「日常の問題、僕の悪夢」 第14章
『俺が、トシをたぶらかしたって言えよ……』
むっつりしながらもリーチはそう言った。
『そんなの言えない』
確かにそうなのだろうが、幾浦のことをちょっぴり信じられないと思ったのはトシだ。その責任をリーチに追わせることなどトシには絶対にできない。
『……別に俺はいつだって悪役だからいいぜ』
相変わらず不機嫌にリーチは言う。だが同じように機嫌を傾かせた幾浦が見える。
どうしよう……。
僕、本当に頭に血が上っていたんだよね……。
「トシ……どうなんだ?」
「……ちょっとだけ……その……」
誤魔化すような笑いをトシは浮かべてたが、幾浦は口を引き結んだままだ。こういう幾浦を宥める方法などトシには考えられない。かといってリーチに責任を押しつけることもトシにはできなかった。
「……恭眞……その……あのね……」
とりあえず何でもいいから幾浦の機嫌を戻そうとトシが口を開くと同時に、轟音と共に立っていられないほどの揺れがトシ達を襲った。
「トシっ!」
幾浦はとっさにトシの身体を抱き込んで床に伏せる。家具や電灯が今にもこちらに向かってくるほどの勢いで揺れる。
暫くすると揺れも収まったが、トシは放心状態で何が起こったのかすぐに判断が付かなかった。
『おい、こいつは地震じゃねえぞ……』
リーチの声にようやくトシは理性を取り戻した。すると自分の上に覆い被さっている幾浦が先に顔を上げて周囲を伺っているのが見える。こういう状態であるのに、頼もしい自分の恋人にトシは思わずほうっと見とれてしまった。
「大丈夫か?」
幾浦はトシを抱えたまま身体を起こし、膝を立てた。
「う……うん。ありがとう、恭眞……」
守ってもらえたことが嬉しくて、トシは幾浦にすり寄った。これがトシの恋人なのだ。やはり幾浦と出会えてよかったと、一人でにやけていると、リーチの呆れた声が聞こえた。
『あのなあ、お前、自分の職業忘れてるだろ。さっさと立って外の様子を窺えよ。それとも俺が変わろうか?』
『え……あ、ううん。大丈夫。そうだよね、何か事件かもしれない』
「トシ……」
抱きしめようと回してきた幾浦の手を払ってトシはベランダの方へ走った。幾浦が後ろで呼び止めようと叫んでいたが、トシの耳には入っていない。事件が起こったのだという仕事への責任感がトシを動かしていたのだ。
ベランダに出ると、薄い煙が下から立ちのぼっていて、いつの間にか鳴りだした火災警報が建物全体を震わせていた。
『……このマンション、燃えちゃうと思う?』
『燃えることは無いだろうけど、火は出てるな……』
リーチの言葉に、トシが下を覗いてみると、真ん中当たりにある部屋から出ていて、火が出ているのが見えた。
周囲を伺うとトシと同じようにベランダに出て眺める人達の姿が沢山みられ、パトカーや救急車、消防車がこのマンションに向かって走ってきた。
『……ガス爆発かな?』
できるだけ身を乗り出して下を覗きながらトシはリーチに聞いた。
『さあな、それより、下へ様子を見に行かないか?』
『うん。状況を把握したいね』
振り返ると幾浦が、いきなりトシの手を掴んで玄関へと引っ張った。
「きょ……恭眞っ……」
「さっさと避難するぞ。全く……こういうときは仕事を忘れろ。いや、殺人事件ではないだろう。どこかの住民がガスの取り扱いを間違えたに違いない」
幾浦は逃げだそうとしているが、トシは下へ様子を見に行きたくてウズウズしているのだ。
なにより、今時、手違いでガス爆発など起こすような人間はいない。自ら意図して引き起こしたか、それとも全く違う理由なのかどちらかだ。
「恭眞……僕、仕事だから……」
部屋を出て沢山の住人達と合流し、非常階段を下りながらトシは言ったが、幾浦はこちらを見ようともしない。
「……恭眞……」
もう一度トシが声を掛けると幾浦はようやくチラリとこちらを見下ろした。
「駄目だ。」
『……なあ、トシ、俺と交替しろ。お前じゃ、幾浦を振り払えないだろ?ていうか、ガス爆発にしちゃ、でかい爆音と振動だった。ガスじゃないかもしれない……』
リーチの言葉に、トシも仕方なしに身体を譲ることにした。こういう場合は、リーチが主導権を持つ方がいいのだ。
『……分かった』
ため息をついてトシはリーチに主導権を渡した。
しっかり掴んでいたはずの手をいきなり振り払われて、幾浦は驚いた。気がつくと既にトシが幾浦を置いて今降りてきた階段を上へ走り出している。
「トシっ!」
慌てて幾浦が走り出す。
「トシっ!駄目だっ!」
「私は刑事ですから、幾浦さんは避難してくださいっ!」
肩越しに叫ぶトシの姿は、いつもとは違う雰囲気が漂っているのが幾浦には分かった。
リーチか……?
多分、そうなのだろうが、二人が一人の中に入っているのだ。だから例えリーチであっても危険な目には合わせられない。
「どっちでもいいが、外から様子を見てからにしろっ!」
叫ぶ幾浦のことなど耳を貸さず、リーチは四階のフロアに出る非常口を開けて飛び込んでいった。
どうしてあいつは危険にいつでも飛び込んでいくんだっ!
沸騰しそうなほど頭に来ていた幾浦だが、やはり放置することができず、幾浦も四回のフロアに足を踏み入れた。
「なんだこれは……」
奥から二番目の部屋があっただろう場所から火と煙が出ていて、通路が抉られている。上部からはワイヤーや配管が剥き出しになって垂れ下がり、もうもうと煙が出ていた。
一体、何が爆発すればこんなことになるのだ。
いや……まて。
この部屋は……確か、あの女の……。
眉間に皺を寄せながら、リーチが様子を窺っているところまで、幾浦は口を押さえつつ近づく。すると、リーチはこちらを振り返らずに『来るな』とでも言うように後ろに手を振った。
「……これはガスじゃないですね……」
ぽつりとリーチは呟いて、周囲を見渡し、通路に設置されている消化器を掴んだ。
「リーチっ!」
ごほごほと咳き込みながらリーチの側まで近寄ると、同時に勢いよく消火剤が放たれる。その表情は真剣そのもので、幾浦は暫く声を出さずにリーチの行動を見守っていた。
だが、火の勢いは小さな消化器では全く歯が立たず、ますます燃え広がる様子を見せている。こんなところからリーチを早く連れ出さないと二人とも、いや三人が丸焦げになるだろう。
「リーチッ!いい加減にしないと、焼き鳥になるぞっ!」
肩を掴んで引き寄せようとする幾浦を、くいっと腕を動かすだけで払い、リーチは己の行動を止めようとはしなかった。
「リーチ……っ!」
「うるせえよ。どうせすぐに消防車から放水が始まる。この位置にいれば、消火作業を終えた部屋へすぐに入ることができるだろう?燃えやしねえ。それより誰かその辺に倒れてねえか探せよ」
空になった消化器を放り投げ、リーチはこともなげにそう言った。目の前で火が燃えているのにこの落ち着きはなんだと幾浦も驚くほど、リーチは平静だ。
「あ……ああ……」
額を拭い、周囲を見渡すと燃えている部屋の手前の扉が薄く開いて煙が漏れているのが見えた。
「リーチっ!」
幾浦が叫ぶのとほぼ同時に、リーチは扉を蹴破って中へ飛び込んでいく。部屋の中からは取り巻く煙よりも濃い色の煙が吹き出してきた。
「リーチッ!待てッ!危険……」
煙でしみる目が視界を遮り、リーチの姿はかき消える。幾浦が目元を擦ろうとした瞬間、水の束がどこからともなく降り注いだ。