「日常の問題、僕の悪夢」 第24章
「疲れているのなら明日でいいよ」
額にかかる幾浦の髪をトシは緩やかに撫で上げてにっこりと笑った。
「気持ちいいよ……トシ」
幾浦は心地よさそうに目を細める。
「眠って良いよ。僕はここにるから……大丈夫」
トシは額から手を離していたわるように幾浦の背に回した。自分よりも大きな体であるのに、傷ついた幾浦を抱きしめて、少しでもいたわりたいとトシは思ったのだ。
「トシはあの南の件を追っているんだろう?」
「ううん。係が違うから……」
「そうか。それで、私の覚えていることなんだが、あの南が越してくる前後だったと思う。仕事で私は帰りが遅かったんだが、地下駐車場で南とすれ違った。いや、違う。私が車を停めてエレベータに乗ろうとしたとき、誰かが言い争っている声が聞こえてきたんだ」
記憶を辿っているのか、幾浦の瞳は遠いところを見ている。
「言い争い?」
トシは幾浦の胸に埋めていた顔を上げた。
「ああ。南は黒い……あれはセフィーロだな。セフィーロの助手席の男と言い争い……というより、痴話げんかみたいだったが。なにかこう、良く知る男と話していた。南がトランクを開けて、ジュラルミンのケースを二つ……三つか、そうだ、三つのケースを駐車場に下ろしていた。男は車に乗ったままだったな」
顎や頬を撫でながら、幾浦は天井を見つめている。
「中身を開けてたりした?」
じっと幾浦の顔を見つめてトシは聞く。
「いや」
「男の顔は覚えてる?」
「車に乗っていたから見ていない。私はエレベータに乗るために歩いていたから、その時チラリと見ただけなんだ。ジロジロ見るわけにもいかないしな……」
苦笑しつつ幾浦は答えた。確かにそうだろう。トシもその場に遭遇していたら視線を外して早足で通り過ぎたはずだ。だが、気になるのは幾浦の見たジュラルミンのケースだろう。そんなものを一般の人間が持ち歩くわけなどない。
「ジュラルミンのケースって……南さんの部屋にあったのかな」
現場検証でそんなものが出たという話は聞いていなかった。ということは南の自宅にはなかったことになる。
「大金が入っていたりしてな。ジュラルミンのケースと言えば金しか私は思い浮かばない。それとも爆弾が入っていたとか」
笑いながら幾浦は言うが、金にしろ、爆弾にしろ、こそこそと夜遅くジュラルミンケースを運ぼうとする二人は怪しすぎる。
「現場検証にはなかったはずだよ。もし部屋が爆発したところで、ジュラルミンケースなら破片が大量に飛び散っていて、必ず鑑識が見つけてるし……」
「――だが、そのことと、南が私に絡んできていた理由がどう繋がるんだ?何か胡散臭いことに巻き込まれていたことは分かるんだが……それなら、ひっそりと目立たぬよう、問題を起こさず暮らすものじゃないか?」
う~んと一つ唸って、幾浦は首を傾げた。
「分からないけど……。南さんが殺されたのは口封じって感じがするよ。その、セフィーロに乗っていた男が怪しいかもしれない。でも恭眞、顔を見なかったんだよね」
車に乗っていた男が一体どういう人物か分からないが、南をあんな殺し方をするのだ。余程冷酷な男に違いない。南は何を知り、どういうことに関わっていたのか、それがトシには気になるところだった。
「ああ。サイドウインドウを開けて南と話していたから、男の背中しか見えなかったな。残念なことに顔は見なかった。見ていたら少しはお前達に協力ができたのだろうが……悪いな」
本当に申し訳なさそうに幾浦は言う。
「……ううん。僕は恭眞が無事……それだけでいいんだ。もちろん、恭眞を巻き込んだ犯人に対して怒ってるけど」
「ところで、周囲を警官で包囲していたのだろう?普通、包囲する前に何事もないよう、先に現場をチェックするんじゃないのか?」
不思議そうに幾浦は言った。
「簡単なチェックはしたらしいよ。犯人が周囲でうろついている可能性があるから、目立つ行動はできないんだけど……。昼間のチェックでは特に問題はなかったって聞いてる。僕は約束の時間より少し前に到着したから、どういったチェックをしたのかまで詳しくは知らないんだ。だけど、あそこの公園は大きくて、木や藪が沢山あるからあまりじっくり調べられなかったんだと思う」
あの公園は整備されている立派なものではなく、もともとあった木や藪をそのまま残して作られているために、人の手が入った歩道を離れると、ちょっとした探検気分を味わえる。そんな鬱蒼としたところもある公園なのだ。
「……そういえばそうだな。だが、爆弾を仕掛けて南を上に乗せて、木にぶら下げるのは大変なことだと思うが……。それまで南も暴れたはずだろう?なのに張り込んでいる警官たちが気付かなかったのか」
驚いたような声で幾浦は目を大きく見開いていた。
「クスリを打たれていたよ」
「麻酔か?」
「ううん、シスコミルコリンっていう劇薬。劇薬としては、あまり一般に知られてないと思うけど、微量で全身麻痺して意識不明になる。南さんの場合は、ギリギリの量だったから、身体は動かせないけど意識は最後まではっきりしてただろうって……話し」
トシ達でさえ、滅多に聞かない劇薬が飛び出してきて、驚いたのだ。こんなものを手に入れられる人間は一部の医療関係者しかいないだろう。とはいえ、日本の薬事法は非常に厳しく、劇薬の取り扱いに対しても厳しい制約がある。
では、医療関係者が絡んでいるのだろうか。
「私は聞いたことがあるな……何処で聞いたんだろう……。ああ、アメリカに出張に出ると夜が暇だろう?そういうときいろいろあっちのドラマを見るんだが、結構使われているぞ。そのクスリ」
「え、そうなの?じゃあ、外国人が絡んでるのかな……?」
トシはよく分からなくなってきた。
爆弾は飛び出してくる、奇妙な劇薬も出てくる、なのに、ことの始まりはセクハラ疑惑なのだから、捜査が混乱しても仕方ないのかもしれない。瓜並は今頃げっそりとしているだろう。
「どうだろうな。アメリカでも劇薬に対する法律は厳しいはずだ」
「でも日本より裏で簡単に取り引きされてる……」
トシの答えに幾浦はまた笑った。
「どうして笑うの?」
「セクハラ疑惑が、どうしてこんな事件になっているのかと考えると、もう笑うしかないような気がしてな……」
「それ、僕も思った」
思わず二人で顔を見合わせて、暫く笑い合った。ようやく本当の意味でホッとできたからかもしれない。いや、緊張していた時間が長すぎて、互いに笑いを求めていたのだろう。
「――南には随分悩まされたが、あんな殺し方をしなくても……そう思う。彼女はどうして殺されたんだろうな」
ようやく笑いを納めて、幾浦はため息をついた。
「南さんが殺されたのは……その、車に乗っている男と問題が起きて、仲間割れでもしたのかもしれない……あっ!」
そこまで口にしてトシは小さな声を上げた。
一番、重要なことに頭が回っていなかったからだ。
「どうした?」
「僕、大変なことを思いだした。南さんがセフィーロに乗っていた男に殺されたとしたら、恭眞も危ないよっ!」
身体を起こしてトシは叫んだ。
「私が?どうして?」
トシがいきなり飛び起きたことに驚いた幾浦も身体を起こす。
「恭眞はここでじっとしていて、僕、すぐに警備を手配してもらうから……」
幾浦は男の顔を見ていない。だが、それを男が知っているかどうかは分からない。南が幾浦に絡んできた理由は分からないが、南は幾浦のことを男に話しているかもしれないのだ。何かを計画している人間は、例え後ろ姿を見られたとしても、疑心暗鬼に囚われて、目撃者を抹殺しようと企む。
幾浦が襲われないという保証はない。
「トシ……大げさだ」
ベッドを下りたトシの手を掴み、引き留める。だが、トシは掴まれた手を振り払った。
男が幾浦を狙っているのなら、南と一緒に葬るつもりだった計画に狂いを生じたことを今頃、唇を噛み、もう一度幾浦を狙う。
――そして今、警護されていない幾浦は犯人の格好の的になっているはずだ。
「大げさじゃないよ。もちろん、僕が想像したことが合っているとは限らない。だけど否定することもできないんだ」
トシが幾浦にそう言うと同時に、心の中でベルが音を立て始めた。