Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第7章

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 翌朝、祝日なのもあり、朝早く恭夜に連絡を入れた幾浦は、トシと共にマンションからやや離れたところにある公園で待つことにした。いつもと様子が違う二人にアルは顔を交互に見つめながらも、どうしようもないことを理解しているように身体を伏せる。
 そんなアルの仕草を見つめてトシは可哀想になってきた。もし、自分の仕事がもう少し決まった時間に仕事を終えられるようなものであったら、迷わずトシがアルを預かったに違いない。とはいえ、トシのコーポでは動物などとても飼えるわけもなく、恭夜に頼むしか方法はなかった。
「あ……来たな」
 恭夜が公園の通りを歩いて待ち合わせにして置いた噴水のある広場にやってくるのが見え、幾浦は立ち上がる。
「兄貴……勘弁してくれよ……」
 どこか迷惑げな様子で恭夜はアルの方をチラリと見る。アルの方も恭夜が気に入らないのか僅かも尻尾を振らない。
「こう言うときに力になってくれるのが兄弟というものだろう。お前が日本に帰ってきたとき誰が面倒を見てやったんだ。どうなんだ?」
 恭夜の態度に幾浦が腹立たしそうにいう。
 こうやって並んでいても、あまり二人の顔は似ていない。兄弟だと聞かされて初めて、いわれてみればそうなのかな……とトシが思うくらいだ。随分前に聞いたことだが、幾浦は父親に似ていて、恭夜は母親に似ているらしい。しかも、年齢は三歳しか違わないのだが、幾浦は瞼が一重で、かなり大人びた顔立ちをしていて、恭夜の方は二重で若干目が大きく見え、兄のようなクールな目つきではない。
 全体的にまだ遊び足りない学生のような風貌が恭夜にはあるのだ。歩き方もどこか気怠げで、しゃきしゃきとした動きはない。その上、背が低くて目がぱっちりと可愛いわけではない。かといってちゃらちゃらしているわけでもなかった。
 恭夜が定職についているように見えないのは、やはり茶色に染めた肩までの髪を左右で分けて流し、むら染めのシャツにだぼだぼのジーパンという服装と、持っている雰囲気からそう感じるに違いない。とても、科警研というお堅い研究所に勤めているようにトシからは見えなかった。
「そうだけどさあ……俺が一人で暮らしてたらよかったんだけど、ほら、ジャックがいるだろ?あいつにはまだ聞いてないけど、どう考えても動物が好きなタイプには見えないんだよな……ていうか、あいつがペットを可愛がってる姿を想像できるか?」
 恭夜は気怠げにポケットに手を突っ込んでシガレットケースを出し、煙草を銜える。
「お前が説得すればいいだろう。おい、まだ話してないのか?」
 今朝、幾浦は随分電話口で恭夜にアルのことを頼んでいたのだ。頼むという穏やかなものではなかったが。
「話すもなにも……あいつ、今留守だからな。突然出ていって突然帰ってくるから、いつあいつが帰ってくるかしらねえよ」
 煙草に火をつけて恭夜は肩を落とすように軽く竦めると、面倒くさそうに煙を口から吐き出した。
「……いつ、聞いてもお前たちの関係には理解しがたいものがあるな。帰ってくる日くらい連絡があってもいいだろう」
 眉を顰めて幾浦は腕組みをした。だんだん、当初の話からずれていることに二人とも気がついていないのだ。とはいえ、兄弟同士の話にトシが口を挟むわけにもいかず、はらはらとしながら二人の会話に耳を傾けていた。アルの方は聞く気もないのか、寝たふりをしている。
「んなの、あいつの仕事が特殊だからしかたねえだろ。立てこもってる奴がいつ改心するかなんて、ジャックにも分からないだろうし。ま、俺はこのまま帰ってこなくても全然平気だけどな。気楽でいいぜ」
 ははと、笑って恭夜は本気とも冗談ともつかない顔で言う。
「それこそ好都合だろう。あの男が留守なら、こっちもアルを安心して預けられる」
「……あのさあ、俺、動物飼ったことねえの、兄貴も知ってるだろ。ていうか、こんな無知な俺に預けようって思う兄貴も兄貴だよ……」
 煙草を口の端に銜えたまま、恭夜は頭を掻いた。確かにその意見にはトシも賛成だ。だが、預けられる相手がいないのだから仕方ない。
「飼い方はざっとメモに書いてある。一番問題なのは毛繕いだ。いいな。一日二回は櫛を通してやってくれ。でないとあのふさふさの毛はすぐに毛玉になって皮膚病になるからな。面倒くさいなら、毎日動物の美容院に連れて行ってやってくれ。行きつけがあるから、住所と会員カードも袋にいれてある。いつもと様子が違ったら病気かもしれないから、動物病院のカードもいれてあるから、何かあったら私の携帯に電話をくれたらいい」
 まくし立てるように幾浦が話すと、恭夜はげんなりした顔をトシに向けてきた。トシはとりあえず笑って見せた。
「だからさ……俺、無理だって……」
 長いすの隣に設置されている灰皿に煙草を押しつけながら恭夜は相変わらず顔を縦に振らなかった。確かにトシも恭夜の気持ちが分かる。動物を飼ったことのない人間はそれだけで不安なものだ。しかも自分で飼うと決めたわけではなく、預かって欲しいと言われるとなおさら不安になるだろう。
「アルは毛繕い以外、手間がかからない賢い犬だ。餌を朝晩やればそれでおとなしくしている。ああ、できたら日に一度は散歩に一時間ほど連れ出してやってくれ。無理なら一度でもいいが、あまり散歩に連れ出さない日が続くとストレスがたまって、毛艶も悪くなるからな」
 幾浦は相変わらず恭夜に預ける気満々だ。
「……げえ、そんな、なげえ、散歩に出られるわけねえだろ……」
「検査ばかりしているような生活だと運動不足になるだろうが。お前にとってもいい運動になるだろう」
「……そんな運動なんてしなくてもよ……いや、なんでもない……」
 はあとため息をついて言葉を濁した恭夜のいわんとしていることが、説明されなくてもトシには分かった。それを思うとなんだか恭夜が可哀想になってくるから不思議だ。
「なんだ、運動しなくてもいいとは……」
 幾浦は気がつかなかったようだ。
「……もういいって、それは。なあ、兄貴。俺、こいつと相性が悪いの知ってるだろ。噛みついては来ないけど、こいつ、俺にいつだって威嚇するじゃねえか……。まあ、そういうことされたらいつも殴ってやったらおとなしくなってたけど……」
「最近はそうでもないだろう。慣れたんだろう」
「え、ジャックと一緒の時だけだぜ」
 嫌そうな顔で恭夜は言う。
 この辺はトシも知らなかった。
「ああ、アルもあの男には関わらない方がいいと理解しているんだろう。やはり賢い犬だ。こういう犬ならお前のうちでも問題は起こさずにおとなしくしていると分かるだろう?」
「あの……こういうことに口を出したくないんですが……。あんまりアルの前で、そういうことをいわないでやって欲しいんです。アルは人の言葉を理解していますし、二人の会話を聞いて、自分がお荷物になってるんじゃないかって、不安になっているみたいです……」
 トシは先程からアルの様子を窺っていたのだ。すると二人が言い合うのを聞いて、アルがふうと鼻を鳴らしたり、寂しげに幾浦の方を向いて尻尾を振ったりを繰り返していた。そんなアルが見ていられなくて、トシがいうと二人の視線が地面に伏せているアルの方へ向く。アルはプイと横を向いたまま伏せの状態で、どこか悲しげだ。
「アル……悪かった。だが、あの女性がお前に危害を与えそうで私は怖いんだよ。犬のホテルへ預けられるより、恭夜の方がいいだろう?少しだけの間、我慢してくれ」
 幾浦が膝を折ってアルの頭を撫でる。だが、視線は外したままだった。犬なりに二人の会話に傷ついているのだろう。そんな光景を見ていた恭夜がため息混じりにいった。
「……う~分かったよ。俺が預かる。でも、待遇は保証できないぜ……」
「悪いな……。実家に預けるのも父親がああだからな。これ以上母親に面倒を頼みたくなかったんだ。お前もその辺り理解しているだろう?」
 アルの背を撫でながら、幾浦は恭夜の方を見上げる。
「はいはい。俺が預かるよ。できるだけのことはするけど、あんま期待するなよ。俺だって忙しいし……」
「じゃあ。この袋の中にさっき話したものをいろいろ入れてある。餌やトイレの備品は重いから今日中に宅急便で送っておく。今日の分だけ袋に入れてあるから、それをやってくれたらいい。いろいろ大変だろうが頼む」
 アルの背をポンと幾浦が叩くと、渋々という感じで立ち上がる。しかし尻尾は相変わらず地面に垂れ下がったままだ。
「じゃあ、連れて帰るよ……」
 幾浦から渡された袋を手に持って、恭夜はアルを脇につれて来た道を戻っていった。その間中、何度も肩越しに振り返るアルの姿にトシは胸が痛んだ。
「恭眞……」
「仕方ないだろう。あの女性にアルを傷つけられるよりましだ」
 頷くほかない言葉にトシはもう見えなくなったアルを探すように瞳を彷徨わせた。

 何となく気まずいままマンションに戻ってきた幾浦がリビングのソファーに腰を掛けたと同時に口を開いた。
「それで。トシはこういう場合どうしたらいいと思う?」
 幾浦から話を聞いていろいろトシも考えていた。警察が介入することを前提とするならばやはり現場を押さえなければ始まらない。大抵の場合、警察が注意を促してくれるだけでもこういったことには効果があるのだ。ただ、警察が法律上、こういうトラブルになかなか介入できないのが問題だった。ならば、介入できる方向に持っていくしかない。
「その女性が、面倒を起こしている現場を押さえるしか、ないみたいだよ……」
「……分かった。こっそりみんなにその話をして、なんとか現場を押さえることにしよう……」
 幾浦は少しだけ表情に笑みを浮かべてそう言った。だが、一番の問題は例の女性ではないことに、このときまだ二人とも気がつかなかった。
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