを話さなかったか?」
真下が言うと白川はじっとこちらを見つめたまま沈黙した。この男を扱いにくいと思ったことは無いが、何か間違った見方をしている所に問題があった。
「彼が言うには私と鳩谷駿と出来てたなどとくだらないことを話したそうだね……。君の妄想癖には私も呆れているが、あんな子供に話しても仕方ないだろう……」
呆れた顔で言うと白川は言った。
「見たことがあります……」
その自信がどこから来るのか真下は知りたいほどだ。真下は結婚こそしていないが、男性に恋愛感情を持った試しがない。
「言って置くが……私はゲイじゃないぞ。そんな風に誤解される方が不愉快だ」
「……」
白川は目線を逸らせて唇を噛んでいた。
大抵適当にあしらえるのだが、恋愛感情をぶつけてこられると対処しようがない。
「二度とくだらないことを吹き込むんじゃない。いいね」
話しても埒があかないと気がついた真下は立ち上がり、早々に本家にある自分の部屋に戻った。
そこでようやく一息をつく。
全く……
どいつもこいつも……
何が楽しくて男性を好きになる?
それともこの寮の体制が不味いのか?
だがだからといって女性秘書をここに住まわせることも出来ない。まず女性の秘書はいないのだ。問題が起こると困るということで男性中心になっているのだが、こんな問題が出てくるとは夢にも思わなかった。
流行と言うんだろうか……
折角手塩に育ててきた宇都木は、真下から見ると大したことのない男にくっついてこのうちから出ていった。宇都木の人生なのだからそれも致し方ないと思いつつもやはり残念に今も思っている。
何時戻ってきても温かく迎えてやる準備は怠った試しが無いほどだ。
秘書にとって一番必要なものを宇都木は資質として持っていた。だから手放したくなかったのだ。それでも宇都木が決めた生き方に異議を唱えるわけにはいかない。
後任を色々と考えたが、なかなか見つからないのが今の実状だった。比例して自分の仕事が増えているのは仕方ないことだろう。
そんな中やってきた恵太郎は本当に手間がかかりそうな子供だった。
疲れた……
なんだか胃が痛いぞ……
恵太郎と話をするととにかく疲れるのだ。色んな子供を見てきたが一番扱いにくいのかもしれない。
いや……
東様が求めていることと、彼の性格があまりにも開きがありすぎて私もどうして良いのか分からないのだ……
教育してなんとかなる場合もある。だが既に、性格として個人を形成しているものを変えるのは至難の業なのだ。
いや……
変えようとする方が間違っているのだろう。
「入って宜しいでしょうか?宇都木です」
扉の向こうから聞こえてきた声に真下はほっとした笑みを浮かべた。