「日常の問題、僕の悪夢」 第1章
もうすぐ夏がやってくる。
とはいえ、気温はまだそれほど高くなく、頬に当たる風も清々しい。昼食時にはみな外に繰り出し、思い思いの場所で弁当を広げたり、朝あわただしく買ったであろう、パンなどを、路上に設置されている自動販売機から手に入れた缶ジュースで流し込む。
いいニュースなどほとんど無い昨今だが、それでもほっと一息つける時間に、人々の表情も緩んでいた。そんな中、がらんとした捜査一課で、まるで宿題を解くことを忘れた生徒のように一人机にへばりつき、報告書を書いているのはトシだった。時折、羨ましげに外を眺め、ため息をついては、ボールペンを走らせる。
珍しく……というより、あまりにもためすぎた報告書を少しでも完成させようとしていたのだ。いつものごとく、リーチは花畑でゴロゴロとしており、手伝おうという「て」の字も口にしない。腹立たしいと思いつつ、リーチに任せるとひどい報告書ができあがってしまい、結局トシがやり直すことになるのだ。面倒くさいのだが、後々、二度手間になることを考えると、やはりトシが担当するのが一番なのだろう。
ただ、トシが不公平だと頭の隅で思っているだけだ。
「隠岐~!買ってきてやったぞ」
同じように報告書を書いていた篠原が、先程あまりの空腹に耐えかねて、食堂に食料の調達に向かったのだ。混んでいたのか、出ていってから三十分も経っていた。
「済みません……。ところで篠原さん。随分、時間がかかったんですね。混んでたんですか?」
「え、あ。ちょっと同期から電話もらって……くわしいことを聞いてきたんだ。後で話すから、先にどれにするか決めろよ」
真向かいの席に座り、篠原は牛肉弁当と、ハンバーグ弁当をこちらに見せた。トシは迷うことなくハンバーグ弁当に手を伸ばした。
「こっち、頂きます」
「やっぱ隠岐はハンバーグだったな……」
なんだか嬉しそうに篠原は言って、茶の缶を机に置いてくれた。
「済みません。篠原さんにお願いしちゃって……」
「……つうか、隠岐の報告書の方が多いからな」
篠原の丸い瞳が、哀れみの色合いを帯びた。
「……自分でも、どうしてこんなにためていたのか……分からないんです」
はあ……と、ため息をついて、トシはプルトップを開けた。だが、この日に限ってプルトップのアルミが上手い具合に開けることができずに、指先に傷を負った。小さな切り傷だったため、チクッと針が刺したような小さな痛みが伝わっただけであったが、つうっと伝わった一筋の血が、篠原を慌てさせた。
「隠岐っ!血、血が出てるっ!」
血など見慣れている筈の篠原が大騒ぎしながら、机にあったティッシュを掴んでこちらに差し出してくる姿にトシは笑いが漏れた。
「笑ってる場合かって……」
「こんなの、舐めたら治りますよ。大げさなんだから……」
指先を口に含んで、篠原の方へ向けると、手首を掴まれた。
「あーもう……どうして隠岐は、こう、犯人を追いかけてるときと普段の差が激しいんだろうなあ……。ぼけっとしてる場合じゃないっての」
小言でも言うように、篠原はブツブツ言いながら、どこからか取り出したテープを傷口に巻いた。いつもこの調子で、仕事を離れるとこんなふうに利一の面倒をみてくれている。本人は放っておけないと言うのだが、意外に世話焼きなのかも知れない。
「ありがとうございます」
「さっさと食えよ。食ったら報告書を書き上げなきゃならないんだからな。ていうか、お前の方が多いんだからもっとこう、必死になってもいいんじゃないのか?へらへら笑ってる場合じゃないぜ」
チラリとトシの机に置かれた報告書を眺めて、自分のものでもないのに篠原はため息をついていた。
「分かってますよ。せめて半分くらいまでは仕上げて、地取りに戻ろうと思ってますから……」
先程もらったハンバーグ弁当の蓋を開け、トシは割り箸を割った。ハンバーグのソースの香りが周囲にふんわりと漂い、食欲が出てくる。
「俺は牛肉弁当だ。どっちも旨そうだったから悩んだんだけど、あとでそっちもちょっと食わせろよ」
「分かってますよ。それで、小耳に挟んだことって何ですか?」
ふと先程のことを思いだし、トシは聞いた。
「あ、そうそう。幾浦恭眞って言ったら隠岐の友達の幾浦恭眞だよな?」
弁当の蓋を脇に置きつつ、何か思い出すように篠原は視線を彷徨わせた。
「ええ。そうですけど。篠原さんもご存じですよね?」
「そうなんだけど。所轄にいる同期から妙なことを相談されたんだ」
箸を割り、焼き肉を掴んで篠原は口に運ぶ。
「妙なことって?」
ハンバーグを箸でつつきつつ、トシは幾浦の名前が出たことで食べることに集中できなくなっていた。
「なんでも、ストーカーにつきまとわれているらしくて、所轄に相談に訪れたんだってさ。もちろん、警察も一応は対応マニュアルはあるけど、ほら、ああいうのって明確な基準が無いだろ?どの辺りで介入するかっていうさ。それで、幾浦さんの対応をしたのが、俺の同期でね。そいつ、先輩や上司に聞いたらしいんだけど、ストーカー自体どっちが悪くてそうなったのかっていうのは二人の問題だから分からない部分もあるだろ?男女の仲なんてほんと、他人には分からないことも多いし、デリケートな問題だからさ。それで、お前が対応したんだから、お前が面倒見ろって、突き放されたらしくて困ってるんだってよ。で、こういうのはどうしたらいいんだ?って俺のところに電話してきたんだ。まあ、偶然幾浦さんの名前を聞いて俺の知ってる人なのか分からなかったんだけど、あの名前は珍しいから同姓同名の別人じゃないだろう?」
篠原は、器用に焼き肉を食べながらも話した。だが、トシからすると初めて聞くことで、幾浦からそんな相談をされたことは無い。先週はリーチのプライベートであったから、言い出せなかったのかも知れない。
とはいえ、警察に相談に行くくらいならどうして先に相談してくれなかったのだろうかとトシは少しばかりムッとした。それとも、幾浦自身に後ろ暗いところがあって、トシに話せなかったのだろうか。
「多分、あの幾浦さんだと思います。でも私は聞いてませんね」
「そりゃ、隠岐。幾浦さんは見るからにエリートサラリーマンって感じだろ?女関係も結構色々あるんじゃねえの。そういう自分を友達に見せたくない奴もいるだろうし、単に友達付き合いだけの関係だったらすげえ、いい奴でも、異性問題にだらしない奴はいっぱいいるぜ」
エリートサラリーマンと言われたことに、一瞬にやけそうになったトシだが、後半のセリフにムカムカと腹立たしいものがわき上がった。篠原は幾浦を知らないのだから、そんなふうに言うのも仕方ないことなのだろうが、それでも言い過ぎだ。
「言い過ぎですよ。幾浦さんは女性にだらしない方とは思いません」
ムッとしたトシの様子に篠原が肩を竦める。
「まあ、隠岐は友達だからな……。でもなあ、こればっかりは分からないぜ」
「それで。どういったストーカーなんですか?」
やや口調を抑えてトシは聞いた。
「今のところ、問題を起こしている訳じゃないらしいんだけど、無言電話とか、気がつくと視線を感じてるとか……そういうところかな。無言電話も非通知だから相手がその女とは限らないだろ?他の女かもしれないしさ~。もっとも、この程度じゃ警察も動けないよな。まだ、相談者が女性なら変わっただろうけど。こういうの、男の方からの相談は滅多にないし、だから同期も困ったんだろ」
「対応の差があるのも変だと思いますが」
腹立たしいが表情に出すわけにもいかず、トシは平静を保って淡々と言う。
「ほら、女性の場合はひどい場合、無理心中までやらかす男がいるからな。逆で考えた場合、もし女性が無理心中を図ろうとしてもやっぱり男の力には負けるだろ?まあ、どっちらにしても思いこんだ人間は何をするか分からないからこればっかりは単純に言えないとは思うけど」
「無理心中って……」
「行き着くところまでいった場合だろ。いくつかそういう事件があって、警察が散々つるし上げられたじゃないか~。もっと早く対応してやってくれたら~って言って。でも俺達は民事不介入って法律があるから、こういうデリケートな問題に首を突っ込むの難しいんだよな。こういっちゃなんだけど、先に法の整備をして、もっとこう、一般問題にも対応できるように警察官を増やしてくれなきゃ、今の人数じゃあ、マジで対応できないっていうのも分かって欲しいと思わないか?」
昨日、篠原は警察に単に文句を言いたいだけの中年男性からの電話の対応を偶然したたせいか、妙に腹を立てていた。昨日のことを思いだしているのだろう。
「それは、私たちがどうしようもないことですから……そうではなくて、幾浦さんが相談に行かれるくらいですから、余程目に余るようなことがあったのではないでしょうか」
トシが気になったのはそこだった。
幾浦は、それほど気弱なタイプではない。警察に行くくらいだから、なにかもっとこう、気味の悪いことか、もしくは相談せずにはいられなかった何かがあったはずだ。
「さあ……途中で電話が切れたからな。それこそ、お前が相談に乗ってやれよ。友達なんだろ?まあ、向こうはお前が刑事だってこと知ってて何も言わなかったんだろうから、ちょっと嫌な気分にさせるかもな。ほら、隠したかったことかもしれないしさ」
またニヤニヤとした表情に戻った篠原は、きっとトシには想像もできない妄想を抱いているに違いない。
「分かりました。そうします」
ブスリとハンバーグに箸を突き刺して、話はこれで終わりというふうにトシは切り上げるように言った。だが、篠原は食べることに専念して会話は中断したのだが、後ろでうずうずしていたリーチが口を開いた。
『わ~幾浦ちゃん。なあに悪いことを隠れてやったんだろうな~』
もう、これでもかというほど嬉しそうにリーチは言う。ずっと暇だったのもあって、何かネタを探していたリーチだ。それこそ黙っているわけなど無いだろう。
『五月蠅いな。恭眞が悪いことしたとは限らないだろ。女性の方に問題があるかもしれないんだから……ううん。多分、そうだよ』
言えば言っただけ反論されるのは分かっていたが、返さずにいられないのもトシだ。
『え~。だって、それなら普通トシに相談するよな?でもお前に知られたくないから黙っていたんだろ。あの、根暗』
『……根暗じゃないよ。もうっ!そんなの関係ないだろ。それより、先週はリーチのプライベートだったから、相談できなかったんだよ。今晩、きっと相談してくれる』
今週からトシのプライベートだ。大きな事件さえ入らなければ、夕方幾浦のマンションに向かうことができる。きっと、今日相談しようと幾浦は考えてくれているに違いない。そう思うことでトシは気持ちを落ち着けた。
『あいつは、女にだらしない奴だからな。ほら、以前俺達があいつの会社に潜入捜査したとき、他の女ともめてたぜ。あ、そうそう、あいつ、打たれたんだよな~』
益々嬉しそうにリーチは言う。
『……あのときはまだ恭眞と僕は付き合ってなかったからいいんだよ』
モグモグと口いっぱいにハンバーグをほおばり、トシはリーチに言った。だが、だんだん不安になってくるのは否めない。警察に相談するくらいだ。余程のことがあったのだろう。だったら、真っ先に自分にトシは相談して欲しかったのだ。
確かにリーチのプライベートの時に連絡をするのは反則だが、それも時と場合による。気を使われたのか、知られたくなかったから連絡しなかったのか。どちらにしても、トシからすると不安材料にしかならない。
『うわっ!からかっただけだろ。本気じゃねえよ。泣くなっ!』
『泣いてなんか無い……』
トシがそう返したのと同時に篠原は言った。
「隠岐。香辛料きつかったのか?」
不思議そうにこちらを見つめている篠原に、トシは無理矢理笑みを浮かべて「そうなんです」と言って浮かんだ涙を拭った。