Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第10章

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『僕には可愛い感じの人に見えるよ……』
 ルーバーの隙間から覗き見る女性は、瓜並になにやら訴えるように話しているのだが、声が小さすぎてこちらまで聞こえない。
『……顔の半分が暗い』
 リーチがトシには意味不明なことを言った。
『なにそれ?』
『なんか企んでいる奴って俺にはそんなふうに見えるんだ。あれは、ぜってーなんか企んでる。お前も気を引き締めろよ。幾浦にも言っておいたほうがいい』
 珍しく心配そうにリーチが言ったことで、余計にトシは不安になった。
『……そうなんだ。突然刃物を持ち出して襲ってきたりしないかな?』
『そういう、暗さじゃねえよ。ていうか、あの女にそんな度胸はねえだろ。こそこそ、小ずるいことやってるらしいしな。そう言う奴は自ら刃物を持ったりしねえ。毒なら盛るかもしれないけどよ』
 からかうような口調でいて、リーチは真剣に言っている様子だ。
『気をつけるよう、恭眞に言って……』
「だいたい、どうして警察は何も言ってくださらないんですっ!」
 いきなり女性の声が一際甲高く響き渡り、トシはリーチとの会話を中断された。逸らせていた視線を戻して、隙間から窺うと、女性は机に手を置いて立ち上がり、瓜並に噛みつくように怒鳴っていたのだ。
「幾浦さんとはお話しいたしましたよ。ですが、貴方がおっしゃるような事実が確認されなかったので、私どもの方としましても……」
 瓜並はかなり手こずっているようだった。
 相手の方が年上だというのも一つの理由かもしれない。
「あちらは外資系のエリートサラリーマンだから、そんなことをするはずないと思っていて、私が嘘を付いているとおっしゃってるの?」
「いえ。そういったものの見方は私どもでは一切していませんよ。ただ、お二人のお話が食い違っていますので、私どもの方も困っているのです。こういった場合、何か証拠がなければ判断がつきませんね。貴方と無関係の方で、それを証明してくださるような人が現れるのなら別ですが」
 女性の態度に狼狽えることなく淡々と、瓜並はそう答えた。
「警察なんて……いつだってそうなのね」
 腹立たしそうに女性はそう言って、椅子に腰を下ろした。それでも腹立ちが収まらないのか、テーブルに置いた指先はトントンと表面を叩いている。
「申し訳ありません。今のところ、お力になれませんね」
「じゃあ、私と無関係の被害者を連れてきたらいいのね?」
 テーブルを叩いている指先が止まり、女性の視線は瓜並をじっと見据えていた。
「え……まあ、そういうことです」
 困惑したように瓜並は頭を掻いていた。
「分かったわ。私が見つけて来ます。こういうことを普通、警察の方がして下さるものだと思っていましたけど」
 嫌みを込めたいい方で女性は言って立ち上がった。帰るつもりなのだろう。トシは慌てて音を立てないように廊下を走り、角を曲がったところで息を吐いた。
『なんか、妙な雲行きになってきたよな?』
 リーチが唸りながら言う。
『ねえ、無関係の被害者ってなに?そんなの、恭眞にいるわけないじゃない』
 ぷうっと頬を膨らませてトシは腹を立てていた。あのいい方だと、まるで幾浦の被害者が他にもいるようだ。もともと女性が嘘を付いているのだからいるわけなどないだろう。
『さあ。あいつ、叩けば埃が出そうだからなあ……』
 何故か、リーチは笑いを堪えていた。
『埃なんて出ないっ!どうして恭眞を悪者にしようとするの?』
『え、そうじゃねえよ。まあ、トシちゃんには可哀想だと思うけど、幾浦に泣かされた過去の女とか探し出して協力してもらうとか、そういうことが考えられるって俺は言ってるんだよ。恭夜の話じゃあ、そういうことあったみたいだろ?』
 やはり笑いを堪えつつリーチは言う。
 いつもの苛めモードに入っているようだ。とはいえ、確かに幾浦の弟である恭夜がふとっぽろりと口を滑らせることがあった。幾浦が昔、女性を泣かしたこともあったとか、ないとか。
 初めて会ったときも、確かに女性に頬を叩かれていたのを目撃している。幾浦自身も、以前は恋愛にあまり興味がなくて、いい加減とまでは言わなかったが、深い付き合いは避けていたらしい。
 もっとも、それは幾浦がトシに話したことであって、本当はどういった悪いことをしていたのかトシには想像もできない。また、本当に遊び人でたくさんの女性を泣かせてきたのかということは、トシには否定も肯定もできないことだ。
 ただ、あれだけ男前で、性格もいい男なのだからもてるに違いない。
『リーチは、昔から女の人に酷いことばっかりやってたじゃないか。そのリーチがそんなこと言えるの?でも、今は雪久さん一筋なんでしょ?だったら……その……ちょっとくらい遊んだ恭眞も今は僕だけを見てくれていると信じられるからいいもん』
 リーチを褒めているのか貶しているのか自分でも分からないのだが、トシはリーチを見て知っているから、幾浦を信じられるといいたかったのだ。
 本当にリーチは今名執一筋で、他に全く目がいかない。しかも信じられないほど遊び人だったリーチが落ち着いているのだから、恋愛にどれほどだらしない人間でも、相手によって変われるのだと、感心していたのだ。
『……なんか俺、トシちゃんに、すげえ、極悪って思われてないか?』
 ムッとしているわけではなく、リーチには珍しく困惑しているようだった。
『極悪って言ってるわけじゃないけど……。学生時代のリーチはすごかったもん。もちろん、リーチはリーチで僕は僕って思っていたけどさあ……。いっぱい女の子影で泣かせていたんだよね?僕、覚えてるよ』
『やなことばっかり覚えてるんだな……くそ~……』
 ブチブチとリーチは独り言の様に言った。
『……あのさあ、僕、一応褒めてるんだけど……』
 この場合、リーチを褒めるのではなくて、こういうリーチを大人にしてくれた名執を褒めるべきなのか、トシは少々首を傾げてしまったが、とりあえずリーチを持ち上げておこうと考えた。
『どこが、褒めてるんだ?トシって時々、ぐさって来ること言うよな……。ていうか、瓜並が来たぜ』
 いや、リーチの方が、槍で突くようなことばかりトシに言っているような気がしたが、それは口にしなかった。
「隠岐さん……どう思われます?」
 瓜並の声が聞こえ、顔を上げると、目の前に立っていた。
「女性は帰られたのですか?」
「ええ……隠岐さんと会われないように、玄関までお送りしましたよ。変なところに寄り道されると困りますし……」
 深いため息をついて、瓜並は疲れたように自分の肩を叩く。げんなりしている様子だ。他の職員が関わりたくないと逃げるのも頷ける。
「お気遣いありがとうございます」
「ところで、どういうふうにあの女性が見えました?」
 急に興味津々の顔つきで瓜並は聞いてくる。
『どうする?リーチが感じたことを話して良い?』
 考え込むポーズを作り、トシはリーチに問いかけた。
『いいぜ、信用ならない女って言っておけよ。別に幾浦を養護する気はねえけど、ああいう女に絡まれると、男として辛いのは分かるからなあ……。男はこういう場合いつだって不利になるもんだし』
 意外にリーチは幾浦のことを考えてくれているようだった。
『うん。僕もそう思う……』
「隠岐さん……あの……」
 じっと考え込んでいる利一を窺うようにもう一度瓜並は言う。
「ええ。あの女性はなにか企んでいるような様子でしたよ。何かというのはもちろん分かりません」
「……そうですか。そうですね……」
 瓜並はどこか納得できない様子だ。
 女性を信用していいのか、男性である幾浦を信用していいのか計りかねているのだろう。
「私が幾浦さんを知っているからと言って、立場を有利にしようとして話しているわけでもありませんよ」
 トシは微笑みを浮かべながら瓜並に笑って見せた。
 利一の笑みは相手を信用させることができる便利なものだというのをトシは知っていた。
「そうですよね。隠岐さんがそうおっしゃていることですし……」
 瓜並も笑顔を浮かべる。
 利一の笑みにつられたのだろう。
「ただ、気になったことがあります。あの女性が口にした、無関係の人間を連れて来るという話ですが、どこまで無関係なのか分からない相手を連れて、再度こちらに来られるでしょう。彼女はどうしても幾浦さんに対して悪い印象を持たせたいと思われているようですので、どういった方を連れてこられましても、あまり信用されない方が無難だと思いますよ。もし、これで幾浦さんの方が態度を硬化された場合、問題が大きくなる可能性もありますし……」
 とりあえず笑顔のままトシはそう言った。
「そ、そうですよね。名誉毀損で訴えられたらそれこそ困ります……気をつけるように致しましょう」
 瓜並はげんなりした顔で、一人頷いていた。



 暫く瓜並と話をしてから、警察署を後にしたトシは、すぐにでも警視庁へ戻ろうと、タクシーをさがしていた。ようやく一台のタクシーを止めることに成功したのと同時に、携帯の呼び出しを受けた。
「あ……篠原さん。事件ですか?」
『おい、お前、変な女が受付にお前を訪ねてきてるらしいぞ……』
 篠原の言葉に一体誰だろうと首を傾げつつも、トシはあの女性が訪ねてきているような気がした。
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