Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第5章

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「……ねえ、恭眞。僕の働いているところはどこ?」
 じ~っと幾浦の方を見つめながらトシは聞いた。
「警察だろう?」
 チラリとこちらを見て幾浦は今更なにを聞くんだという表情になる。
「警視庁だよ」
 訂正するようにトシは言う。
「それで?」
「所轄の情報って上に上がってくるんだ。だからね。恭眞がどういったことを相談したのか、僕、聞いてるんだよ。心配させたくなくて、恭眞が僕に黙ってるんだと思うけど、僕、そういうの嫌だよ。だって、知ってしまったんだから、恭眞の口から教えて欲しいって思うの、恋人だもん。思うに決まってるよね?」
 隠されたことにショックを受けながらもトシは言った。もちろん、幾浦がトシに心配を掛けたくないと思っているからこそ黙っているのだと思うが、別の意味で話したくないと考えている可能性もある。後者はあまり当たって欲しくない予想だったが、トシは幾浦を信じたかった。
「……そうか」
 幾浦はそれだけを言ってトシから視線を逸らせると、煙草を吸って吐き出した。ここまで言っても話すつもりがないのか、それとも誤魔化せるいい案を考えているのかトシには分からなかった。
「……ね、黙らないでよ……」
 不安になったトシは思わず幾浦の手を掴んで引っ張っていた。
「ああ……」
 だが、それは生返事でトシの言うことなど耳に入っていない様子だ。
「あの……あのさ。もし、恭眞が今トラブルを起こしている女の人と、実は昔なにかあってもめてたとしても、僕、驚かないし、ショックもないよ。だって、恭眞はもてたみたいだし、その……僕はそういうのなかったけど、恭眞は僕以外の人ともおつきあいがあったから……。恭眞みたいに格好いい人だったら、昔別れた人で……その、恭眞のこと忘れられなかった人もいたかもしれない……」
 言いにくいのだがトシは、ボソボソとそれでもなんとか思っていることを口にした。過去、どういった付き合いがあったとしても、それは仕方のないことなのだ。自分の付き合っている相手は、仕事もできるし、顔も格好いい。そういう男性を放っておけない女性も沢山いただろう。そして、なにより、トシと出会う前、いろいろとあったとしても、ごく普通のことだ。
 普通ではないのはトシかもしれない。
「……はっ?」
 幾浦はようやくトシの方を向いて、目を見開いていた。トシの言ったことに驚いているのか、それとも図星を指されて都合が悪く、誤魔化そうとしているのか分からない。
「……いいよ。もう。分かった。恭眞は、昔付き合った人にひどいことをして、恨まれてるんだね。だから僕に話せないんだ。でもね、リーチは、どう考えても恭眞より悪いことやってたし、女の人もいっぱい泣かせたけど、雪久さんはそれを全部知って、つきあってるんだよ。僕だって、恭眞の過去に腹を立てたり、だからって、もう、恭眞なんて嫌いだ……なんて言わないよっ!なのに、言えないって、それって、僕のことこれっぽっちも信頼してくれてないってことだよね」
 トシは起きあがって、見下ろしながら幾浦に怒った。滅多にこういう声を上げないのだが、こればかりは放置できなかったのだ。付き合ってもう随分になる。なのに、幾浦は過去を隠していることに腹立たしく思う。トシは全部幾浦に話したはずだ。ならば、どれほど嫌なことであっても、それは全て過去なのだから、トシは知りたいと思うし、幾浦のことだから知っておきたい。
 どれだけショックを受けても、この気持ちは変わらないだろう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。頼む……リーチと一緒にだけはしないでくれないか?」
 リーチが聞けば、蹴りの一つでも入りそうなことを幾浦は口にした。幸いリーチはスリープ中で、心配することはない。
「……じゃあ、ちゃんと話して。教えてくれなかったら、そう思うからね」
 口を尖らせると、幾浦はもう一本煙草をくわえて苦笑した。
「実は……下に越してきた女性と、このマンションの住民がもめてるんだよ……」
「え、なにそれ?」
「……まあ、はっきりとその人だとは言えないんだが……。持ち回りで、今年私はこのマンションの役員になっていてね。いや、住民の代表者というやつなんだ。大抵、月に一度住民が集まって、まあ、こう言うところを直して欲しいとか、管理人から伝えられた水道管の工事がこういう風に行われるという、回覧板に書かれているようなことを伝える会合があるんだよ。一応、サラリーマンや一人暮らしの人間は避けてもらえるんだが、ほら、うちは犬を飼っていて、無駄ぼえはしないが、こういう付き合いをしていると、多少吠えても相手を知っているだけに許してくれるんだ。それで、問題が起きているのは下に今度越してきた女性で……まあ、管理人に文句を言えばいいのに、会合があるたびに私に詰め寄ってきてね。彼女とは決められないんだが、あちこちで、被害が出ているらしくて……。それで、こういう場合はどうしたらいいのかと警察に相談に行ったんだよ。管理人は老夫婦で、うちのアルを出張中は預かってもらっているし、随分とお年だからそういう細々したことを私から苦情として言いにくいんだ。もっとも、管理人の息子さんが実際の経営をしているらしいんだが……会ったことはないしね」
 一気に話し出す幾浦なのだが、トシにはよく理解ができなかった。越してきた女性のことはわかった。幾浦が今年住民の代表になっているのも、どうして代表になったのかもわかった。だが、それなら隠す必要などない。
「……あのさ。恭眞の言うこと分かるんだけど……どうして僕に隠そうとしたの?だって、そんなの、別に隠す必要なんてないでしょ?」
「……あ~……。その女性なんだが……ちょっと悪質でね。尻尾を掴ませてくれないからこっちも困っているんだ。集会で会うだろう?そうすると、こう言われる『幾浦さんのお宅にはよく男性が出入りされてますね?朝方よく出てこられますけど、仲がとてもよろしいこと』とね。……なにをどう知っているのか聞けないが、なんとなく嫌なものでも見た……という表情をするんだよ。こういうことをトシが知ると嫌だろうと思って言えなかった」
 頭を掻きながら、幾浦は困ったように言った。確かにそう言うことを聞かされて気分がいいわけなど無い。なにを知っているのか聞かなくても、多分、想像していることは間違っていないのだろう。
「……そ……そうだったんだ。……ごめん。僕の所為だよね。あの……今度から僕、夜のうちに帰るよ。そうすれば、迷惑にならないよね?」
 付き合い当初の頃は、泊まることがほとんどなかったが、幾浦がそのことで渋ったために最近はよく朝までここで過ごすことが多いのだ。それが一体どういう問題を引き起こすことになるのかは考えたことがなかった。
 なにより、リーチは名執のマンションに自分のプライベートの時はほとんど居座っていて、まるで自分のうちのように暮らしているために、トシも別段おかしいことだと思わなかった。だが、よくよく考えてみると、名執のマンションはプライベートを優先するもので、大変厳重な管理下に置かれている。
 間違っても泥棒が入らないよう、警備員も配備されていて、鍵も特殊なものを使っていた。買い取りのマンションだそうだが、管理費だけでトシたちの給料をまかなえるほどなのだ。そういったマンションであるから、住民同士顔を合わせることもほとんどないと聞いているし、ならば、会合など絶対にないにちがいない。
「……ほら、やはりそう言うだろうと思った。だから、話さなかったんだ。私は別に構わないんだが、トシが警視庁というお堅い職業なのがばれると、あの女性がなにをしでかすか分からないだろう?それで、先に警察に何とかしてもらおうと思っていたんだ。もっとも、あの女性は、私がトシと付き合っているから気に入らないのではなくて、私がいま、住民の意見をまとめる役をやっているから、牽制してきているんだろう」
 ふうとため息をついて幾浦は言う。
「……ごめん。そうだよね。僕、そういうの聞いたら、じゃあ、帰る……って言っちゃうよ。だって、これって、恭眞に迷惑がかかることだもん。僕……恭眞に迷惑だけはかけたくない……」
 幾浦が例え、構わないと言っても、トシは頷けない。今まで軽率すぎたのだろう。最初はあれほど気を配っていたのに、最近は本当に気にしなくなっていた。男同士で付き合うのだから、細心の注意を払うべきだったのだ。
 リーチと名執はまた住んでいる場所も、状況も違う。彼らを見ていて同じようにしたいと思っても、環境が整っていないところでまねをしてはならない。
「だから……っ!……言いたくなかったんだ」
 ムッとした顔で幾浦はまた煙草を一本取り出してくわえた。
「でもね、恭眞。これって本当に大切なことだよ。僕の立場が……ってそのことで嫌だっていってるわけじゃないんだ。ここは本当に普通のマンションだし、いろいろと噂が立つと嫌な思いをするのは恭眞だから……」
 好きな相手に迷惑を掛けたくない。それがトシの信条だ。
「……いや。今まで通りで良いんだ。人のプライベートにまで口を挟む権利などないだろう。彼女は……、まあ、彼女がやったとは言い切れないんだが、四階だったかな……そこの新婚夫婦に最近、赤ちゃんが生まれたんだよ。まあ、赤ちゃんだから仕方ないんだが、夜泣きがひどいらしくて……うちにまで聞こえはしないし、このマンション自体かなりの防音をされているんだが、五月蠅いから黙らせろと詰め寄るんだ。隣の住民から聞くと、ああ、泣いてるなというくらいのものなんだが、彼女は気に入らない。私が、赤ちゃんだから仕方ないと話しても、一向に聞かない。文句を言わなくなったと思ったら、新婚夫婦が表に出していたベビーカーが突然なくなってね。探したらどこから出てきたと思う?」
「……え。どこ?」
「近所の川に捨てられていた。目撃者はいないんだが、彼女しか考えられないだろう?ぞっとしたよ……。まあ、他にもいろいろあって、住民も困っているんだが、一番困っているのは私だと言うことだ」
 トシにも理解できない。思わず背筋にヒヤリとしたものが走った。
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