「日常の問題、僕の悪夢」 第22章
何がどうなってるんだ?
よく見ようと、幾浦がペンライトを上下にゆっくりと振ると、南がどういう状態なのかがおぼろげに分かった。
南は木の枝にぶら下がっているのだが尋常ではない。両手を後ろで結わえられ、首に巻かれたロープでぶら下げられていたのだ。顔色は青く、目は涙で濡れている。口にはスカーフのようなものが銜えさせられていて、声が出ないのだろう。
南は身体を左右に揺らしながら、まるで弥次郎兵衛が平均を保っているような動きをしていた。
首からつり下げられて、どうやって身体を支えているのか。
幾浦はライトを下に向け、南が何を支えにしているのかをようやく見つけた。
空き缶……。
二つある空き缶に、つま先で南は立っているのだ。空き缶はブルブルと震えていて、今にも倒れそうだった。
これが倒れたら南は本当に首をつることになるだろう。
南には随分と悩まされたが、このまま放っておくことなどとてもできない。いや、誰であっても助けようとするだろう。
南の瞳は訴えるように向けられている。
この女を助ける羽目になるとは……と、思いつつも、幾浦は南に駆け寄ろうとした。……が、同時に利一の声が警笛の音と共に響いた。
「幾浦さんっ!そこから離れてくださいっ!」
え?
何が起こっているのか、幾浦には直ぐに判断が付かなかった。逃げろと突然言われても、足は直ぐに動かず、南を目の前にして棒立ちだ。
「何ですかっ?」
ざわざわっと人があちこちを走る様子が分かるように、草をかき分ける音だけが聞こえる。だが、ライトの光が時折、木々の間から見えるだけで、人の姿が見えない。
「幾浦さんっ!離れてっ!」
利一が叫びながら走ってくるのが肩越しに見えた。
幾浦は、以前にもこういう状況があったことを思いだし、ようやく南に背を向けて、歩道の方へ走り出した。
振り返ることはしなかった。
ただ、真っ直ぐ走ることだけに専念する。
--が。
一瞬、目が眩むような光が背後から木々を貫き、同時に爆発音が響いた。
何があった?
地面を蹴っていた足が、宙に浮いたような浮遊感と、何かを叫ぶ利一の顔がはっきりと見える。大丈夫だと、声を掛けてやりたいのに、声が出ない。
幾浦の意識はそこで途切れた。
「僕の所為だ……」
トシは病室でぽつりと呟いた。
『お前の所為じゃねえよ……。俺が会うのを止めたら良かったんだ』
リーチが申し訳なさそうに言う。トシはただ、顔を左右に振った。
いくらリーチが相手のことを知る力に長けているとはいえ、南、本人が何かを企まない限り分からない。限定された条件でしか、相手が危険なのか、そうでないのかリーチは判断ができないのだ。
それをトシは責める気などこれっぽっちもない。
恭眞……。
幾浦は麻酔が効いていてまだ眠っているが、背中に爆発物の破片が突き刺さっていて、先程、ようやく処置が済んだのだ。
『ユキも言ってただろ。見た目より軽傷だってさ』
トシを勇気づけるようにリーチはあれこれと宥めようとしてくれるのだが、どうにも気持ちが収まらないのだ。
もっと早くに、気付いていたら……。
「……ごめん……」
幾浦の額にかかる髪を撫で上げて、トシは言った。
苦しい表情はしていない。顔だけを見ていると、心地よい眠りに浸っているようにも見える。
ギュッと唇を噛みしめて、トシは目に涙を浮かべた。
「トシさん」
名執の声にトシはゆっくりと入り口の方へ顔を向け、できもしないのに笑顔を作ろうとした。
「いいんですよ。こういうときは笑わなくていいんです。『利一』だって、時には辛いときがあるはずですからね」
優雅な動きでトシの隣に立つと、名執は肩にそっと手を置いた。
「うん……ありがとう、雪久さん……」
潤んだ目を擦り、トシは息を吐いた。なんだかもう、自分がどうしていいのか分からない状態なのだ。
「傷は深くありませんでしたし、背骨も傷ついていません。表面だけの怪我ですよ。数日すれば自宅に戻れます。ただ、少しの間、背中を洗うことはできないでしょうね。トシさんが消毒してあげてくださいね」
名執は小さく笑った。
「……でも、血が……こう、沢山ついていて……僕……」
あの公園で、倒れていた幾浦を見た瞬間、トシは血の気が引いたのだ。幾浦は背を真っ赤に染めていた。その間に光っていたのは鈍い銀色の破片だった。
怖くて……。
直ぐに幾浦を起こせなかったほどだ。
「あれは幾浦さんの血だけではありませんよ。他の方にうかがいましたが、あれは爆弾を抱えてらした女性の方のものです。女性の方は残念ですがお亡くなりになりましたが」
凄惨な話なのだろうが、名執が言うとそんなふうに聞こえないのが不思議だった。
「そう……そうだったんだ……」
考えれば直ぐに分かることだったのだ。
どう考えても、あの出血は多すぎた。本当にあれだけの量が幾浦の体内から出ていたとすれば、確かに今頃は死んでいるだろう。
ただ、あのときは頭が混乱していて、トシは南のものだと気付かなかった。
「そうですよ。だから、幾浦さんには輸血は必要ありませんでした。ただ、かなり小さな破片があちこち刺さっていたので、全身麻酔に切り替えたんです。破片を取り除く作業の間、意識を戻されて痛みから暴れられると困りましたから……」
肩におかれていた名執の手は、トシの背に回り、上下に動かされていた。それはとても暖かく、ホッとするものだ。名執の手は人の心を穏やかにして、優しく包み込むような暖かさももちあわせているのかもしれない。
「……うん。ちょっと……動揺しちゃって……」
トシはようやく笑みを浮かべることができた。
「大切な貴方の恋人ですものね。動揺して当然ですよ」
うっすらと笑う名執の笑顔は、トシを元気づけてくれる。
「……もう、僕……どうしようかと思った。だって……以前、恭眞がもっとひどい怪我を負ったときは、僕の方がひどい怪我で唸っている間に、恭眞の方が先に元気になったから……こういう姿を見るの経験がないし……」
もういちどトシは目を擦る。
「ところで……うかがってよろしいですか?」
何かを思い出すように名執は言う。
「え、なんですか?」
「今度はどういったことに巻き込まれているんですか?」
ちょっと困ったような表情で名執は首を傾げている。
「……巻き込まれていたのは恭眞なんです。恭眞も困っていて……それで僕が相談に乗っていたんですけど……、誤解してたりして……その……」
名執には言いにくく、トシは言葉を濁した。
もしこれが、リーチと名執の間で起こった問題だったなら、きっと名執はリーチを最初から信じていたに違いない。そう思うと、自分の幾浦に対する気持ちが、軽いように思えて話しにくいのだ。
「聞かせていただいても宜しいですか?」
柔らかいトーンの声にトシはゆっくりと話し始めた。
「不思議な話ですね……」
トシが話し終えると、名執はそう呟いた。
「……そうなんです。今から思うと、南さんが……あ、亡くなった女性の名前ですが、あの人は結局恭眞に何をしたかったのか、分からないんです。といっても、ストーカーされたとか、下着を盗んだとか……そんな言いがかりを恭眞にどうしてつけたのか、相談されたときもよく分からなかったんです」
何から何まで謎だらけでトシは混乱していた。
南は誰にあんなことをされたのだろうか。
やはり、バックに誰かがいるのだろう。それをもっと早く気付いていたら、手を打てたかもしれない。
「相手に対する想いが歪んだ表現になると、そういう行動に出られるときもありますが……」
名執は何かを思い出すようにしてそう言った。
「え?好きな相手がストーカーしたとか普通、言います?」
トシは名執の言葉に驚いた。
「世の中にはそういう方もいらっしゃるんですよ。ただ、南さんとおっしゃる方がそうだったとは言えませんが」
困ったような顔で名執は微笑する。
「変なの……」
南のことを思いだし、だんだん腹が立ってきて、トシが口を尖らせていると、名執はくすくすと笑いだした。
「ええ、変ですね……あ、幾浦さんが目を覚まされましたよ」
名執の言葉にトシは視線を落とすと、幾浦がうっすらと目を開いていた。
「恭眞?大丈夫?」
声に反応したのか、幾浦の瞳がトシを捉える。
「……あれか?」
突然、幾浦が奇妙なことを口にした。
「え?何?」
「……どうでもいいことだと思ったが……違うのか?」
それだけを言い終えると、幾浦はまた目を閉じた。