「日常の問題、僕の悪夢」 第23章
「恭眞?ちょっと……寝てる場合じゃ……」
慌てて起こしそうになったトシを名執が止める。
「麻酔がまだ効いているのですよ。本格的に意識を戻されるにはもう少しかかるでしょう。トシさんのお気持ちも分かりますが、幾浦さんには休息が必要です」
「え、あ、うん。そうですよね。済みません。気持ちが焦っちゃって……」
深く息を吸い込んで、やや浮いた腰を椅子に下ろす。先程幾浦が呟いた言葉が、とても大切な内容に聞こえたからにちがいない。いや、事実そうなのだろう。
幾浦は何かを知っているのだ。
「そういえば、この事件はトシさん達が担当されているのですか?」
名執は話題を変えるようにやんわりと言った。
「爆発物が絡んでいるので火災犯と特殊犯捜査三係が担当しています。所轄の刑事は知ってるんですが、彼らとはちょっと顔を合わせるのは……その。今晩のことで本店……いえ、警視庁から大量に派遣されたはずですし……その、課が違うので本来は首を突っ込むわけにはいかないんですが……」
「やはりそうですか。幾浦さんにお話をうかがいたいとちょっと強面の刑事さんが数名受付でウロウロされています。面会謝絶を言い渡しておきました」
名執はクスリと笑った。
「うわ……顔を合わせると僕、困ったことになるところでした。良かった……」
今晩のことは幾浦が友人だから心配だと話し、所轄の瓜並に話して捜査に参加させてもらったのだ。が、南があんなことになるとは予想もつかなかった。
「同じ捜査一課でも課が違うと喧嘩になるのですか?」
首を傾げて名執は不思議そうに聞いてきた。
「そう言う訳じゃないんですが……いろいろと」
苦笑いをしつつ、トシは誤魔化した。
仲が悪いわけではないが、やはり自分達の事件に他の課が関わっているのを見られるとあまりいい顔をされないのだ。もっとも、トシの場合、幾浦が友人であるため、適当に誤魔化せるのだろうが。
「どのくらいで麻酔から完全に覚めるんですか?」
「そうですね……一時間もすれば意識もはっきりするでしょう。下の刑事さん達には明日にしてもらいますから、トシさんは今晩こちらに泊まって行かれたらどうですか?簡易ベッドをご用意させますよ。本来は付き添いは認めていませんが……例外的に許可します」
布ズレの音すらさせず、名執は立ち上がった。
「いいんですか?」
「ええ。構わないですよ。でも本来のお仕事は大丈夫なんですか?」
病室の扉に手をかけて、名執は肩越しに振り返る。
「……大丈夫じゃないんですけど……今晩はここにいます」
携帯の電源を落としているために分からないのだが、警視庁からは戻れと指示が出ているのは確実だ。だが、トシは幾浦を一人にしたくなかった。幾浦が目覚めたとき、トシが側にいたい。
名執の方は、トシを見てもう一度微笑み、それ以上何も聞かずに出ていった。しばらくすると田村がやってきて軽く挨拶を交わすと、幾浦のベッドと平行に簡易ベッドを設置した。田村は去り際にキャビネットの上にある小さな電灯を付けると、部屋の電気を落とした。
トシは小さな灯りだけが部屋を照らす中、一つ息を吐いてからベッドに腰を下ろし、幾浦の寝顔を眺めた。もしかすると幾浦は目覚めることなく朝まで眠り続けるかもしれない。それならそれでいいだろう。酷い怪我ではないと聞かされていても、幾浦が無事であることをトシは、響く小さな呼吸音に耳を澄ませ、何度も生きていることを確認しては、安堵する――という行為を繰り返していた。
「恭眞……本当に良かった……」
幾浦と会い、食事に出かけたり、映画を見るという付き合いが日常的になっていて、それがいつまでも続くものだと錯覚していた。だが、こういう非日常なことに巻き込まれることもあり得るのだ。そう考えると、今まで過ごしていた、ごく普通の時間がとても貴重に思えて仕方ない。
大病を患うことなく、事故に遭うわけでもなく、無事に一日を終える。それがいかに素晴らしいことか、トシは再確認したような気がした。
幾浦の寝顔を見るために、トシは簡易ベッドから腰を上げ、もう一度ベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。何事もなかったような表情で眠る幾浦を何時間眺めていても飽きない。白熱灯の柔らかな灯りが、幾浦の彫りの深い顔立ちを浮き立たせていて、何故かトシは頬ずりしたい気持ちに駆られた。
「……トシ?」
薄く開いた瞳がトシを見つめていた。トシが惚れた切れ長の、思慮深さが漂う漆黒の瞳だ。
「そうだよ」
トシの言葉に幾浦は手を伸ばして頬に触れてきた。
「なんだか嬉しいな。目が覚めるとトシがいてくれる……」
幾浦は笑顔でそう言った。
「僕がもっと早くに気付いていたら……こんなことにならなかったのに……」
気を張っていて、忘れていた涙が頬を伝う。
「いや。あの暗闇じゃ仕方ないだろう。それに、大した傷じゃないんだろう?痛みもほとんどないし、ここはICUじゃない」
本来はトシが力づけてやらなければならないのに、幾浦の方がトシを気遣ってくれている。トシはそれが心苦しくもあり、嬉しかった。
「雪久さんが言ってたよ。小さな破片が刺さっていただけで、輸血も必要なかったって。だから以前と同じように元気になれるよ」
その言い方が可笑しかったのか、幾浦はしばらく笑っていた。
「……可笑しかったかな……」
「いや。そうだな……笑うことではなかった」
トシの頬から手を離し、幾浦は目を細めた。
「もう遅いから眠った方がいいよ。僕は朝まで側にいるから」
「何時頃なんだろうか?」
幾浦が身体を起こそうとするのをトシは押し止めた。
「もう十二時過ぎてる。だからこのまま朝まで眠って」
聞きたいこと、話したいことは山のようにあるが、明日でも良かった。先程は焦って幾浦に問いただそうとしたが、あれは間違いだったとトシは反省していたのだ。染みついた捜査官としての本能が、無茶をさせようとしていたのだろう。
「そうだな……確かに頭はぼんやりしていて、眠くて仕方ない……」
目を擦り、幾浦は天井を向いて密やかに息を吐いた。
「きっとクスリの所為だよ」
「そういえば南はどうなったんだ?助かってるとは思えないんだが……」
「うん。駄目だったみたい。そんなことを雪久さんは言ってた」
「そうか――」
幾浦は目を閉じて何かを考えるように、しばらく沈黙をする。
「恭眞。もう、本当に寝た方がいいよ。嫌でも思い出さなくちゃならなくなるし」
トシの言葉に幾浦は目を開ける。
「トシが事情聴取してくれるのか?」
「したいのは山々だけど、管轄が違うからきっと別の刑事がやってくると思う。いろいろ聞かれるだろうから覚悟しておいた方がいいよ」
意地悪そうに言うと、幾浦は肩を竦めた。
「勘弁して欲しいな。事情聴取はやたらと同じことを繰り返して確認を取られるから、頭が痛くなるんだ。ちいさい頃は、刑事ドラマの影響で事情聴取をされてみたいと思っていたがね。一度体験すれば二度と体験したくないものだ。もっともする側も疲れるだろうがな」
からかうようにそう言う幾浦に、トシは思わず笑顔になった。
「うん。する側も大変だよ。刑事ドラマの影響で、カツ丼が出るのかとか、田舎のお袋さんが泣く……なんてことをやるのか?なんて聞かれるもん。そんなの今時の警察はしないよ」
「カツ丼か……そんなことを聞いてみるのも楽しかったのかもな。よし。次はそれでいこうか?」
意外に真面目な顔で言う幾浦にトシは慌てた。
「それ、聞くのって犯人だからね。恭眞は巻き込まれただけなんだから、事実だけを話せば良いんだ。でも、きっと疑われるだろうな……南さんと何か関係がありましたか――なんて」
「苦情をあれだけ警察に訴えていたのにか?」
目を丸くさせて幾浦は言う。
「警察ってそんなところもあるから……」
トシの言葉に幾浦はため息をついた。この件に関してはうんざりしているという様子だ。
「仕方ない……最初から説明するしかないだろうな。ところで、トシ」
幾浦は何故か毛布の端を掴んで持ち上げる。
「なに?」
「どうせ、朝までいるのだろう?少しばかり一緒に横にならないか?」
「……えっと……それは無理」
抱きしめられたいと思いつつ、場所が場所だけにトシは躊躇していた。
「少しだけだ。こんな状態だから、思いきり抱きしめることはできないが、……不思議なことに、今、トシに触れて自分が生きていることを実感したい。どうせ誰も見ていない」
その言葉にトシは照れを誤魔化すように一つ咳払いをして、相変わらず毛布を捲っている幾浦の隣へ、スリッパを脱いで身体を横たえた。消毒液の香りが鼻をつくが嫌な臭いではなかった。負担にならないよう幾浦に手を回すことなく、トシは胸元にすり寄る。幾浦の方はトシの背に手を軽く回した。
「なんだか……ホッとするよ。こう、神経が張りつめていた状態だったからな」
頬を擦りつけながら囁く幾浦に、トシは目を細めた。幾浦が生きていることを実感でき、胸の内にあった不安が氷解していく。
「恭眞……僕もホッとした。本当に良かった……」
「そういえば、ふと思い出したことがあったんだ」
突然幾浦はそう言ってトシの顔を覗き込んできた。意識が朦朧としているときに呟いていたことだろうか。
「え?」
「私は南に以前会ったことを思いだしたんだ。あれが会ったうちに入るのかどうか分からないがな」
幾浦は何かを思い出すように瞳を彷徨わせていた。