Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第20章

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 マンションまで来ると、昨晩よりは人が減っていたものの、消防関係者や警察、報道陣の姿もあり、ざわついていた。そんな中、困惑したような顔でマンションを眺めている管理人を見つけて、トシは駆け寄った。
「佐藤さん。こんにちは。大変でしたね」
 トシの声に佐藤は弱々しいながらも笑みを浮かべて振り返る。
「ああ、隠岐さん。困りましたよ。管理会社からは責められるし、消防からも警察からも散々住人のことを聞かれましたからね。もちろん、私だってねえ、爆弾なんかうちのなかに持ち込んでいるような住人だって分かっていたら、警察に通報していましたよ」
 すでに老人と言われる年齢の佐藤には、さぞかし肩の荷が重いことだろう。
「奥さんはどうされています?」
「部屋で寝込んでます」
 はあ……と、ため息をついて佐藤は肩を竦めた。すでに丸くなっている背が、もの悲しく見える。
「……まあ、なんですか。住人の方はみなさん同情的で、私も少しだけ気持ちが楽なんですが、南さんの問題が出ていたときに、私がもっと強く話していたら、こんなことにならなかったんじゃないかと思うと……」
 佐藤はポケットからハンカチを取り出して、目頭に押さえつけていた。
「私も、友人の幾浦さんからお話をチラリと聞いていましたが、いろいろと問題をおこしていらっしゃったようですね」
「ええ。もう、私も随分とあの南さんにはお話ししたんですよ。全く聞き入れてもらえませんでしたが……。ああ、ここではなんですから、管理人室にいらっしゃいますか?お茶でも淹れますよ。家内も隠岐さんの顔をみたら喜ぶでしょうし。私も立っているのが辛い」
「ごちそうになります」
 トシは笑顔で答えると、佐藤は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして嬉しそうな笑顔を浮かべ、歩き出した。
「そういえば、アルちゃんのことを隠岐さんは聞いてらっしゃいませんか?最近、幾浦さんから預かってくれと頼まれることがないので、心配しているんですが」
 幾浦が長期の出張や、仕事でマンションに帰ることが出来ないとき、いつもアルを預けていたそうだ。犬好きの老夫婦にとって、アルは日常で癒し的な存在になっていたようだ。アルの方も、我が子のように可愛がってくれる佐藤夫婦になついていたらしい。
「いま、幾浦さんのお仕事が忙しいらしくて、ご兄弟に預かってもらっているそうですよ。あまり長期間、佐藤さんにお願いするのも申し訳ないと幾浦さんはおっしゃってました。お仕事が一段落したら、またこちらに戻ってきますよ」
「そうですか……お仕事が。そんなときに、住民の意見を聞いてもらっていたのですね。いや……申し訳なかった」
 エントランスを見渡せるような作りになっている部屋に佐藤は入り、トシは促されるまま管理人室に入った。すると寝込んでいると聞いていた、佐藤の妻である佳枝がキッチンに立っていた。
「お邪魔します……」
「あら、あらあら、隠岐さん。いらっしゃい。来られるのを聞いていたらもう少し綺麗にしていたのに……散らかっていてごめんなさいね」
 佳枝は小さな身体を動かして、トシに座布団を勧めてきた。
「お体、どうですか?いろいろご心労でしょうし、無理されないで横になって下さいね。私に気遣いは必要ありませんから……」
「もしかして、隠岐さんがこの件を担当されていらっしゃるの?」
 佳枝は急須に茶の葉を入れながらトシと夫を交互に見た。
「いえ。私は係が違うので担当ではありません。事情聴取なんてしませんよ。ただ、近くまで来ましたので様子を見にやってきたら、ご主人さんにお会いしたんです」
 頭を掻いて、トシは苦笑した。確かに知り合いであっても、事情聴取などされるとあまり気持ちのいいものではないだろう。ただ、今回は本当に係が違うため、トシの出番はない。幾浦が絡んでいるから気になるだけだ。
「……ところで、幾浦さんからも聞いているのですが、その、南さんって方、大変な方だったそうですね。いろいろと住人と問題を起こしていらっしゃったとか」
 佳枝が茶の準備をしている間にトシは佐藤に問いかけた。
「ああ、そうですよ。本当に困っていました。もしかすると、恨みを買って爆弾をしかけられたんじゃないかと、妻とも話していたんですよ。でもねえ、爆弾なんて、一般の人間が簡単に手に入れられるものじゃないでしょう。しかも、あの南さんは最近入居された方でしたし、誰かを自宅に呼ばれているのは見たことありませんでした。しかもどういった仕事をして、何をされていたのか、結局、よく分からないんですよ」
 う~んと、一つ唸って佐藤は腕組みをした。
「ここって、住民の入れ替えは頻繁なんですか?」
「いえ、ちょうど、そうですね。幾浦さんのお住まいは買い取りになってますが、こちらのマンションの五階までは賃貸なんですよ。居心地がいいのか、なかなか入れ替えがありませんね。ですので、ちょうど南さんが入られたときに、三人新しい方がこられまして、珍しいこともあるのだと、よく覚えているんですが。確か……一人が学生さんで、もう一人は単身赴任のサラリーマンでした。南さんは自称デザイナーとおっしゃっていましたが、怪しいものですよ……」
 佳枝が配る湯飲みを手に取り、佐藤は気持ちを静めるようにお茶を飲んだ。
「デザイナー……ですか」
 南を思いだしてみたが、デザイナーという職業に就いているようには見えない。
「ね、隠岐さんもそう思うでしょう?」
 湯飲みを配り終えた佳枝が佐藤の隣にちょこんと座って、興味深げな顔を向けてくる。
「人は見かけによらんからなあ……」
「ここの家賃はどのくらいの金額なんですか?学生さんや、サラリーマンという方達が借りられるんですか?」
 幾浦の部屋だけしかトシは知らない。間取りが同じだとは思わないが、下の階も広いに違いない。そうなると、家賃も高額になるだろう。
「学生さんはご両親が支払っているんですよ。サラリーマンの方は、若い方ではなくて役員クラスの方ですね。家賃は会社が支払っていたはずですよ。通勤に便利な場所だそうで……」
「その人達が怪しいのかしら?」
 会話を聞いていた佳枝が嬉しそうに聞いてくる。
「え……いえ。そういうわけじゃないですよ。私が住んでいるところが小さなコーポなので、家賃を聞いてみたかっただけなんです」
 誤魔化すようにトシはそう言って鼻の頭を掻いた。
「……ああ、そういうことですか。そうですね。間取りによって変わってきますが、立地条件もいいですし、一番安い部屋で月十五万ですね。もともと、ご家族が住めるように広く間取りがとられていますので、最低でも二LDKなんですよ」
 十五万という数字に、トシは笑うことも出来なかった。自分達が住んでいるコーポは2kしかないのに、ただ寝るだけに月八万も払っている。もちろん、都内に住んでいるということで家賃の補助金はあるが、それでも家賃はトシ達の生活を圧迫していた。
「……どう考えても無理ですね。はは……十五万もするんですか……すごい……」
「このマンションだと、安い方でしょうね。幾浦さんのところは買い取りですが、この不景気でも億に近いですよ。隠岐さんも出世しないと」
 笑いながら背を叩いてくる佐藤に、トシは苦笑いを返した。
 公務員でキャリアでもないトシ達に、大金が舞い込むような出世など望めない。いや、もともと出世に興味がないのだからどうしようもないだろう。なにより、トシ達自身が自宅のコーポを癒しの場にしていないのだから、寝るだけに帰るうちに金を投資することもないのだ。
「いえその……私の出世は……はは」
「そういえば、隠岐さんはご結婚なさらないのかしら。お相手がいらっしゃらないのなら、私がいい人紹介しますよ」
 佳枝は立ち上がり、部屋の端のキャビネットの引き出しを開けて、なにやらごそごそと探し始めた。
「あのう……私、付き合っている方がいますので……それはちょっと。佐藤さん、それで、学生さんとサラリーマンの方ですが、何かお顔の分かる写真はありませんか?良かったら見せてください」
 怪訝な表情を見せる佐藤に、トシは慌てていった。
「実は……例の南さんですが、所轄にこちらの住民からストーカーされていると訴えてこられているんです。それで、新しく入居された方の情報がありませんので、ご存じかどうか教えていただきたいと思ってうかがいました」
 仕方なしにトシは今作った話を佐藤に言った。完全に間違いではないからなんとか誤魔化せるに違いない。
「ええっ。あの南さんは警察にまで問題を持ち込まれていたんですか?」
 佐藤は驚いた声を上げた。
「そうなんです……」
「……それなら、仕方ないですね。隠岐さんは刑事さんですし、問題はないでしょう」
 佐藤は渋々立ち上がり、先程佳枝が開けていた引き出しの下から台帳を取り出して、トシのところまで持ってきた。
「学生さんは『中村勇二』さん。サラリーマンは『津村章二』さんです。どちらもストーカーなんてされるような方には見えませんよ。ただ、新しい方ですのでよく分かりませんね。朝、顔を合わせる位で……」
 トシは見せられた台帳に載っている中村と津村のことを手帳に書き留めてポケットに戻した。同時に携帯が鳴る音が聞こえて、トシは佐藤に断り携帯を取った。
「はい。隠岐ですが」
『トシ、南から何故か私に電話があったんだが、どうすればいいと思う?』
 相手は幾浦だった。
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