Angel Sugar

「ユーストレス 第1部」 第16章

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 亀のまーちゃんはクイクイと顔を上げ、恵太郎に何かいいたげな表情をしている。そういえば、まーちゃんの餌はここにはないのだから、お腹が空いているのかもしれない。だが、何を食べさせて良いのか恵太郎には分からないのだ。
 恵太郎は今まで亀というか、動物類は飼った事がなかったから。
 どうしようか……
 あ……
 そいえば亀の飼い方は守屋に聞けと真下が話してくれたことを思いだした恵太郎は、先程入ってきた女性がその守屋だったのだとようやく気が付いた。
 守屋さんに聞かないと……
 このまま水槽にいれたままだと亀は死んでしまうだろう。それは恵太郎も望まなかった。出来ればあの、うっちゃんのように大きくして、池に放してやりたい。きっと亀もその方が幸せだ。
 恵太郎は立ち上がると、守屋を探すことにした。先程宇都木と出ていったが、そろそろ話しも終わっている頃だろう。
 靴を履き、扉を開けて恵太郎は廊下に出た。そしてキョロキョロと視線を彷徨わせると玄関の方から声が聞こえてきた。そこには宇都木と守屋が立ち話をしている。まだ宇都木は帰っていなかったのだ。
 そろそろと恵太郎は二人に近づいたが話は終わっていないようだ。仕方なしに話し終えるのを待とうと恵太郎は考えた。もし、ここで宇都木と話を終えた後、守屋がここから出ていく可能性だってあったからだ。
 一晩亀を放置する勇気は恵太郎にはない。明日の朝、死んでいるかもしれないと思うといても立ってもいられないのだ。もし、深刻そうに話をしていなかったら、恵太郎は二人の間に割って入っていただろう。だが出来る雰囲気に見られなかった。
 なんか……
 不味い感じがする……
 恵太郎は柱の陰に隠れると、その場に座り込み、声が聞こえなくなるのを待つことにした。だがボソボソと話している声は相変わらず耳に入ってくる。聞いては駄目だと思うのだが、あんな人目に付くところで立ち話をするということは、別に聞かれても良い話だからだ。本当に聞かれたくない話なら場所を変え、誰の邪魔も入らない所でするにちがいない。だから恵太郎がここにいたとしても別に構わないことなのだ。と、思うことにした。
「それで……貴方はいいの?」
 守屋は訊ねるような声で言う。
「……ええ。私の望んだことですから。後悔など少しもしていません」
「……宇都木さんは家族が欲しかったんでしょう?相手があれじゃあ、家族は出来ないわ……」
 そう言った守屋の意味が恵太郎には分からなかった。
「いいえ。私が欲しかったのは自分の居場所です。それをようやく見つけられたんです」
 意外に嬉しそうな宇都木の声だ。
「……私だって……貴方の居場所を作ってあげられたわ……」
「守屋さん。冗談を言わないでください。困ります」
 今度は困惑しているようだった。
「冗談でこんな事言えないのよ。女から告白したって良い時代なんだから……」
「今までも何度もお聞きしましたが……。その都度お断りしています」
「……分かってるけどね……私じゃ駄目って。だけど……なんか悔しいのよ~。男に負けたんだもの……。すっごい美人で、そつが無くて……料理だって完璧な女性が現れて取られちゃうなら私だって諦めもついたわ。それが……如月だなんて……噂で聞いたことは聞いたけど……自分で聞くまで信じられなかったのよ……」
 はあ~とため息をつく声が聞こえるが、だからといって嫌みな言い方には聞こえなかった。
「申し訳ありません……」
「ねえ、何時からそんな気持になったの?」
「出会ってから……ですね」
「全然気が付かなかった……」
「真下さんは気が付かれていましたよ……」
 小さな笑い声。
「うっわ~やっぱりくせ者ね……彼って」
 当然だと言うような言い方だ。
「真下さんはどうなんです?あの方も独身ですよ」
「……止めてよ……。真下さんはこう、憧れなのよ。憧れと恋愛は違うわ。それにあの人が見ているのは東さまと、この東都グループ。私に目を向ける事なんて無いわ。仕事の時だけ相手を見るのよ。多分それがなかったら人間が目線に入らない人よ」
 そうなのだろうか?
 真下はそういうタイプなのだろうか?
 恵太郎には守屋の言った言葉に同意は出来なかった。頼もしくて優しい。そして厳しい男に見える。だからといって人間が目線に入らないようなタイプには思えない。
「そんなことはありませんよ。仕事が忙しくて女性に目が向かないだけだと私は思いますが……。私は随分個人的なことで助けて貰いましたし……人をよく見ている方ですよ」
 苦笑したような宇都木の声に恵太郎も思わず頷いていた。
「そんな話は良いの。私の憧れは真下さんだけど、これは恋愛感情じゃないって言いたかっただけ。でも……宇都木さんに対しては違うの」
「……と、申されましても……」
「女性は嫌いなの?」
「……そう言うわけではないんです……」
「私のことは嫌い?」
「ですから……何と申しましょうか……」
 だんだん宇都木の声が小さくなってくる。守屋に押されているようだ。
「女の方が抱き心地は良いと思うわ」
 きっぱりとした言い方であった。だが恵太郎には分からない言葉だ。
 抱き心地というのは何だろう。
「……は……はああ……そ……そうなんでしょうか……その……」
 急に言葉が乱れる宇都木が意味不明であったが、困っていることだけは恵太郎にも分かった。
「もしかして宇都木さんは女性としたことないんじゃない?」
 した?
 何をするんだろうか。
「え、あ~その……」
「試しにチャレンジしてみるのはどうかしら?」
 運動で競い合うことなのだろうか?
 益々恵太郎には守屋の提案していることが分からなくなってきた。
「……も……申し訳ないんですが……それはちょっと……」
「あ、別に寝たからって、つき合えなんて迫ったりしないわよ。知らないから良さが分からないんだと思っただけ。較べて如月さんを選んでも私は構わないわ。それより較べることもしないで負けるのはの嫌なの」
 寝る……
 寝るって……
 せ……
 セックスとか言うことかな?
 逸輝が時々そんな本をこっそり見ているのを恵太郎は知っていた。当然性教育だって受けている。ここまできてようやく、恵太郎は守屋が何を提案しているのかを知った。
 ……
 も……
 守屋さんって……
 誰も見ていないのに、恵太郎は一人顔を赤らめていた。
「……あ……そう言うことは……おっしゃらないでください……」
 だがもっと困っているのは宇都木だろう。宇都木には特別に好きと言う相手がいるのを聞いたからだ。では、ここは恵太郎が出ていくしかない。自分が宇都木を助けてやるんだという気持に恵太郎は駆られた。
「守屋さんっ!」
 叫ぶように言って走っていくと、二人はぎょっとした顔で振り返った。
「……ええっと……」
 守屋は恵太郎の名前をすっかり忘れていたようだ。
「恵太郎さんです」
 宇都木がそんな守屋に恵太郎の名前を教える。
「あ、そう。恵太郎君なにかしら……」
 守屋は恵太郎を見てニコリと笑った。
「お話し中済みません。どうしても守屋さんに聞きたいことがあって……真下さんが守屋さんに聞くようにとおっしゃったものですから……」
「そ、そうだったんですか。じゃあ私はこれで……」
 宇都木は恵太郎に見えるように目配せして、足早に出ていった。良いことをしたのだろう。何となく良いことをしたような気がして恵太郎は気分が良かった。
「それで、何が聞きたいのかしら?」
 はあとため息をつきつつも、守屋は言った。決して怒っている様子はない。それにホッとしながら恵太郎は亀のことを聞くことにした。
「白川さんから亀を貰ったんです。それで飼い方が分からなくて……困っていたら、真下さんが守屋さんなら教えてくれるだろうって……それで……」
「白川が亀を?どうして?」
 驚いた顔で守屋は言う。白川と呼び捨てするところを見ると守屋と同年代か年下なのだろう。
「え、いえ。多分僕が一人で寂しそうにしてるから気を使ってくださったのだと思うんですけど……」
「……そう、そう言うこと~。白川ーーーー!」
 真下と同じような反応を示した守屋は白川の部屋に走っていく。白川はみんなが怒るようなことをしていないのに、何故か恵太郎が亀を貰った話を聞くとみなこんな反応を示す。亀を貰うと悪いのだろうか?
 守屋が走っていった後を追い、恵太郎は白川の部屋の前で立ち止まった。すると守屋の怒鳴り声が響いた。今度こそ怒っているようだ。
「あんた、いくつになったのよ!いい加減い子供じみたことは止しなさいよっ!しかも生き物を使うなんて最低よっ!」
「五月蠅いな……小姑守屋の言う事なんて恐くないよ」
「なんですって!あんまり訳の分からない嫌がらせをするんだったら、剣さんに言うからね。しらないから」
「……つ……剣は関係ないだろうっ!」
 剣……
 また新しい名前を恵太郎は聞いたが、そう言えば真下は剣と守屋が今晩帰ってくると言っていた。ではもう少ししたら剣という男に会えるのだろうか。
「関係ない訳無いでしょう。あるのはあんたじゃない」
「お前こそ意地悪女だっ!」
 恵太郎が聞いたこともないような剣幕で白川も怒鳴る。恐ろしくて部屋に入ろうという気にはなれなかった。
 外でおとなしく待っていた方がいいのだろう。
「なによ、根暗おたく。あんたが悪いんでしょう。あんたが。はまりすぎて笑っちゃったわよ……亀だなんて……」
 呆れた口調で守屋は言う。
「守屋も認めてるじゃないか……」
「そういう意味じゃないわよ。それより、訳の分からない嫌がらせはもうしないこと。暫くこっちに居座るから、見張ってるわよ。いい?分かった?」
 守屋のその言葉に白川が何を言ったのか恵太郎には聞こえなかった。
「亀ね」
 けろりとした顔で白川の部屋から出てきた守屋から、あの剣幕で叫んだ雰囲気が全く見られない。すごい女性なのだと恵太郎は感心した。
 綺麗ではない。だが、人を惹きつける何かが体から溢れているように見える。それは自分に自信を持って生きている人間が、大抵もっている独特のものだ。
 すごいなあ……
 嫌みなところはない。どちらかというと竹を割ったような性格だ。女っぽく見えないのは多分スーツを着ているからだろう。しかもスカートではなくズボンの方だ。秘書はみなこの形なのだろう。
「は……はい」
「今、何処にいるのかしら……亀」
 チラリと恵太郎の方を見下ろして守屋は言った。
「あ、僕の部屋にいます。水槽に入れてるんです。昼間、鳴瀬さんが見つけてくださって……」
 守屋を自分の部屋に案内すると、キッチンの端に置いてある水槽に案内した。その亀を見た守屋は嬉しそうな声を上げた。
「可愛い~。これ、銭亀ね。池の亀と同じだわ。こっちはまだ小さいのね……」
 手を伸ばして亀の甲羅を撫でながら守屋は言う。本当に生き物が好きなようだ。
「緑亀じゃなかったんだ……。あ、池に大きな亀がいたんですけど、あれは守屋さんが飼ってたって聞いたんですけど……」
「ええ。大きくなったから池に放したの。あの極悪な鯉に対抗できるくらいの大きさに育つまでは放せなかったんだけどね」
 クスクス笑いながら守屋は、今度、亀の首筋を撫でていた。
「僕も鯉を見たけど……恐かったです」
 昼間見た鯉を思い出し、恵太郎は肩を竦めた。
「そりゃあ……もうすごいわよ。餌を毎日たらふくやってる筈なのにゴミでも浮かんだら餌だと思って飛びついてくるんだから……。以前、犬まで食べようとしたのよ。信じられないわ……。流石に亀は甲良が固いから食べようなんて思わなかったみたいだけど……このちっちゃいのはまだ駄目ね……一口でやられちゃうわ……」
 くりくりと亀の首を指先で撫で、守屋は言う。あの池の鯉は誰もが認めるどう猛な魚なのだろう。
「い……犬、食べるって本当ですか?鳴瀬さんも言ってましたけど……」
「食べるって大袈裟だったけど、以前事故に合ったのは小型犬だったわ。鼻を囓られちゃったのよ。尻尾を食いちぎらそうになったのもいたかな……。でもまあ鼻とか尻尾が取れた訳じゃないけど血まみれになって大変だったのよ……」
「やっぱり……こ……恐いです」
「間違っても手を出しちゃ駄目よ。指が取れちゃったら恐いでしょう?」
 ぞっとする事を守屋は楽しそうに言った。恵太郎があからさまに怖がっているのを見てからかっているのだろう。
「それで……飼い方なんですけど……」
「別にたいした注意は無いのよね……。餌は朝晩、一日二回ね。それは市販で充分だから明日買ってきたら良いわ。シラスとか人間の食べる物も雑食だから色々食べるのよ。池にいる亀は結構グルメだったわ。鶏の笹身とか食べていたし、何故か海苔も食べてたの。でも余り良い物をやると贅沢になってそれしか食べなくなるから気を付けないと餌代でお小遣いが無くなるわよ。入れ物は充分な広さだし、水は頻繁に換える必要はないけど、替えた方が臭わなくていいかも。夏は食べる量が増えて、逆に冬はへるけど気にしないこと。あと一番大事なのは寒くなると動かなくなるんだけど、それは冬眠だからそのままにしておくの。間違っても土に埋めないように。埋めると死んじゃうから。夏は干からびないようにしてあげてね。これで長生きするわ」
 守屋は一気にそう話してくれた。思い出す時間も必要なかったのか、途中で言葉が途切れることも無かった。
「埋めちゃ駄目なんですか?」
 冬眠のイメージは土の中だった。
「埋めたらそこで腐るわよ」
 笑いを堪えるように守屋は口元を抑えたが、恵太郎はぞっとした。冬眠だと思って土に埋め、暫くしたら死んで腐っていたなどと、想像するだけで怖い。
「……冬眠って土の中に埋めてやらなきゃ駄目だと思った……」
「まあ……冬眠するかどうか分からないけどね。室内が暖かいことが多いから」
「はい。どうもありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて恵太郎はお礼を言った。
「暫くこっちにいるから、何かあったら聞いてね。私の部屋は二階を上がって右奥だから。何時もいるとは限らないけど、夜には戻ってるわ」
 と言うことは鳴瀬の部屋とは反対なのだろう。
「又宜しくお願いします」
「いいのよ。生き物を大事に飼ってくれる人は好きだから。じゃあ、私は失礼するわね」
 守屋は腰を上げてそう言った。
「ありがとうございます」
 恵太郎は再度お辞儀をして、帰っていく守屋を出入り口まで送ると、早速キッチンに戻り何かまーちゃんが食べられそうな物を探した。
 鰹……鰹って食べるかな……あ……肉団子も……今日だけだから良いか……
 恵太郎がそれらをもって水槽の所に戻ると、まーちゃんを手のひらに乗せた。そうして鰹と肉団子を亀の口元に持っていくと、小さな口がパクリと食いつく。
 何でも食べるようだ。
まーちゃんに餌をやり終え、恵太郎は頭を撫でてやった。すると気持ちよさそうに首を伸ばしている。喜んでくれてるんだろうなと思いながら、手を引っ込める。
 勉強しないと……
 今までそんな気持になったことはなかった。だがここにいる秘書達を見て恵太郎は自信を持って仕事をするということがどういうことなのかを見たような気がしたのだ。むろん、彼らからすると自然な振る舞いなのだろうが、自立心と自信に溢れているのが、普通に立っていても滲み出ているのがわかる。
 だが、自分はどうだ?
 始終オロオロし、誰かに頼り、いや、頼るつもりはないが面倒を見て貰っている。佐中家にいたときも、そして腐れ縁と化している逸輝にも恵太郎は甘やかされてきた。もちろん恵太郎自身は自分で何とかしようとしてきたのだが、それが出来ない環境であったのだ。しかも悪いことに一度甘えることに楽さを覚えると、駄目だと思いつつ流されてしまう。
 そんな自分が嫌で自己嫌悪に陥ったこともしばしばあった。だがここでは逆に自分がしなければどうにもならない場所だ。周囲は頼めば力になってくれるが基本的に自分が全てをしなければならない。甘えた環境からいきなり放り出された気分ではあったが、悪い気がしないのは不思議だった。
 自分でも自分を変えたい。その機会に今恵まれている。ここで頑張らないと本当に自分は駄目になってしまうだろう。
 宇都木が言っていたように、別に勉強が出来る人間にはならなくて良いと恵太郎は思う。いや、それこそ頑張ったとしても学年一番の成績は夢のまた夢であり、なにより学者を目指しているわけではない。だから、宇都木の言うようにとりあえず留年しない程度の成績を取れるように目標として建てると良いのだろう。自分が思う少し上の目標を作り努力すれば、今すぐは無理だろうが、良かったと思える結果が出るはずだ。
 そのくらいまで頑張ろうかな……
 春休みはまだある。新学期が始まるまでに自分の力で勉強をしよう。
 恵太郎はキッチンに広げていた宿題と教科書を手に持ち、ベッドのある部屋に置かれている勉強机の方に置いた。
 時間は九時を過ぎた頃だった。

 十時頃、お腹が空いた恵太郎は軽く夕食を自分で作って食べると、風呂に入り、また一時間ほど勉強をしてから、寝る支度に入った。
 人の声のしない場所は何処かもの悲しいのだが、キッチンの隅に置いた水槽には亀のまーちゃんが見える。
 小さな生き物がそこで息づいていることで何故か寂しさが紛れた。
 亀を飼って良かった。
 本当は猫か犬を飼ってみたかったが、亀の方が手が掛からずにいいだろう。初めて生き物を飼うにはこういう小さな物からの方がいい。
 結構可愛いしなあ……
 えへへと表情を緩ませて、恵太郎は水槽にいるまーちゃんを眺め、背中を撫でた。だが寝ているのか余り動かない。
 寝よう……
 何か疲れちゃった。
 恵太郎は水槽から離れ、電気を消すと毛布に潜り込んだ。が、昨晩の事を思いだし、部屋の電気をもう一度点けて窓の所に走った。
 カーテンをそろそろと開けて外を見る。だが真っ暗な中、動きのある物は何も見つけられなかった。今晩は大丈夫なのだ。
 夢だった。
 そう思うのが良いだろう。
 なにより今日は一日、色々あって疲れた為、ぐっすり眠ることが出来そうだ。恵太郎はカーテンを引き、ピッタリと真ん中で重ね合わせると、また部屋の電気を消して毛布に潜り込んだ。
 ありがたいことに睡魔は直ぐに恵太郎を優しく包んでくれた。

 仕事が一段落し、真下の視線が自然と窓の外に向けられた。隙間なく締まったカーテンが、夜の暗闇を隠している。部屋は煌々とした電灯のため、まるで日中のようだ。過ぎていく時間の流れが時折分からなくなる真下には、恵太郎が夜を怖がる理由が理解できない。
 真下は何かを恐いと思ったことはないからだ。
 実際、真下は夜の方が落ち着くタイプだった。
 元々この屋敷内は静かだが、世間が寝静まり更に沈黙に包まれると何故か仕事を片づける手が早まる。そんな中、空を飛ぶ鳥も木々にとまり夜が明けるのを待ち、池の鯉たちも眠っていることだろう。
 この時間が止まったような感覚が真下は好きだった。大抵の仕事は昼間に片づけるが、ややこしい問題を考えるには最適な時刻だ。
 コーヒーでも入れるか……
 パソコンから目を離し、広げた書類をボックスにつっこんだ真下は椅子から腰を上げた。キイともならない椅子も静かだ。
 それにしても……
 この時間だったな……
 ふと、昨晩恵太郎が飛び込んできたことを思い出し、口元に笑みが浮かんだ。それほど何が恐いのだろうとやはり思う。一応、警備員には注意するようには伝えたが、赤外線の監視カメラも各所設置されており、真夜中の巡回もある。これでは不審者がうろつくことはないだろう。
 寝ぼけていて夢でもみたのだ。
 真下はそう思っていた。
 テーブルに置かれた紙コップにポットからコーヒーを入れる。そしていつものようにフレッシュを二つ入れてマドラーでかき混ぜホッと息を吐いた。
 久しぶりに秘書共が帰ってきたか……
 これほどの人数が一度に集まることはまず無い。ただ珍しいことだが、全く無いわけでもない。だからといって皆で食事をするとか、何処かに集まるとかそんなこともしない。冷めた間柄だからというわけでもなく、気が付くと離れに皆が集まり、時には誰もいなくなる。今までそうやってきた。
 団結力が無いのだろう。いや、そんな状況になることが無いために真下には分からないだけかもしれない。
 秘書には組合も無ければ、何かを主張する権利もない。黙々と情報を集め、東家に対し降りかりそうな問題が表沙汰になることを防いでいる。だが余程でない限り同じ仕事をペアでさせることが無い。
 その所為で団結するということを考えられないのかもしれない。大抵皆一人で行動しているからだ。もちろん一人で行動するのはとても孤独なことだろう。だから身内の事をいつも調べ周り、いつもドロドロとした人間関係や人の業を見ている秘書達がそれらに疲れたとき、ここを辞めていく。
 何人もそんな秘書を見てきた。多分何時までも出来る仕事ではないのだ。だが人数は減りすぎることも多すぎることもない。無理に秘書を見つけなくても誰かが辞め、補充される。
 まあ……
 辞めても関わりは皆あるが……
 好きな道を選べた人間はそれで良い。選べなかったらここにいたらいい。生きることに無理な選択はしなくていいのだ。
 そういう方針であるはずなのだが……
 恵太郎だ。問題は。
 はあ……
 気になって仕方がない……
 真下はチラリと時計を確認して腰を上げると、様子を見に行くことにした。起きていたらさっさと寝るように言えばいいのだ。
 何となく真下は嫌な予感がしていた。それもあったのだろう。
 その頃、恵太郎は、毛布の中でまーちゃんを抱きしめたままブルブルと震えていた。
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