Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第15章

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「リーチっ!」
 水の束をかき分けるようにして、幾浦もリーチ達の後を追って中に入った。まだ残った煙が辺りに漂っている中、ベランダのガラスが破られて水が飛び込んできている。
 リーチは……どこだ?
 ごとっ!
 物音を聞きつけ、幾浦が真横を向くとソファーの下で蹲っている子供が見えた。直ぐに幾浦は駆け寄り見知った小さな子供の身体を抱き上げて、汚れている顔を拭う。
「おい、しっかりしろ!」
 幾浦が声を掛けると、子供は『う~ん……』と唸った。気を失っているだけのようだ。
 確かこの子は、小川さんの子供さんだった……。
 だがここの子は……。
「幾浦さんっ!」
 リーチの声が聞こえ振り返ると、泣いている子供を二人抱えていた。こういう、状況であるのだが、三歳の子供二人を抱えるリーチはどことなくほのぼのとして見える。
「今、笑いましたね。そういう状況ではなくて、ここのお子さんは何人いるんですか?」
 ムッとした顔でリーチは言った。
「すまん。後一人だ。ここのうちは子沢山でね。お前が今抱きかかえているのは双子だ。もう一人、小学校に通うお兄ちゃんがいる。父親は夜勤でこの時間はいないはずだが、母親がいるはずだ」
 幾浦が説明している背後で赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「あっちだな」
「私は母親を捜しますね。これじゃあ、もう一人抱きかかえるのは無理ですから、幾浦さんにお願いします」
 言いながらもリーチは子供を抱えたまま、他の部屋へと消えていく。幾浦の方は声がする方へ向かった。
 水浸しになっている廊下を歩き、寝室の方へ入ると床に敷かれた敷物の上で、泣きじゃくっている赤ん坊がいた。赤ん坊は泣いているものの、怪我は無いようにみえる。
「もう大丈夫だ」
 宥めるように言い、空いている方の手で赤ん坊を抱え、幾浦はけたたましくサイレンが聞こえる、ベランダの方へ足を踏み出した。
 眼下には沢山の野次馬が溢れていて、見知った住人の姿も見える。消防車が三台と、救急車が停まっていて、警官が野次馬整理をしていた。
 幾浦の姿に気がついたのか、一人の消防隊員が何か下から叫んでいたのだが、サイレンの音にかき消されて聞こえない。
 爆発の起こった部屋を見ると、煙は出ていたが、火は下からの放水で鎮火していて、燻る煙だけが、ユラユラと空へ向かって漂っていた。
「幾浦さんっ!」
 向こう側のベランダに出たリーチが幾浦の方を向いて叫ぶ。
「赤ん坊も無事だっ!母親の方はどうだ?」
「見つかりませんっ……何処へいかれたのでしょう?」
「なんだって?こんな時間に、小さな子供を置いて、出かけるわけはないだろう?」
 特に赤ん坊までいる家庭だ。
 にもかかわらず母親が出かけているなど考えられない。
「分かってますよ。でもどの部屋にもいらっしゃいませんでした」
 リーチが困惑したように言うと、人が騒ぐ声が一段と大きく響き、二人とも同時に下を向く。すると一人の女性が消防隊員と警察官に止められている姿が見えた。遠目からでもこの子供達の母親であることに幾浦は気がついた。
「あ、あれだ。あそこにいる」
 どうして母親が下にいるのか幾浦にも分からないが、確かに子供達の母親だ。しかも半狂乱になっているようだ。
「……」
 リーチはベランダから下を覗き込んでいたが、喜ぶどころか表情を曇らせた。
「どうした?」
「……爆発した部屋の女性は、例の南さんですよね?」
「ああ。それがどうした?」
 相変わらずリーチは下を眺めている。何か見つけたようだが、幾浦も下を眺めてみたが、リーチが何を見ているのか見当がつかない。
「いますよ、外に。野次馬の一番後方です。道路を挟んで向こう側にある電信柱から様子を窺ってますよ。その、南さん」
「なんだって?」
 リーチが言った場所に幾浦も目を凝らしてみると、確かに言われてみれば南ではないかという女性の姿が見えた。だが、リーチが断定するほど、幾浦には『確かに南』だという確証できるほど、はっきりと分からなかった。
「あ……逃げちゃいます……けど、ここからじゃあどうにもできませんね」
 利一モードになっているリーチはどことなく、可愛らしい口調になっていた。しかもあきらめが早い。
「……あの女は一体、何をやっていたんだ……」
「さあ、それを調べるのは警察の仕事ですし、とりあえず、降りましょうか?」
 リーチの方ははしご車に乗ってベランダに横付けしている消防隊員に子供を手渡しつつ、にっこりと笑った。
「お前、現場を見に来たんじゃないのか?」
 濡れた自分の身体に付いている水滴を払いながら、幾浦が言うと、リーチは意味ありげに苦笑した。



「……これはどういうことだと思う?」
 消火活動が進む中、幾浦とリーチは消防隊員から渡された毛布を被り、マンションを眺めていた。
「……南さんという女性が、爆弾を作ったとは思えない……というくらいでしょうか?」
 ため息をつきつつ、リーチは言った。
「そんなことは分からないだろう?あの女が作った可能性だってあるかもしれないぞ」
 普通では考えられないだろうが、いまの状況は既に日常とはかけ離れている。ならば、あの女が爆弾を作ったと言っても幾浦は驚かない。
「賢そうな女性には見えませんでしたし……」
 あまりにも真面目にリーチが言ったので、幾浦は笑いを堪えるのに必死だった。いや、緊張しすぎていたためか、どういったことであっても笑いが漏れるのかもしれない。
「ところで、トシは?」
 耳元で囁くようにして幾浦がリーチに呟くと、思いきり背中を捻られた。
「そういう話は、こういう場所では止めてくださいね」
 リーチはあくまで笑っている。こういう笑顔は利一がどういう人間かを知っているとはいえ、少々不気味だった。
「……すまん」
「とりあえず、幾浦さん。こういうマンションは引っ越して、もう少し騒動の少ないところに移ってもらえませんか?」
 リーチは肩からかけていた毛布を畳んで立ち上がると、座っていた道路から立ち上がった。
「そうするよ。ああ、警視庁に戻るのか?」
 一人で立ち去ろうとするリーチを引き留めて、幾浦が問いかけると、なにやら妙に嬉しそうな顔でリーチは振り返った。
 その笑顔で幾浦はピンと来た。
「なんだ。お前はこれから名執のうちに行く気だな。私も行くぞ。今晩泊まる場所もないからな。これから休息できる名執のうちに行くぞ」
「……何、言ってるんですか?」
 笑いながら眉間に皺を寄せているリーチを幾浦は見ない振りをした。
 大体、本来なら幾浦はトシと二人で一晩を過ごせたはずなのだ。それが、爆破騒ぎに巻き込まれ、濡れ鼠にされて、しかも主導権をリーチが握っている。
 さっさとリーチがトシに主導権を返してくれたら、幾浦の方も問題はないのだ。にもかかわらず、ラッキーとばかりにリーチが相変わらず利一を演じている。これで腹を立てるなと言われても無理な話だった。
「幾浦さんは弟さんがいらっしゃるんですから、そちらでお世話になればいいじゃないですか?とっても喜ばれると思いますよ」
 死んだところで、絶対に行きたくない場所を口にするリーチの首を、幾浦は絞めたい気分に駆られたが、周囲にはまだ人が沢山溢れていて、実行に移すことができなかった。
「そんなにおっしゃるのなら、弟と仲のいい隠岐さんが行かれたらどうです?歓迎してもらえると私は思うが」
「……マジで言ってるんだとしたら、ぶち殺すぞ」
 周囲には聞こえないような小声でリーチは言った。
「……貴様が言い出したんだろう」
 ムッとしたように返すと、リーチがフッと視線を逸らせた。
「……あの女です」
 リーチが向けた視線の先に、垣根に隠れるようにして様子を窺っている南の姿が幾浦にも見えた。
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