「日常の問題、僕の悪夢」 第12章
なんなのこれ。
どういうことなんだよっ!恭眞っ!
渡された写真を掴む手がブルブルと震える。
怒っているのか、悲しいのかトシにも分からない。ただ、無性にむかついて、目の前にある事実が信じられないのだ。相変わらず笑っているお気楽なリーチにも、トシは腹が立っていた。いや、今は何を見ても腹を立ててしまうかもしれない。
「刑事さん?」
南は顔色を変えたトシの姿に怪訝な表情を向ける。
『トシ。女が呼んでるぜ。そいつが事実かどうか、後で幾浦にいくらでも聞けるだろ。今はあんまり顔色に出すな』
リーチがようやく笑いを納めてトシを宥める。言われていることは分かっているが、あまりの事態に、トシはすぐ現実に戻ることができなかったのだ。
『トシっ!』
「あ……はい」
「こういう場合、どうすればいいのでしょう?」
「私が預かります。幾浦さんに連絡を取って事実を確かめてからご連絡します」
南に気づかれないように鼻から大きく息を吸い込んで、ゆっくりと出す。落ち着かないと不審に思われるからだ。
「よろしくお願いします」
瓜並に対する態度と全く違う南は、もしかすると利一のような顔が好みなのかもしれない。ふとそんなことも考えたが、やはり、怒りの矛先は幾浦に向かっていた。
『おい、トシ。偽証ならてめえが虚偽罪が適用されるともう一度、脅しておけ。あとな、勝手にでっち上げた写真なら、名誉毀損も念頭に入れておくように話しておくんだな』
リーチがトシにアドバイスする。
そうだ。
この女が嘘を付いてる可能性だってあるんだ。
トシはそこでようやく冷静になれた。
幾浦の話からだと、南は他の住民に迷惑をかけているのだ。そんな南が本当の事を話しているとは思えない。恋人であるトシが信じなくてどうする。幾浦が下着泥棒などするはずがないのだから、逆に一瞬でも疑ったことに恋人であるトシは謝らなければならないだろう。
「もちろん。幾浦さんに伺います。ただ、何度も申し上げますが、もし貴方が嘘を付いていたり、この写真をでっち上げていたことが分かりましたら、逆に貴方が訴えられる立場になることをあらかじめご了承下さいね」
言葉は丁寧であったが、どこかきつい口調になったかもしれない。だが、これがトシの精一杯だ。今からでもすぐに駆けだして、幾浦を呼び出し、問いつめたい気分に陥っている。嘘だと思いこもうとしても、こういう写真があるとやはり気持ちが落ち着かないのは仕方ないだろう。
「ええ……分かってます」
南はそれだけ言うと、もう何も言わずに立ち去っていった。見送るトシは複雑だった。
自分は幾浦のことをどれだけ知っているのだろうかと不安になったのだ。幾浦の過去など知らない。時折耳に入るのは恭夜が口を滑らしたくらいのもので、実際どういった学生時代を送り、どんな女性と付き合ったことがあるかなど、全くと言って知らないし、面と向かって聞いたこともない。
恋人の過去は何処までなら聞いていいのだろう。
いや、そんなことを聞いていいのかどうか、トシには分からない。
トシの話を幾浦はいろいろな問題から知っているような気がする。まず、リーチとの不思議な関係について、昔、どういうことで傷ついたのか。そして緒方とのこと。
幾浦はトシのことをある程度把握しているのだろうが、では、トシは幾浦のことをどれだけ知っているのだろう。
初めて気づいてしまったことにトシは不安になった。
つきあい始めた頃に、それらしいことを話された記憶はあるが、大した内容ではなかったような気がする。もしかすると、話すほどのことなど無いのかもしれない。幾浦の両親のことは知っているが、それは家族のことで幾浦自身の話ではない。
言えないような過去が実はあるのだろうか。
『ねえ、リーチ……。リーチは雪久さんに後ろ暗い、滅茶苦茶していた昔話を……その、したんだよね?』
トシの問いかけに、リーチはいきなり不機嫌な声を上げた。
『んだよ~それ。なんか、俺、すっげえ、ワルだったみたいじゃねえか……』
ワルだった男が今更何を言っているのだろうかとため息がでるものの、それでもトシは聞いてみたかった。
『……だからさあ、ほら、いろいろだよ。リーチの女癖が悪かった話とか、僕に隠れてやっていた悪いこととか……なんか……リーチって広辞苑ができそうなほどあるよね?』
『お前な。それ、どういう意味だよ……』
ムッとした口調でリーチは眉間に皺を寄せていた。
『……だから、悪い意味じゃなくて……、そういう過去を雪久さんが知っているのかな~って……。ううん。知ってると思うけど……』
『……まあ、適当に話してるかな……。どういうきっかけでユキにばれるかわかったもんじゃねえし。ああ、あいつに俺の悪口を吹き込んでも、あいつは屁とも思わねえぜ。知ってるからな~俺のことは』
少しだけ気分を良くしたリーチがいた。
『じゃあさあ、その。雪久さんにそういう悪いこと?なんて……考えられないんだけど、昔の話って聞いたことあるの?』
『……さっきからなんだよ。俺とユキの話なんてどうでもいいんじゃねえのか?お前の方がやべえだろ。人の方へふるな』
また、口をへの字に曲げて不快感をリーチは表していた。
『違うよ……違うって。……なんていうか……僕さあ、恭眞の昔話ってあんまり聞いたこと無いんだ。ほら、やっぱりいい大人だから……それなりに、女性と付き合ってきただろうし、問題もあったかもしれない。学生時代、人に言えないことをしたとか……。僕が想像できるのはこの程度だけど……。だって、僕のことは恭眞に話してきたけど、じゃあ、恭眞は僕に話してくれたかな……って考えて……実は無いことに気がついたんだ。それで……急に、すごく不安になったよ』
項垂れてトシは歩道を見つめた。
自分の影が長い暗闇を浮かべている。
『わはははっ!幾浦の暗い過去!白日の下に晒されるっ!……て、笑ってる場合じゃねえんだろうなあ……。でもなあ、トシ。別にそういう話をしなきゃならないっていう約束事なんてねえぜ。大抵、まあ、そう言う話になるきっかけがあって、初めてお互い口にすることだろう?面と向かって……なんつ~か。悪いことしたことあるか?俺に言えない過去があるのか?なんて……面と向かって聞くのも変な話だしよ』
一応リーチも真面目に考えてくれているようだ。
『そうだけど……』
南が置いていった写真をもう一度見て、トシはため息をついた。
『ていうか、そんな昔付き合った女の話とか、悪いことをやってた話なんて普通、楽しい食卓を囲んでするかよ~。俺だって、黙っておけたら黙っていたけど……って違う。俺の話じゃねえ。幾浦だ。幾浦のことだったな。だから、あの堅物そうな面でどう、悪いことができるんだ?』
とりあえずトシを安心させようとしているのは分かるが、あまり効果はない。
『顔の話じゃないだろ……』
顔など問題ではないのだ。
もちろん、幾浦は男前だから女性が放っておくわけなど無いという想像はつくが。
『性格に訂正する』
『性格だっていいよ』
ぷうっと頬を膨らませてトシは言った。
『……どっちでもいいけどよ。まあ、普通、ちっとばかり面よくても、人に話せないような過去をゴロゴロ持ってる奴なんていねえよ。どうせ話すほどでもない平凡な人生だったんだろうなあ……。そういう人間は多いぜ』
なんだか、幾浦が死んでしまって故人をしのんでいるようないい方だ。
『……リーチのいい方、やだ』
『あのなあ、うじうじして悩んでいる時間があったら、幾浦に連絡をとって会いに行けばいいだろ。どうせ写真のことも聞かなきゃならないんだしよ』
宥められているのは分かるが、トシの中を占めている不安はなかなか拭えそうに無かった。
『……そうする。恭眞に聞くよ』
当人に聞けばいいのだろう。
いや、そうするしか方法はない。
『あ、先に、警視庁の検索で、幾浦に前科がないか調べてみたらどうだよ』
からかうようにリーチは言った。どんな時でもいじめっ子気質は健在だ。
『五月蠅いな。そんなの調べなくても無いに決まってるだろ』
トシは折りたたみの携帯を開いて、幾浦へメールを打ち、送信する。
『夕方から仕事が入らなきゃいいけどな……』
リーチの言葉にトシは嫌な予感がした。