Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第12章

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 逸輝が来ることを許可して貰った恵太郎は嬉しくて仕方がなかった。とりあえずまだ電話中であったので「ありがとうございます」と、だけ言うと、早々に部屋に戻って逸輝との会話を続けた。
「うん。良いって。許可貰ったよ。え、う~ん……春休みの宿題って……まだ手を付けてないけど……。分かった。待ってる」
 電話を終えると恵太郎は携帯を切り、小さく息を吐いた。そう言えば色々なことがありすぎて肝心の学業がおろそかになっていたのだ。もちろん忘れていたわけではなく、宿題の山を見るたび手を付けかねて、現実から逃げていたと言った方が良い。ただ、普段から恵太郎は宿題というものに対してギリギリになってからしか行動に移さないタイプであった。だから逸輝に丸写しさせてもらうのが恒例行事であり、今回もまた頼ることになるのだろう。
 これもいつものことだ。
 宿題なんか世の中に無かったらいいのに……
 亀の入ったボウルをまた眺めながら恵太郎は肩を竦めた。
「だから服を着替えなさいっ!」
 床に座って亀を眺めていると真下の声が響き、恵太郎は「ひゃあ」と声を上げて後ろにつんのめった。
「す……済みません……すぐに着替えます」
 着替えろと言われてぐずぐずしていたことをようやく思い出した恵太郎は、引き出しからジーパンと麻のシャツを引っ張り出し、早々に着替えることにした。真下の方は呆れたような表情でじっとこちらを見ており、その向けられる視線におどおどしながらも恵太郎は何とか服を着替えることが出来た。
「……どうしてこう……なんていうか……」
 真下は苦笑いしているが、内心ではきっと恵太郎のことに呆れているはずだ。それがありありと恵太郎には感じられた。自分でも、てきぱきと物事をこなしたいのだが、どうもワンテンポ遅いのだ。それは生まれてからこのかたずっとこの調子であったのだから、今、急にのろまになったわけではない。
 そんな自分を改めようと恵太郎は毎度思いながらも、おっとりしている性格はどうにもならないのだ。
「着替えました」
 真下の前まで走り、背筋を伸ばして立つと、眼鏡越しの瞳がじっとこちらを見て、笑みを浮かべるように細くなる。次ぎに真下の手が首元に伸ばされ、何故かその仕草にドキドキしながら訳もなく照れていると、ボタンの掛け違えを整えてくれた。
「急がなくて良いから、服はきちんと着なさい」
「……済みません……」
 ぺこりと頭を下げて恵太郎が言うと、真下は苦笑いの表情のまま眼鏡をかけ直す。
「ああ、そうそう。亀を入れる水槽だが、ここの物置にそれらしきものがあるはずなんだ。後で鳴瀬にでも探しに行かせるから、買う必要はないよ。いいね?確か、守屋が亀を飼っていたことがあって、その時に用意したはずなんだ。まだそれがあるのかどうか不明なんだが、捨てた記憶はないから探せばあるだろう」
「守屋さんって方が亀を飼っていたんですか?」
「うちの秘書の一人でね。海外に今、仕事で出かけていて君にはまだ紹介していないが、小動物がことのほか好きな女性なんだ。小さな生き物を沢山飼うのが趣味だったんだが、仕事が不規則だからといって人に譲ってしまったんだよ。ただ亀と魚類の方は本家の裏にある人工池の方に放したんじゃなかったかな……。そいつは何時も岸辺の方で寝そべっているはずだ。朝食を終えた帰りにでも見に行くといい。かなり大きな亀だからぼんやり鳩谷君にもすぐに分かる」
 何故かぼんやり鳩谷君に力が入った口調であった。だが馬鹿にしている様子でもなく、何となく真下は楽しそうだった。
「そんなに大きな亀なんですか……」
「亀の飼い方が分からなかったら守屋に聞くと良い。今日の遅くか明日には一旦帰国する予定になっているから……。守屋が帰ってきたら最初に挨拶がこっちにあるから、君のことも伝えておくよ」
「はい。そうします」
 満面の笑みで恵太郎は答え、食事が済んだら帰り際に亀を見て帰ろうと決めた。もし自分の亀がそこに放した方がいいのなら、恵太郎は広い池に連れて行ってやろうと思った。
 誰だって友達は欲しいだろうと考えたからだ。
 水槽で飼われるより、広い場所でのびのび暮らす方がきっと良い。だけど本当にそうだろうかとフッと恵太郎は我が身を振り返りながら考える。佐中家にいた時と今を較べてみてどちらが良かったか。
 自分ではまだ判断が付かなかった。

 朝食を終え、恵太郎は離れに帰る途中例の人工池に寄っていくことにした。気が付かなかったのだが、本家の裏には大きな池があり、しかも見たこともないような錦鯉が沢山泳いでいる。そこには本家と離れを繋ぐ小道から入れるようになっており、恵太郎は池を眺めつつ、遠くからでも見える鯉はかなり大きそうだった。
 真下からは一匹何千万もする鯉もいるから決して掴まえようとはしないこと。それより下手に手を出さないことだ。と、釘を刺されたが、まかり間違って掴まえるにしても鯉の体は大きく、恵太郎の両手では抱えるのも大変だ。
 手を出してはならない理由は別に高価であると言うことよりも鯉に噛みつかれる恐れがあるらだそうだ。色とりどりの色彩を身にまとった鯉が、人間に噛みつく姿など想像が出来ないのだが、昔、犬が鼻を囓られ十日ほど動物病院に入院したらしい。
 池の水際に更に近づくと、鯉は餌が貰えると思ったようで、見る見るうちに恵太郎の足元まで押し寄せ、丸太より一回り小さな体をうねらせながら一斉に向かってきた。
「わあああ……」
 鯉のあまりの姿に恵太郎は水際の石段から少し身体を後退させた。その場から更に見ていると鯉の体がひしめき合って隙間の無いほど集まってくる。
 鱗は太陽に反射してキラキラと光り、時折力強い尾鰭がビシッと言う音をたて、恵太郎の方に水を飛ばしてくる。中には水面から出した口元をパカリとあけて、餌をねだる姿を見せるのだが、はじめて知った鯉の本性に恵太郎は一度後ろに退かせた足をもう一度前に進めることは出来なかった。
 すごい~けど……
 恐いかも……
 ビシビシと相変わらずひしめき合っている鯉から視線を外し、恵太郎は問題の亀を探した。すると池が丁度斜面になっている浅瀬に亀らしき黒い物体が見えた。
 あれかな……
 わくわくしながら恵太郎が走っていくと、洗面器を裏返し、一回り大きくしたような亀がひなたぼっこをしており、更に近づくと皺だらけの首を伸ばしてじっとこちらを見つめてきた。
 でかああ……
 腰を下ろして大きな亀の背中を撫でながら恵太郎は感動していた。こんな大きな亀を実際に見たことが無かったからだ。
 あの小さな亀もこんなに大きくなるんだろうか……
 それとももっと大きくなって上に乗ったり出来るのかな?
 そんなことを考えて一人で喜んでいると、鳴瀬の声が聞こえた。
「恵太郎君!」
 亀から顔を上げて振り返ると鳴瀬がスーツ姿で走ってくる。ここにいる人間は誰を見ても皆、一様にスーツを着ているせいか、何となく自分だけが浮いているような気がして仕方がない。身なりがみすぼらしいと思うわけではないのだが、ちんまりしている自分が不似合いに思い、この場所に居づらくさせるのだ。
「鳴瀬さん。こんにちは……」
「亀、飼うんだって?なんか水槽探してやれって真下さんから聞いたから。でも、亀って……変わってるんだなあ……」
 物珍しそうな目を鳴瀬は向けてきた。
「……白川さんから頂いたんです……」
「げ……」
 とたんに気色ばんだ表情になる。白川にもらったことに何か問題があるのだろうかと恵太郎は考え込みそうになったほどだ。
「げ?ってなんですか?」
「いや……何でもないんだけど……。じゃあ離れの物置を探すから、一緒に来るんだよ」
 不味いことを言ったな……という表情で鳴瀬は言い、くるりときびすを返してしまった。
「あ……はい。でも……池に放した方がいいかなって……今考えてたんですけど……」
 鳴瀬を後ろから小走りに追いかけて恵太郎は言った。
「そいつ、ちっちゃいんだろ?駄目駄目。ほら、あの凶暴な鯉に食われちゃうよ」
 手を左右にプラプラと鳴瀬は振った。
「え、鯉って亀を食べるんですか?」
「いや……なんていうか。食べるつもりはないんだろうけど、あのばかでかい鯉がいる池だからさあ、パクパクしてたら口に入ってしまうって事だよ。今までもネズミが池を泳いでいたら、いきなりぼちゃんって音がしてそのっま沈んで浮いてこなかったらしい。ってことは鯉が食ったんだとしか考えられないよな?鯉が小さかった頃はザリガニもいたらしいんだけど、今はいないって。ってことは食われたんだろうなあ……ザリガニも……。あの亀は流石にでかいから食えないんだろう」
 す……
 すごい鯉かも……
 ぞ~っとしながら恵太郎は鳴瀬から離れないようにくっついて歩いた。すると本家と離れを繋ぐ小道に入り、いつもの景色が戻ってくる。両側に生えている木が池を見えなくしているのだろう。
 砂利道を歩きながら恵太郎は鳴瀬に聞いた。
「あの……守屋さんってどんな方ですか?今日の遅くか、明日戻られるそうなんですが、亀の飼い方を聞くと良いって真下さんがおっしゃってたんですけど……」
「え、守屋さん、帰ってくるのか?うはあ……」
 何がうはあなのか恵太郎には分からない。
「……えと。変わった人ですか?」
「鳩谷君と違って普通だよ。ただね、今晩から宇都木さん来るんだろう?」
 なんだか嬉しくない答えだ。
「……は、はい」
「守屋さんは宇都木さんが好きだったんだ。あの池の畔に住んでる亀は、実はうっちゃんって言うんだ。亀にうっちゃんって可笑しいんだけど笑えないんだなあ……。まあ……宇都木さんは全然気が付かなかったみたいだけど……」
 何となく鳴瀬は苦い顔で言った。
「そうなんですか……。じゃあ宇都木さんって結婚されてるんですか?」
 恵太郎はごく普通の事を聞いたにも関わらず、鳴瀬はいきなり笑い出した。その理由が全く分からない。
「結婚って言うか……まあ……恋人と一緒に暮らしてるみたいだよ……」
 鳴瀬は何処か遠いところを見ている。
「それって同棲って言うんですよね?」
 何となく顔を赤らめて恵太郎が言うと、鳴瀬がまたもや笑い出した。馬鹿にされているような気配ではないのだけが救いだ。
「……そうだなあ……うん。その通りだな……」
 一人納得している鳴瀬に恵太郎は訳が分からないまま、それでもこれ以上聞いてはならないことだけは理解した。
 そうしているうちに離れの裏口につくと、鳴瀬はカードを使って扉をあけて中に入った。当然恵太郎もくっついて入る。すると鳴瀬はそのまま廊下を歩いて今まで入ったことのない扉を今度は開けた。そこには階段がついていて、下にまで続いているのが分かったが、先が真っ暗で下の方が見えない。
 鳴瀬は壁に付いているスイッチを押し、電気を点けるとそのまま階段を降りていった。恵太郎は薄暗い中をキョロキョロしながらも、ギシギシいう階段を一歩、又一歩とおりた。
 建物の作りが古いせいか、みしり……という鈍い音が下に行くに連れ大きくなり、恵太郎を不安にさせる。だが、鳴瀬は慣れているのか、軽い足取りで下まで降りきるとまた電灯をつけた。
 そこは恵太郎が最初想像していたような狭くて薄暗く、埃っぽい場所ではなく、地下室というより一階下にある部屋という場所で、随分と古いタンスが沢山並んでいた。かといってタンスの側面のニスが剥がれている様子も無く、誰かが定期的にメンテをしているのだろう。
 年代を感じる板張りの床は、恵太郎が生きて生きた年齢よりも古く、こちらも手抜きされることなく手入れされている。それがわかるように、ツルツルとしているのだが茶色の木目が深い色味を持ち独特の雰囲気を醸し出していた。
 おおよそ二十畳ほどある場所は四方の壁に背丈のそろわないタンスが並べられているのだが一カ所だけぽつりと開いており、扉がついていた。この部屋の向こうにまだ部屋があるのだろう。真ん中には棚が置かれ、四角い箱や長細い箱が組み紐で蓋を閉じられ積み上げられていた。
 うわあ……
 なんか……
 お宝ありそうって感じ。
 恵太郎にとっては見るものすべてが新鮮で、目線があちこちに奪われ視線が定まらない。だが鳴瀬の方は部屋の隅に置かれた脚立を持って、棚の上の方を見ながら歩いていた。
「水槽……この辺だったと思うんだけどなあ……」
 独り言のように鳴瀬は言い、カチカチと持っている脚立を鳴らす。その音に恵太郎は現実に引き戻されて鳴瀬の後ろを追いかけた。
「あれだな……」
 上の方を見つめて鳴瀬は言い、持っていた脚立を床に下ろすと足をかけて棚の一番上にあった硝子の水槽を引き寄せた。
 で……
 でかい……
 恵太郎はもっと小さな水槽を想像していたのだが、鳴瀬が今床に下ろそうとしている水槽は長さが一メートルほどあり、どう考えてもあの小さな亀の住まいには広すぎる。とはいえ、何処を見渡しても、水槽はこれ一つしかない。
 ではこれを使うしかないのだ。
「……でかいなあ……」
 鳴瀬も恵太郎と同じ事を思ったのか、苦笑しながら言った。
「……広い方が……その、亀さんも喜ぶと思う」
 せっかく鳴瀬が床に下ろしてくれた水槽なのだから感謝しないと……と恵太郎は思ったのだ。すると鳴瀬が笑顔で恵太郎の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。
「亀さんって……。はは。鳩谷君はなんだか可愛いなあ……」
 小動物を可愛がるような鳴瀬の仕草に、恵太郎は身を竦めた。どうも恵太郎はいつもこんな風に頭を撫でられたり、肩を叩かれたりする。それは逸輝であったり同級生であることが多いが、どうもここでもそういう扱いを受けそうな気配だ。
 もう良いけど……
 可愛いと言われるのに慣れた。
 だが実際、恵太郎自身は自分を可愛いタイプではなく強情なタイプだと知っている。嫌なものは嫌だし、納得いかないことは納得いかない。ただ、それをはっきりと態度に出せないだけだ。
 本当は父親でもない相手に頭を撫でられるのも嫌いであったし、肩を叩いて「可愛い」と、言われるのも好きではなかった。何となく馬鹿にされているような気がするからだろう。もちろん、だからといって置かれた手を払いのけることなどしないが。
 恵太郎は一人でいることが多かったせいで、人の温もりに飢えているところがあると自分でも思う。そのため例え自分に害をなすような相手であったとしても、にこやかに近寄ってくる相手を自らの手で追い払うということが基本的に苦手なのだ。
 そんな恵太郎が周囲から危ういな……と、思われているとを本人は知らない。
「じゃあ……これ持って上がって石を入れて、あと水を少し張ればいいんじゃないかな……随分昔、うっちゃんを飼ってた守屋さんがそうやっていたような記憶があるんだ……」
 記憶をたどるように目線を漂わせた鳴瀬は、あの池にいた亀がこの水槽で飼われていた時のことを思い出しているのだろう。
「そうします」
 ようやく亀を入れる水槽を手に入れた恵太郎は自分で運ぼうとしたが、鳴瀬が気を利かせて部屋まで運んでくれた。
 
「じゃあ、俺、仕事あるから」
 手を振って鳴瀬が出ていく後ろから、恵太郎はお礼を言ってすぐさま水槽の元に戻った。キッチン下に置かれた水槽はやはり恵太郎に一人では持ち上げられず、縁を両手で掴んでズルズルと引きずる。
 部屋の隅にようやく移動させると、とりあえず恵太郎は亀の入ったボウルをそのまま水槽の中に開けた。本来は砂利を入れるのが良いらしいが、その砂利をどこから手配すればいいのか分からない。
 亀は硝子の表面で足が滑るのか、キキ……キキと小さな音を立てて広い水槽の端まで来ると壁に沿ってよじ登るような格好で斜めにもたれた。
 やっぱり砂利が必要だよな……
 じっと見つめる亀はノロノロとした動きで手足を動かしている。先程より広い場所に移してやったはずなのに、亀は外に出たいという風にガリガリと相変わらず硝子の端でもがいていた。恵太郎にはその姿が自分自身のように見える。
 広い場所に自分はいるが、何をしていいのか分からない。先が見えない自分の事が不安だった。基本的に皆、いい人ばかりなのだろうが、所詮他人でしかも年齢が離れすぎて気安く話をすることが出来ない。その所為かいつも緊張している自分がいて気持ちが落ち着かずに辛い。
 僕……
 どうしてここに連れてこられたんだっけ?
 自分がここに戻ろうと思った理由は当然分かっているが、東家にとって恵太郎はどういう存在なのか真下は話してくれていない。間違っていた預け先のことはもう良いとして、恵太郎の性格を変えようとしていたのは分かった。
 変えてどうしたいんだろうか?
 恵太郎は別に誰かに頼りながら生きてきたわけでもなく、父親と二人暮らしであったときも、大抵一人で家の用事をこなしていたのだ。だから一人で出来ることも多分人より多く学んでいると思う。
 ただこの亀のように何事も遅いだけなのだ。それを誰も放っておいてくれずに、気を利かせて手伝ってくれるのだが、恵太郎は嬉しい反面困っていた。
 逸輝の存在がまさにそうだ。
 小さな頃から腐れ縁という関係で、学校も、クラスも同じ。いつも恵太郎の側にいて面倒を見てくれる逸輝の存在はとても大きい。その逸輝は恵太郎とはちがい違い行動力がある。だからてきぱきと何事もそつなくこなしていく。そんな逸輝から見ると恵太郎はイライラするほど鈍くさい存在に違いない。
 嫌だな……自分が……
 それは今感じたことではない。小さい頃から自分自身に自信を持てなかった恵太郎の悩みだ。変わりたい変わりたいと思うのだが、いつまで経っても理想はほど遠く、その上努力しているはずなのに、全く己に進歩しないのだ。
 だが、どうも何かを期待されてここに連れ戻されているようだった。それがどんなことか全く恵太郎には分からなかったが、何となく分かる期待の存在が重くて仕方がない。  自分自身がどういうタイプであるかを知っているから期待をされたくないのだった。
 あ~あ……
 考えても無駄なんだけど……
 無駄なんだって……
 亀を眺めながら恵太郎はなんだか泣いてしまいそうな気分になった。

 真下が朝からの仕事に忙殺されていると、東が珍しく部屋を訪れた。それを目線に捉えた真下は仕事の電話を切り、東をソファーに案内した。
「どうされました?」
 何を聞きたいのか真下には分かっていたが、とりあえずそう言うことで誤魔化そうとしたのだ。もちろん、無駄な反抗だった。
「恵太郎はどうじゃ?」
 東は言って、皺だらけの顔に笑顔を浮かべてくしゃくしゃにする。もうすぐ80を向かえる東だが、大人の笑顔の中に何処か子供じみたものを感じられるのが不思議だ。
「はあ……東様のご希望には添えないかと……」
「なんじゃ。光彦ともあろうものが随分と弱気じゃの……」
 小さな瞳をこちらに向け、だが鋭い眼光を備えている輝きは、流石東都グループの総裁を務めるだけある。
「……弱気と言うよりも……。私にはとても手に終えません」
 肩を竦めて真下は言った。
「あの駿の息子じゃ」
 だから同じだとでも言いたいのだろうが、一言でも良いから恵太郎と会話をすれば、東にも真下の困惑が分かって貰えるのかもしれない。だが間の悪いことにまだ東は恵太郎と会話を交わしてはいないのだ。そうであるから余計に始末が悪かった。
「例え息子であっても、駿本人ではないのですから……当然、性格も個性も全く違います。恵太郎君は駿と完全に正反対ですね。そんな恵太郎君を駿のように育て上げる自信は私にはありません。逆に可哀相だと思います」
 機敏さや、ある種の頭の回転というのは生まれ持ったもので後天的に備わるものではない。それは駿という人間に出会って真下が実感したことだった。己がいくらあの天賦の才能を欲しがったところで、既に備わっているものであるから訓練して身につけられるものではないことを思い知った事件が過去にあった。
 そう、駿は本当に特別な人間だったのだ。
 今持ち上がっている話題の持ち主である恵太郎には、駿が生まれながらもっていたであろう天賦の才能は無い。手芸の才能はあるかもしれないが。
「恵太郎はそれほど使い物にならない馬鹿者なのか?どうなんじゃ?」
 信じられないという瞳をこちらに向けてくる東は、何処か落胆している。
「馬鹿ではないんでしょうが……。東様の望まれているような男には到底なり得ないでしょう。諦めて頂きたいのですが……」
 チラリと東の様子を窺い、真下は言った。東の方はう~んと考え込んでしまっている。
「光彦」
「はい」
「努力もせずに投げ出す気か?」
「……はあ……」
「お前らしくない」
「……」
「やるだけやって駄目なら仕方ないことじゃ。何事もそこまでやってみてから、判断するものだ。じゃろう?」
「……そうです」
「光彦は、いつぽっくりいくかもしれん爺の願いは聞いてくれんのか?」
 泣き落としにかかるのはいつものことだ。
「……分かりました。努力は一応させていただきます」
「一応では駄目じゃ」
「……そうですね……」
 笑うしかない。
「そういえば、光彦。今晩から未来が帰ってくると聞いたんじゃが……」
「……帰ってくるわけではありません。恵太郎君の家庭教師に暫く来て貰うことになったんですよ」
「なんじゃ……」
 残念そうな表情の東だ。宇都木は特に東のお気に入りであったため、とりあえず真下の説得に手放す覚悟をきめたものの、今ではそれを後悔しているようだ。
 宇都木が帰りたいと言えば、両手を広げて迎え入れるだろう。それだけ宇都木の能力を高く評価しており、今までも事ある毎に真下に宇都木の話を振ってくる。
 宇都木だけが一度も東家を出ることなかったのも理由に挙げられるのだろうが、やはり都と、そして東が我が子のように大事にし、それに応えるべく宇都木が幼い頃から健気に努力してきたのを知っているからだった。
 だからここにいる秘書達とは少し宇都木の立場は違う。
「邦彦は……未来を大事にしてくれておるか?大事にせんそぶりが見えたら、無理矢理でも連れ戻すんじゃ。あの子は人一倍傷つきやすいからな……」
 真下自身も宇都木に甘いと思うが、一番甘いのはこの東だろう。
「はいはい」
 苦笑しながら真下は言った。
 こうなると東は子供のように駄々をこねるところがある。本当に身内には甘い男だ。だがそれも真下がここを離れられない理由の一つに挙げられる。
 一代で築いた東の仕事に対する熱意、そして時に信じられないほど、冷酷な部分を垣間見せると同時に、子供のような所も兼ねそろえている。そんな何処か危うい東の人間性に真下は惚れていた。  
「本当に分かっておるのか……」
 チラリと真下の方を見つめてくるが頷くことはしない。とにかく理由を付けて宇都木を取り戻したいと思っている東なのだから、同意することはしない。
「分かっています。ですが、宇都木はとても東様に感謝しているんですよ。今、幸せなのは東様のお陰だと、会うたびに聞かされていますので……」
 と、でも言っておかないと東が納得しないのだ。だから東が宇都木のことでごねだすとこうやって宥めることにしている。基本的に東は個人の選ぶ道にとやかく口を挟む男ではない。
 ただ、何度も言うが宇都木が特別なだけだった。
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