Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第8章

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『……で、例の件、どうなんったんだ?』
 リーチがふと思い出したようにトシに聞いてきた。だが聞かれたところで、数日前、幾浦からうち明けられたことは、以後、話に出ないのだ。なんとなく聞くのを躊躇われていたトシだったから、こちらから聞くこともしなかった。
『……なにも、別に話してないから分からないよ……』
 食堂で、ようやく昼食を食べ終えたトシはお茶を飲みながら窓の外の景色を眺めた。
『お前らって、いつも、こうなんていうか、肝心な話をしねえよなあ……』
 呆れたようにリーチは言う。確かにトシも例の件がどうなっているのか聞いてみたいのだが、幾浦が話そうとしないのだから余計に口にできないのだ。なにより、進展していないのかもしれない。
『別に……数日前のことだし、恭眞は現場を押さえるって言ったから、そういった話を他の住民の人ともしなくちゃ駄目だと思うんだ。それって、土曜の夜にたいていするらしいから、今はとりあえずなにも進展してないんだよ』
 ふうと息を吐いて、トシは湯飲みをテーブルに置いた。
『ユキがもしそんな目にあってたら、俺、有無を言わさず、そのむかつく女に詰め寄って吐くまで問いつめるけどなあ……。あ、違う。俺が嫌がらせをして逆にその女を追い出してやるぜ』 
 リーチは過激なことしか言わない。そんなことをしたら犯罪だよ……と、言いたいが、昨日の晩から入った仕事で振り回されていたトシは眠くて仕方がない。
『もういいよ。それより僕は眠いよ……』
『最近無理心中が多いからな。事件性があるのかないのか確認するだけでも大変だけどよ、殺した奴まで自殺してるからどうしようもねえな……』
 リーチは元気でいい。
 ずっと後ろにいたからだ。
 確かに主導権を持つのはトシにとっても嬉しいことなのだが、自分の週にこうも立て続けに新しい事件が飛び込んでくると、代わって欲しいと言いそうになる。だが、リーチの場合、交替するとすぐに暇を見つけて名執のうちに入り浸ろうとするのだから、トシは気軽に言えないのだ。
『そういう季節なのかな……』
 当たり障りのない返事をして、トシはもう一度お茶を飲んだ。
『季節って……お前、俺の話、聞いてねえだろ』
『……もう、ごちゃごちゃ言わないでよ。いろいろ頭が痛いことばっかりなんだから……』
 自分のプライベートであるなら、利一を忘れてテーブルに突っ伏したいところだ。
『心配してるんだろ~これでも』
 ムッとしたようにリーチは言う。
『……分かってるけど……』
 リーチが気にしていろいろ話しかけてくれるのは分かっていた。だが、ちっとも良い案を出してくれないのだ。トシができることならいいが、やれ、問いつめるだの、嫌がらせしてやるだの言われても、実行できるわけなどない。
 いや、リーチならやっていただろうが、トシは違う。
『あ、俺、いいこと思いついた。幾浦の行った警察署に行こうぜ。で、例の女の話を詳しく聞いてきたらいいんじゃねえの?こういうのは担当した警官に聞いた方がいいだろうし、篠原の話じゃあ、よく分からなかったからな。伝言ゲームみたいに伝わる話はどこかで歪んで違ったことになってる場合もあるだろ?行ってみたらどうなんだよ』
 たまにはいいことを提案するとトシは思いつつ『そうしてみる』と同意すると、空になったトレーを持って立ち上がると、篠原がちょうど食堂に入ってくるのが見えた。
「隠岐。なんだよ。俺を放って先に飯か~……ずるい」
 口を尖らせながら、食券を振り回している篠原は、上司の里中に呼ばれていたのだ。だから先に食堂にトシは来たのだが、篠原からすると気に入らない様子だった。
「だって、篠原さん、里中係長に呼ばれていたでしょう?私、もう、堪らなくお腹が減っていたので先に来たんですよ。別に置いてけぼりにしたわけじゃないです」
 ははと笑って、完全に利一モードでトシは答えた。
「なに食べたんだよ?」
「本日のランチときつねうどんを食べました。満足です」
「げ~……お前またそんなに食べたんだ。よく食べることは知ってるけど、徹夜明けでそりゃ、すごいと思うけど……」
 ちょっぴり嫌そうな顔で、篠原は言った。
「篠原さんはなにを食べるんですか?」
 篠原が持つ食券を覗きながらトシは聞いた。
「……俺は、きつねうどんだけ。やなものばっかりみたから、食欲減退してるんだと思うよ。しかも徹夜。同じ条件でそれだけ食べたお前はさすがだ」
 褒めているわけではなく、呆れているのだろう。
「もっと食べないと、体力持ちませんよ」
 心配そうにトシは言うのだが、篠原はげんなりした様子で手を振って行ってしまった。
『おい、篠原に同期の名前を聞いておけよ』
 そのまま離れていこうとしたトシにリーチが慌てて言う。今から幾浦が相談した警察署に向かうのだから、確かに聞いておかなければ困ることになるだろう。
『あ、忘れてた……』
 立ち止まって振り返ると、篠原はちょうどトレーにきつねうどんを食堂のおばさんから手渡されているところだった。
『おいおい。会いに行くお前がそんなことでどうするんだよ……』
『分かってるって』
 篠原がトレーを持ってテーブルについたところで、後ろから追いかけてきたトシが声を掛けた。
「篠原さん。ちょっといいですか?」
 箸を割ろうとしている隣に座り、トシはにこやかな表情を浮かべた。
「なに?昼からのつぶしの件?」
「違いますよ。ほら、以前、幾浦さんの話をしてくださったでしょう?それでちょっと伺いたいことがあるんです」
「え。あ。そう言うこと話したよな……」
 天井を見上げるようにして、篠原は箸を割る。
「それで、幾浦さんの相談にのられた警官はどなたですか?私、やはり友人のことが心配ですので、ちょっと担当された方の話を聞いてこようと思っているんです。よかったら、教えていただけます?」
 篠原が利一と幾浦の関係に不信を抱くとは思えないが、友達ということを強調しておいたほうがいいだろう。もっとも、随分前に起こった事件の時でも、よくよく考えると命の危険を冒してまで利一が出かけていったことと、幾浦が崎斗を撃ち殺したことを考えると勘ぐってもいいような気がするが、篠原の頭にはそういった考えは一切ないようだ。
「瓜並だよ。みんなからうり坊って呼ばれてる」
 笑ってはならないのだろうが、思わずトシはクスリと笑いを漏らした。
「笑ってやるなよ~。あいつ、あれでも、うり坊って言われるのすっごく嫌がってるんだよな。でも、仕方ないか。定着してるんだから」
 篠原もトシのつられて笑う。
「……すみません。つい、笑ってしまって。瓜並さんですね。分かりました。尋ねていきます……え~っと……三時には戻るようにしますね。何かあったら携帯を掛けてください。すぐに合流しますから」
 腕時計で確認をして、トシは顔を上げる。
「分かった。よろしく言っといて」 
「はい。じゃあ、行ってきます」
 ようやくトシは食堂を後にすると、幾浦の地域を管轄している所轄に向かった。



 警察署にはいろいろあって、新築で近代的な建物もあれば、いつ建てられたのだろうと思うほど老朽化しているものもある。いま、目の前にしている建物は後者だった。
 潰れることはないだろうが、外壁にはあちこちひびが入っていて、それを隠そうと塗装されているのだが、壁の色より若干色味が明るいために余計に目立ち、さらに古い印象をあたえてしまう。
 窓には格子がはめられているのだが、カーテンくらい閉めて置いたらいいのに……という、荷物ばかり積み上げられた部屋が丸見えの場所や、いかにも使っていませんという古ぼけた机が積み上げられている部屋などが外からも見え、警視庁があまりにも近代的な建物であるので、この落差にトシは唸りそうだった。
 玄関には警官が一人立っているのだが、そちらは背筋をピンとはっている。とはいえ、バックにある建物がこれでは様にもならず、浮いたようにしか見えない。
『……うわ~ひでえ……』
 トシが感じたようにリーチも同様に感じたようだ。
『……うん。確かに……』
 苦笑してトシは、玄関を通り、受付で自分の身分を明かして瓜並がいるかどうか聞いた。受付の女性は利一を知っているのか、名刺を見せた瞬間に頬を赤らめて、視線を避ける。何処まで行っても利一は有名人のようだった。とはいえ、トシからするとその反応は自分に向けられたものには思えない。
 利一はトシでもなくリーチでもないからだろう。
「あ、瓜並さんです……」
 内線を掛けようとしていた女性は受話器を下ろして、指を差した。
「え……」
 振り返ると、警官姿の若い男が階段を下りてくるところだった。
「瓜並さん。警視庁の隠岐さんが来られてますよ~」
 ちょっと踊ったような声で受付の婦警は言うと、「え?」という顔をしてこちらにやってきた。
「こんにちは。警視庁捜査一課の隠岐利一と申します」
 軽く会釈しすると、瓜並は驚きつつも、嬉しそうに頭をかいて「いつも篠原さんからきいてます……」と言って照れていた。
「あの。実は、篠原さんから伺ったことで、こちらに参ったんです。私の友人がこちらに相談に来たそうで……あ、友人の名前は幾浦恭眞と言います」
「あ、やっぱりあの幾浦さんでしたか。聞いた名前だな……と思っていたんですよ。隠岐さんの受け持っていた大変な事件に巻き込まれた方ご友人でしたよね?」
 驚きもせずに瓜並は言う。
「そうなんです。ストーカー疑惑をかけられていると伺ったので、どういった状況で、どんな女性なのか瓜並さんにお伺いしたいんです。あ、刑事としてではなくて、友人のことですから、個人的に……です」
 トシが話すと、瓜並は困惑したような顔をした。
「実は、その女性がまた来てるらしいんです。どうします?同席されますか?」
 瓜並の言葉にトシはすぐに返答ができなかった。
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