「日常の問題、僕の悪夢」 第6章
「怖いよ……それ。警察に言わないと……あっ!」
思わず漏れた言葉に、トシは肩を竦める。幾浦は既に相談を終えていて、もうその必要はなかったのだ。トシはすっかりそのことを忘れていた。
「だから、警察に相談に行ったんだよ」
トシの額にキスを落として、幾浦は髪を撫でさすってきた。
「……でも、やっているところを見たわけじゃないんだよね?」
「現場を押さえられたら、もう少し、警察も動いてくれるんだろうが……。こういう問題はデリケートだからなかなか難しいと言われたよ。まあ、警察の言うことも分かるんだが、できたら私は、ほんの少しでいいから親身になって貰えないかと思ったよ。ああ、トシが所属している警察を非難しているわけじゃない。ただ、困っているのは確かだから、できたら警察のような権威のあるところが介入して欲しいんだ。そうすれば彼女も少しおとなしくなるだろうと思ってね。このままエスカレートしたときが怖いだろう?」
やや表情を曇らせて幾浦はため息をつく。
「……うん。僕も思うよ。でも、警察もいろいろなものに縛られてるから、一般のそういったことになかなか口を挟めないのも分かって欲しいんだ……」
トシも何とか協力したいと思うが、刑事という立場では力になってやれないことが分かり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「分かっているよ。だから、近所の交番に相談に行ったんだよ。とりあえず、このあたりの巡回を強化してくれるとは言っていたね。ただ、ベビーカーまで川に捨てるような女性だから、これからなにをしでかすかを考えると怖いだろう?私もこういった経験がないから対処のしようがなくてね。まあ、彼女の耳には入らないよう、個人的に住民と話し合っているんだが、住民の中にも過激なサラリーマンとか、学生さんがいて、問いつめて追い出してやると言うんだよ。彼らを押さえるのも大変だ」
幾浦がトシの知らないところでそんな相談に乗っていたことを知り、驚くと共になんとなく頼もしく思えた。
「なんだか、恭眞って面倒見がいいんだ……」
「え。あ……まあ、うちにも降りかかってきているからだよ。ベビーカーは生き物ではないから、川から持って帰ってきて、とりあえずきれいに洗って乾かすことで、もう一度仕えるようになったが、彼女はアルにも文句があるんようだから、何かのきっかけで、アルが川に投げ込まれたら……それを思うと、ゾッとしてね。生きているものを対象にそんな恐ろしいことを女性がするとは思わないし、アルも馬鹿ではないから掴まるようなことはないだろうと考えているんだが……」
幾浦の言いたいことがすぐに分かったトシは、アルが川で溺れている姿を想像してしまった。もちろん、アルは泳げるだろうから、溺れることはないのかもしれない。とはいえ、手足を拘束されて投げ込まれたらきっと死んでしまうだろう。
「……恭眞。気をつけてよ……。僕もアルを簡単に捕まえられるとは思わないけど、もし無理矢理捕まえようとして、アルがその女の人に噛みついたりしたら大変だよ。そうすると問題が大きくなるし、もしも目撃者がなかったら、一方的に犬が悪いと言われるから、飼い主の責任問題になるんだよ」
飼い犬が子供を噛む事件は結構日常茶飯事であるのだ。係は違うし、そういった事件を担当したことは当然捜査一課ではないが、昔、警察官になりたての頃、交番にはそういった処理にも駆けつけたものだった。
そこで問題になったのはどちらがより悪いか。ということで、非常に判断が難しい。噛み癖のある犬を放し飼いにするのは言語道断で、飼い主が一番責任を問われるが、わざわざ噛みつかれるようなことをする人間も一部いるのだ。
ただ、小さな子供は、檻に入っている犬に対してもなにも分からずに近寄ってしまうので、噛みつかれた場合、問題がややこしくなる。
「……そうだな。私は噛みついてやれと思うが、本当にそうなると問題が大きくなる。どうしようか……」
う~んと唸って幾浦は考え込んでしまった。
「実家にしばらく預けたらどうかな?遠くてすぐに無理だったら、恭夜さんに事情を話して少しの間だけ預かってもらうとか……」
「……トシ、実家は分かるが、恭夜のところにはあの変人がいるだろう。あんなところにアルを預けたら、どうなると思う?」
目を点にさせて幾浦は呆れていたが、トシは別に問題はないと本気で考えていたのだ。ジャックは確かに変人で、言葉を交わすともう、なにがなんだか分からなくなるのだが、相手は犬だ。犬を相手にジャックが説教するとは思わないし、動物を苛めるタイプとは思えない。
「そうかな。もちろん、ジャック先生が動物好きとは聞いたことないけど、あの先生が動物を虐待するような人じゃないのは分かってるよ。どっちかっていうと、無関心じゃないかな……」
「なあ、トシ……聞いていいか?」
「なに?」
「どうして先生なんだ?」
「え、あ、うん。昔、FBIへ研修に出されたときにジャック先生の講義を学んだんだ。あのときは今ほど変な人……っていう印象はなくて、僕、すっごく心酔してたんだよ。この世にこんなに頭のよくて、素晴らしい人がいるんだ……って。関わり合うようになってから、一気に覚めちゃったけど……。そのせいかな……僕は昔の名残みたいで、どうしてもジャック先生って呼んじゃうんだ。あれ、言ってなかったっけ?」
話した記憶はないが、トシは幾浦にそのことを話したような気もしたのだ。
「……心酔……」
幾浦の顔は強張っていた。
「うん。でも、随分、昔だよ。直接関わるようになって、こんな人だったの!って驚愕しちゃったけど、当時はもう、先生~先生~って、僕、随分、つきまとっていたような覚えがあるんだ。リーチは最初から近寄らない方が身のためだって言ってたけどね。ほら、僕、その人の本質ってピンと来ないからさ。リーチは野性的な本能が警告するみたい。だから、リーチは嫌がって、あのときずっと、僕が主導権持ってた」
そういうこともあったのだと思い出し、トシは遠い目になりそうだった。直接関わることがなければ未だにジャックのことを素晴らしい先生だと思い続けていたかもしれない。
「それは……恋愛感情が絡むような心酔か?」
ムッとしたような表情で幾浦は言う。
「え、違うよ。僕って、自分にないものを持ってる人ってすごく尊敬しちゃうんだ。ジャック先生はすっごく変わっていて、関わりたくないって思うけど、やっぱり一流のプロのネゴシェイターっていうのは尊敬に値するよ。たださあ、人の本質を見極められて、たくさんの人を助けてきた人なのに、どうして、あんなに変な人なのか、僕はそっちの方が、不思議なんだ。恭眞はどう思う?」
ジャックを見るといつも考えることはこのことだった。
「しらん。私はあの男の名前を聞くだけでムカムカする……」
こちらに向けていた顔をプイッと逸らせて幾浦は機嫌を傾かせた。
「……まあ、恭夜さんの恋人だから兄として複雑なのは分かるけどさあ……」
トシは苦笑するしかない。
「私はね、今でも、恭夜と奴のことは認めていないんだ。別れるならさっさと別れて欲しいと本気で思っている。恭夜の趣味とは全く違う男とどうしてつきあえるのか、聞いてみたいぞ。いや、あんな男と一日顔を合わせていられるという方が奇跡だ。数分会話を続けるのも苦痛なんだぞ。自己中心、傲慢で、しかも意味不明のことしか口から出てこない。あんな男をどう理解しろというんだ」
腹立たしげに幾浦が言うのを、トシは苦笑いで受け止めるしかなかった。確かに、頷けるからかもしれない。もしも、リーチがジャックと付き合っていたら、トシはもう、泣くしかないだろう。それこそリーチとは離ればなれになれない関係のトシだから、一年でもスリープしてしまうかもしれない。
「ま、まあ、それは、恭夜さんが決めることだから、僕は人が誰を好きになろうとなにも言えないけどね……」
「……アルを預けよう」
幾浦が突然、そう言った。
「え?」
「恭夜にアルを預けることにした。あいつは私にいろいろと迷惑を掛けてきたのだから、犬をしばらく預かるくらい当然のことだ。そうだ。いいぞ。動物を飼うというのは情操教育にもいいというからな。あの男もアルの姿を見て、少しは人間味が出るかもしれない」
ご満悦という顔で幾浦は一人で頷いていた。
「……え~っと……。僕が言い出したことだけど、やめた方がいいかもしれないよ。ほら、アルの気持ちもあるし……」
なんとなく、アルが可哀想になってきたのだ。
「いや。しばらく恭夜に面倒を見てもらう」
幾浦の決心は固かった。