Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 最終章

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 もし――銃を持っていたなら、リーチの性格なら中村をその場で撃ち殺していただろう。だが、銃に関し、警官は日常の所持を許されているが、刑事は常時持ち合わせていないのだ。余程の凶悪犯を追っている場合、許可されて所持が許される。その管理も徹底したものだった。
 そしていま、利一は銃を所持していなかった。
「病人しかいないんだぞ。なのにお前はここで爆発させると言うのか?」
 幾浦は呆れながらも中村に言った。
「そうだな……面倒なんだよ。働くのも、生きるのもさ」
 中村は起爆装置を持ったまま、幾浦の言葉に反応して答えている。この隙を狙って支柱台のパイプで後頭部を殴りつければ、気絶させられるかもしれないとリーチは考えているようだ。
『ねえ、リーチ、リーチって……』
 トシはあることに気付いてリーチを呼ぶのだが、頭に血が上っているリーチには聞こえていない。
「だから、人を巻き込んで死ぬのか?生きるのが面倒なら、一人でどうして死なないんだ?」
「寂しいだろう、一人だとさ」
 中村が幾浦の方に意識を向けている間、リーチは音をさせずに支柱大のパイプを握りしめて持ち上げようとした。
『リーチっ!ちょっと待ってって』
 トシが止めようと声を張り上げているのに、リーチの耳に入らない。
 が、その瞬間――。
「ふざけるなっ!」
 幾浦の怒声と同時に何かが割れる音が響き渡った。サイドテーブルに飾られていた花瓶を中村の手に叩き付けたのだ。もちろん、それで中村が起爆装置を手放せば良かったのだろうが、問題のものはしっかり手に握られていた。
 辺りには切り花が散らばり、割れた花瓶から飛び散った水が床を濡らしている。リーチは幾浦の突然の行動に、パイプを持ち上げたまま、一瞬、硬直してしまった。だが、同時に、警告を示すベルの音が鳴りやんでいた。
「な……何やってるんだよっ!」
 思わず漏れたリーチの言葉に幾浦は不思議そうな顔をしてみせた。幾浦だけはトシが気付いたことと同じことを考えていたのかもしれない。
「こういうものには私の方がプロだと思うんだが」
「は?寝ぼけてるのか?てめえ……っ!」
 リーチの剣幕に、幾浦は中村の方を向いて指さした。
「いや……だから」
「どういうことなんだよっ!起爆しないっ!」
 中村は怒声を張り上げ、起爆装置を何度も押しているのに、爆破が起こらなかった。それを見たリーチが不思議そうな声で問いかけてきた。
『……どうなってるんだ?』
『造りが甘いから、水をかけたことで起爆装置がショートしたんだよ……。だってあれ、防水はされてないし、枠も隙間だらけだからさ。水で濡れて動かなくなったんだって。恭眞もそれに気付いたから花瓶を割ったんだと思う。だから僕、リーチのことを呼んでいたのに……』
 トシが、興奮しているリーチにそう言うと、リーチは何事もなかったように支柱台を下ろし、にっこりと笑った。
「……少々、興奮してしまいましたね。幾浦さんも馬鹿じゃないようで、安心しました」
 意味不明な言葉を発して、リーチは携帯を取りだし、電源を入れた。



 トシと幾浦はマンションの一階で恭夜を待っていた。預けていたアルを本日連れてきてくれる予定になっていたのだ。
 マンションの方は改装が済み、今では爆発があったことすら分からないほど綺麗になっていた。といっても、爆破があったもと南の部屋は空き部屋のままで、今のところ新しい住人が来る予定はないらしい。
 あの爆発でけが人は出たものの、死人は出なかったのだから、事件が忘れられる頃、誰かが居住することになるのだろう。事件というのはそんなもので、中村の言う、歴史に残るような事件は滅多に起こるものではないのだ。
 中村の部屋からは大量の爆弾が出てきた。経歴を調べてみると、中村は大学に通いながら、夜はアルバイトとして米軍基地に食料を運ぶ仕事に従事していて、そこで何らかの取引をしたのだろうと捜査では結論づけられた。
 とはいえ、治外法権の壁は厚く、何故子供とそんな取引をした人間がいたのか、現在も捜査中だ。
「そういえば、リーチが随分拗ねているらしいな。名執から聞いた」
 リーチがスリープをしているのを幾浦が知っていての発言だ。
「うん。あの晩、一番いい方法を恭眞が見つけたことが気に入らないんだと思うよ。僕は途中で気がついてリーチを呼んだんだけど、全然耳に入らなかった」
 くすくす笑ってトシが答えると、幾浦も小さく笑った。
「造りの甘い起爆装置だったからな。水をかけたら一発でショートすると分かったよ。もっとも中が防水されていたら、みんなで仲良く死んでいたかもしれないが。どうせ死ぬのならやれることをやってやろうと、不思議と怖くなかったな」
 幾浦は神妙な顔つきでそう言った。
 結局この事件での被害者は南だけだった。中村は己を目撃したかもしれない幾浦の存在を疎ましく思い、計画を実行する前に殺そうと企んでいた。南はそれを止めたかったようだ。マンションであれこれ騒ぎを起こしていたのは、住民に対しては中村の行動から目をそらすために南が騒ぎを起こし、にもかかわらず、ストーカー問題を出して警察の目を幾浦の方へ向けさせた。中村を庇いつつ、逆に動きたくても動けないように、していたのは同じ南の行動だ。これでは少々理解を超える。
 もちろん、幾浦に対して恋愛感情を持ったから、ストーカー騒ぎを起こした。だが、社会を憎んでいたのは南も同じだった。
 中村と南が同じ目的を持っていたのは、その後発見された日記や手紙などから間違いないことだと分かった。
 女心は分からない。
 憶測ばかりが飛び交う中、トシだけはこう思いたい。
 周囲で警察がうろつくことで、中村が自ら起こそうとしていたことを断念してくれたら……そういう気持ちがあったのだ。自分では止められないことを誰かに止めてもらいたかった――と。
「見方を変えると、南さんが可哀想になってきた……」
 トシがぽつりとそう言うと、幾浦は何故か苦笑いの表情でトシを見下ろしてきた。
「そうか?死んだ人間に対しては、何をしでかしたとしても、可哀想だと思うこともあるが、これで生きていたらまた違った感想を持つんだろう。だがな、勝手に社会を恨んだところで、社会はなにもしてくれないぞ。実体なんてないものなんだからな。努力もせずに認めてもらいたいと思うのは間違っているさ。努力してもどうにもならないこともある。どうにもならなくても、人間は努力していて、そんな自分を誇らしく思っている。逆に認めてもらえないと泣いている人だっている。それでも必死に生きているんだ。なのに、認めてもらえないからでかいことをするとか、人を巻き込んで死んでやる……と考えるのは同情の余地もない」
 幾浦は淡々とそう告げた。
 言われてみれば確かにトシも思う。それでも、やっぱり南は可哀想だったと考える。
「それは……そうだけどさ」
「もしかして、南が私を好きだったと聞いたからか?普通は、嫌だと考えるものじゃないのか?」
 どこか慌てるように幾浦はそう言った。
「え……う~ん。僕は複雑。ストーカーとか、痴漢容疑とか……さ。絶対にそんなことなんてないって信じていたけど、聞く度に悪夢を見てるみたいだった……」
 はあ……とため息をついてトシは答えた。
 それが本音だったのだ。
 ストーカーは恋愛感情を素直に出せず、好きになった相手に異常なほど関心を持ち、その人の意思に反してまで跡を追い続ける者を言うのだ。こういう人間は非常に扱いにくく、デリケートな問題で、警視庁にまでその問題は上がってこないが、所轄では頻繁に相談者が来るそうだ。
 南は振りをしていただけだが、本当にそんな人間が現れたら……。
 考えれば考えるほど、背筋が寒くなる。
「私の方が悪夢を見たよ……。また、この件で会社側は私を宣伝に利用したんだからな。何を考えているんだか」
 肩を竦めて幾浦はため息をついた。
 幾浦の会社は外資系で、日本ではそこそこの知名度をもっている。だが、金銭面のこともあり、大々的な宣伝は行っていないのだ。その代わり、幾浦が事件に巻き込まれると、いつだって社名の入ったロゴの前に幾浦を座らせ、記者会見を行う。これが意外に宣伝効果があるらしく、会社は何故か幾浦が事件に巻き込まれるのを待っているようだった。
「……恭眞にラブレターとか来たら嫌だな……」
 ラブレターくらいならいいが、本物のストーカーが出てくる可能性だってあるのだ。トシから見てそれほど幾浦は魅力的な男性だった。
「そうか……。そう言ってもらえると嬉しいな」
 そろりと回されてきた幾浦の手をトシは払った。
「ここは、外」
「……そうか。ああ、恭夜の車が来たぞ」
 恭夜が運転する車が坂を下りてくるのが見えた。後部座席には懐かしいアルのシルエットが見える。逆光のためはっきりと見えないがしっぽを振っているのは確認できた。
 車は二人の前で停まり、運転席から恭夜が下りる。
「待たせた?」
 恭夜は二人を窺いながらも後部座席のドアを開けた。
「アル。お帰……」
 出てきたアルの姿を見た瞬間、二人は固まってしまった。
「じゃ、俺、帰るな。さっさと帰らないとジャックが五月蠅いから。また遊びに来いよ、アル!」
 慌てた様子で恭夜は運転席に戻り、呆然としている二人を置いて去っていった。
 アルは嬉しいのか、幾浦に飛びつき顔を舐め回す。そこで幾浦の方が先に我に返ったようだった。
「アル……悪夢を見ていたのはお前だったのかもしれないな」
 ぽつりと呟いた幾浦の声に、トシは放心しながらも頷いた。
 ――アルは綺麗な栗色の体毛を赤や黒の斑に染められ、一回り痩せた姿で帰ってきたのだった。
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