Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第25章

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『……なんだ?何があったんだ?』
 ベルの音にスリープが解けたリーチが、突然起こされたことで、驚いていた。
「恭眞が南さんとトラブルを起こす、それ以前に出会っていたことを思いだしたんだって。それで……」
 コトリと音がしたような気がしたトシは、弾かれたように扉脇の壁に張り付いた。
『交替しろ』
「う、うん。ちょっと待って。恭眞、動ける?」
 身体を起こして心配そうにトシを見つめる幾浦にトシは声をかけた。
「私は大丈夫だが……」
「僕と一緒に外に出た方がいいかも。ここにいると危険だから」
 そう言いつつもトシは耳を澄ませていた。だがベルが邪魔をして、人の気配を感じ取れない。
『誰かが近づいてきてるな。ここから逃げ出す余裕なんてねえぞ。さっさと替われ』
 リーチだけはベルの音をものともせず、何かを感じ取っていた。トシが主導権を持っていると対応できなくなる可能性がある。早く交替したいのだが、幾浦の安全を確保するのがトシにとって先決だった。
「分かってるよ……リーチ。ごめん、恭眞。危ないから急いでベッドの下に隠れてくれる?」
 扉と幾浦を交互に見比べてトシは慌てて言った。すると、幾浦は何も言わずに、ベッドから下りると、その下へと隠れた。トシがホッと胸を撫で下ろしていると、無理矢理リーチによって主導権を切り替えられた。
 こういう場合はリーチの方が立場が上なのだ。
「さっさと交替しろって言ってるだろ……たく」
 舌打ちをしつつ、リーチは先程まで幾浦が横になっていたベッドの側に近づくと、枕を毛布の下に入れて、まるで幾浦が眠っているかのように形を作った。それが終わると、点滴がぶら下がっていたパイプのついたてを手に取り、一回転させて肩にのせる。
『……それを武器にするの?』
 トシが聞くとリーチは頷く。
『所轄に連絡してる暇はねえからな。どうせならぼこぼこに殴って、とっつかまえる方が早いだろう?俺、苛々してるんだよ。相手が死にそうになったら止めてくれよ』
 リーチは名執と会えない日が続くと、こんなふうに苛立ち、トシですら手に負えなくなる男だ。一週間くらいどうして耐えられないのかと不思議に思う。もちろん、トシも幾浦と会えない日が続くと寂しく思うが、苛々することは皆無だった。
『リーチって』
『……んだよ。文句あるのか?』 
 鼻息荒いリーチにトシは肩を竦めるしかない。
『それより、誰だよ。幾浦を狙うやつってよ。あんなの狙ってもどうにもならねえだろ。物好きな奴がいるんだな』
 パイプを持って扉のところに立ち、リーチは呆れたふうに言う。トシは先程幾浦から聞いたことをリーチに簡単に話して聞かせた。
『……見てねえのに、相手は勘違いしてるって奴か。つか、それなら今までにもぶっ殺せた機会はあったんだろう?それなのに、どうして放置してたんだ?』
『知らない。だって、恭眞はそのことついさっき思いだして、誰にも話していなかったことだし……。もしかすると、犯人はずっと疑心暗鬼になっていて、南さんに恭眞の動向を探ってたのかもしれないよ』
 トシにもよく分からないが、今頃になって幾浦を殺そうと企むのなら、こういう理由しか思い浮かばない。
『……まあ、捕まえたら分かるか』
 ため息に似た吐息をついて、リーチはパイプを構えた。その頃にはトシにも足音が聞こえた。相手は音をさせないように歩いているようだが、小さな音が聞こえるのだ。靴音とは違う、ひたひたという音だった。
『気味悪いな。なあ、トシ、幽霊だったらどうする?』
 からかっているようにも聞こえたが、リーチは緊張している。それが分かるように、一瞬たりとも扉向こうにあるだろう廊下の方を見つめたまま視点を動かさなかった。
『……来るよ』
『分かってる』
 リーチはやや扉から離れ、壁に張り付くようにしてパイプを構えた。暗闇の中、静けさだけが病室を支配している。一分一秒が異様に長く感じられるが、リーチは冷や汗もかいていない。どちらかというと愉しんでいるようにすら見えた。
 足音が扉前で止まった。
 密やかな音だ。だが、確実に聞こえている。
 素人だな……と、トシが考えていると、扉が音も立てずに開けられた。
 黒い影は病室に入り、迷うことなく幾浦が眠っていたベッドに近づいていく。完璧に気配を消している、リーチに気付かないようだ。
「手間をかけさせやがって……」
 男の吐き捨てるような声が響く。
『ねえ、リーチ。やっつけないの?』
 ベッドの側でうろつく男を眺めながら、リーチはぴくりとも動かない。
『ん~。幾浦がいないって分かったときの男の動揺を見るのも楽しいかな~なんて。ていうか、今の状態じゃあ、声をかけたら「病室を間違えました~」って、言うぜ。誓ってもいい。現行犯がいいな』
 リーチは男の様子を眺めながら笑った。
 こういう状態で笑えるのはリーチだけだろう。トシは、冷や冷やして見ているだけでも心臓に悪い。
『……分かるけど。ベッドの下に恭眞が隠れているんだよ。ばれたらどうするんだよ』
 オロオロと言うトシにリーチはフンと鼻を鳴らした。
『ここ、病院だし、刺されたとしてもすぐに手術してもらえるだろう?別に問題ねえよ』
『あっ!』
 男は、ナイフを取り出し、毛布を何度も滅多刺ししていた。だが、手応えがないことに不審を抱き、すぐさま毛布を剥がす。そこに幾浦の姿がなく、枕だけがぽつんと置かれているのを見て、舌打ちをした。
「やはり俺のことに気付いていたか……」
『ねえ、リーチ……もういいと思うけど……現行犯逮捕できるよ』
 ベッドの下にいる幾浦が心配だった。ナイフの刃が厚みのあるスプリングを突き抜けたとは思わないがそれでも異様な音に震え上がっているかもしれない。
『なあ、トシ、どう思う?』
 男はキョロキョロと見回して何かを探すような仕草をしている。にもかかわらず、扉近くの壁に立っているリーチに気付かない。
『質問してる場合じゃないだろっ!早く捕まえてよっ!』
 トシの剣幕とは裏腹に、リーチは呑気に言った。
『幾浦、怖くてベッドの下で失禁でもしてたりしてな……』
 なんだか嬉しそうだ。
『悪趣味なこと言ってないで、さっさと捕まえてよっ!』
 キーッとトシが怒鳴ると、リーチは渋々と言う様子でパイプを持ち替えた。その気配に気付いた男が振り返る。
「そこにいたんだ……」
 暗闇が邪魔をして、男は勘違いしていた。
「そうですね。何処のどなたか存じませんが、こんな夜遅く夜這いに来られると安眠できなくて困ります」
 リーチが答えると、ようやく男は自分の目の前にいる人間が幾浦とは違うことに気がついたようだった。
「お前……誰だ?」
「貴方こそ、どなたです?手に物騒なものを持ってらっしゃいますが……」
「果物でも切ってやろうと思ってな」
 とぼけたような男の声に、リーチは笑って見せた。
「そうですか。でも、果物はここにありませんが……お持ちになるのをお忘れになったのですか?」
「まあね」
 なんだか……変だ。
 リーチは気付いているのかどうか分からなかったが、ベルは先程から鳴りっぱなしだった。ナイフを持っているだけでこれほどけたたましくベルが鳴るとは思えない。
『リーチ……変だよ。ナイフだけでベルが鳴り続けてるとは思えないんだ……他に何か持ってるかもしれない』
 緊張しているトシの声に、リーチはあっさりと答えた。
『腹に、爆弾抱えてるぞこいつ。人間爆弾になるつもりかもしれないな……。窓から突き落としても問題は解決しねえし……』
『なっ……分かってたの!だったら、相手を煽るのやめてよっ!』
『煽ってねえよ。ん~どうすっかな。ぼこってもいいけど、どういう装置で起爆するのか分からない状態でできねえし。殴った拍子に爆発かまされるのは勘弁して欲しいしなあ……』  
 トシが慌てている中、リーチは何故かぼんやりとそう言った。
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