Angel Sugar

「日常の問題、僕の悪夢」 第21章

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「ど……どういうことですか?」
 思わず口調がきつくなるトシに、リーチが横やりを入れる。
『トシ、利一を忘れんなよ……』
『分かってる……』
 分かっているのに、動揺している心が抑えられなくなっていた。とはいえ、佐藤のいるここでは不味いだろう。
「すぐに、かけ直します」
 トシはそう言ってとりあえず幾浦からの電話を切った。外に出て、人気のないところならいくらでも話せると考えたのだ。南のことが絡んでいるため、どうしても口調はきつくなり、利一モードで話すのが辛いから。
「お仕事ですか?」
 佐藤の言葉にトシは頷いた。
「また、ゆっくり遊びに来ますね。今日はいろいろとおうかがいして済みませんでした」
 立ち上がってトシは軽く頭を下げると、佐藤夫妻ににこやかに送り出されながら、マンションの敷地を足早に出た。
 周囲にはまだ実地検証をしている消防職員や警官の姿が見られたため、トシは道を下ると人気のない路地裏に入る。そこでもう一度携帯を取りだして幾浦に電話を掛けた。電話は直ぐに繋がった。
「もしもし……」
『悪いな……仕事中』
 幾浦の声はいつも通りだ。
 だが、幾浦がわざとそういう自分を演じている可能性だってある。そんなことをフッと考えたトシは、自分の嫌な一面にうんざりしそうになった。幾浦を信じるとあれほど心に決めたのに、ちょっとしたことでぐらついている意志の弱さに情けなく思うのだ。
「ううん。さっきは、恭眞のマンションに行ってたんだ。管理人の佐藤さんにいろいろ事情を聞いてた」
 気持ちを落ち着けて、トシは誰もいない場所でそう言った。
『そうか。邪魔をして悪かった。日中だからメールにしようかと思ったんだが、私も驚いてね。どうしてあの南さんが私の携帯番号を知っているのか、それは後でまた問いつめたらいいんだろう。それより、会ってくれと言われたんだ』
 会ってくれと言われた……って。
 南のように何か後ろめたいことがあって、警察から逃げている場合、自分にとって一番、信頼の置ける相手に連絡を取るはずだ。たいてい、信頼の置ける相手とは肉親や、両親などがそれに該当する。
 そして南は幾浦に連絡を取った。
 南からして幾浦が信頼の置ける相手なのだと分かる。
『……リーチ、どう思う?』
 トシは答えに窮して、リーチに問いかけた。
 今、自分が考えたことを否定して欲しかったのかもしれない。だが、リーチはあっさりとトシが考えたことと同じ答えを口にした。
『……もっとも、普通に考えたらそうなるけどよ、南って奴は胡散臭いから、どこまで該当するかどうか微妙だな。確かに俺はあの女を見たとき、何か隠しているような気はしたが、でかいことをするようには思えなかったぜ』
 慰めてくれるつもりでリーチは言ったのだろうが、トシの助けにはほど遠い。
『よく分からない……』
 トシは情けない声しか出ない。
 混乱をどうにかして抑えようとするのだが、何故?ということばかり頭を支配して回らないと言った方がいい。
『……トシ?』
 幾浦が黙り込んでしまったトシを心配するかのように、窺うような声が聞こえる。
「あ……うん。ごめん。どうして南さんが恭眞に連絡を取ってきたんだろうって考えてたんだ……」
 疑うことはしていない。
 だが、一つずつ考えていくとどうしても幾浦と南が何か関係があったとしか思えない自分が嫌だった。
『……私が知りたいよ……トシ。ああ、疑わないでくれよ。この状況で、こういうことを言っても仕方ないと思うが、私は誓ってあの女性とは何もなかった。ストーカー行為もしていない。それに、下着泥棒もやってないぞ』
 ムッとするわけでもなく、幾浦は淡々とそう告げた。
「信じてるから……大丈夫」
 それは自分自身に言い聞かせているような言葉だ。
『で、私はあの女と会った方がいいのか?どうしたらいい?』
 幾浦の言葉に反応したのはリーチだった。
『会うように伝えろよ。俺達もそこに行って、あの女をとっつかまえればいいさ。そのまま所轄に連れて行ったら、面倒もないだろう?』
 嫌な場面を見たらどうしよう……。
 トシはリーチの提案に、直ぐには頷くことができなかった。
『トシ……警察に連絡した方がいいか?』
 トシの気持ちを何処まで分かっているのか、幾浦は更に問いかけてくる。
「……え、あ、うん。所轄の瓜並さんに連絡してくれたらいいよ。恭眞も知ってるよね?」
『ああ、確か、あの女のことで相談に乗ってもらった人だ』
 思い出すような声に、トシは「そうそう」と相づちを打つ。
『それで、なんて言えばいいんだ?連絡があって会いたいなどと言われたと話したら、誤解されないだろうか……』
 深いため息をついて幾浦は言う。きっと電話向こうで肩を竦めているに違いない。その様子が手に取るようにトシには分かった。
「南さんから何処で会うか決まったら、僕に連絡くれる?瓜並さんへはその後、連絡したら良いと思う。ただ、ややこしいことになったら誤解されてしまうから、絶対に一人で会いに行かないでね。警察の人と一緒に会いに行った方がいい。きっと分からないように周囲で張り込んでくれるはずだから。それに、僕も、心配だからどうにかして必ず行くよ。それなら恭眞も安心でしょ?」
『……ああ、そうだな。そうするよ。そうか、警察の人と一緒に行けばいいんだな。それなら、私もあの女に会ってもいい。もっとも、会えば何を口走るか分かったものじゃないが、誰ももうあの女のことは信用しないだろうな』
 苦笑しているような幾浦の笑い声が聞こえる。幾浦もほとほと困っているのだろう。
 もし、仮に幾浦が一人で会いに行くと言えば、やはり後ろめたいことがあるのだと、また疑っていたかもしれない。だから幾浦が警察の人間と行動を共にしてくれると言ったことで、トシは胸を撫で下ろすことができた。
「……でも、どうして南さんは恭眞にばっかり迷惑かけるんだろう……」
 疑っているから出た言葉ではなく、単に疑問としてトシは幾浦に投げかけた。
『多分、マンションでもめていた件で私があまりにもあれこれ忠告をしたものだから、気にくわなかったのかもしれん。もっとも、普通は多少問題のある住民がいたとしても、これほどの騒ぎはならない。大抵、みんな、気を使って言いにくいものだ』
 疲れたような声で、幾浦は言った。
 本当に疲れているのだろう。マンションの組合で決まったこととはいえ、人になかなかこういうことは言えないものだ。
「恭眞、じゃあ、南さんからまた連絡があったら、直ぐに連絡してね。今日に限っては忙しくても絶対に恭眞の電話を取るから……」
 気分が少し良くなったトシは、明るい声で言った。
『分かった。連絡があったらトシに折り返しかけるよ。その後、所轄の方へ連絡を入れて会うことにする。これで決着が付くといいんだが……。また根も葉もないことを口にしそうで考えただけでも頭が痛い』 
「決着つくよ。きっと。大丈夫。恭眞には刑事の僕がついてる。頼りにして」
 トシの言葉に何故か幾浦は笑った。



 そろそろ時間なんだが……。
 腕時計で時間を確認すると、約束の七時は過ぎていた。
 幾浦は、はあっと息を吐き出し、薄暗い公園を見渡す。
 夕方、また南から連絡が入った幾浦は、待ち合わせ場所を決め、すぐさまトシに連絡を入れた。その後所轄に連絡を入れ、瓜並と打ち合わせをしてから、ここにやってきたのだ。
 周囲は静まりかえってはいるが、あちこちに刑事が身を隠してくれているはずだった。こちらからは見えないし、何処で様子を窺っているのかも分からない。それでも一人ではないと言うことが安心感に繋がる。
 トシもどこかで幾浦の姿を見てくれているのだろう。
 やっかいなことに巻き込まれてしまったな……。
 自分がどうしてこんな目に遭っているのか、未だによく分からない。何かトラブルでも起こしただろうかと考えてみるものの、思い当たる節が何処にもないのだ。南という女にしても過去会った覚えもないし、同級生だったということもない。だったら、何処にこれほどつきまとわれる理由があるのだろうか。
 何度目かもう分からないため息をついて、幾浦は公園に設置されている長いすに座ろうとした。その時、小さな声が聞こえた。
 どこからか、分からない。
 ただ、なんとなく、木が茂っている方からだったように思えた幾浦は、椅子に座ることをやめ、その背後に広がる木々を眺めた。
 耳を澄ませていると、やはりまた小さな声が聞こえる。声と言っても呻き声のようだ。
 幾浦は、警察から支給されたマイクに向かって「後ろの林から声が聞こえるような気がするのでちょっと見てきます」と言った。
 だが、言ってから、誰かに見に行ってもらえば良かったと後悔しつつ、石段を上がり、森のようにも見える林に足を踏み入れた。
 踏みしめる草が、キュッと言う音を立て、静まりかえった夜の公園に響く。気味が悪いな……と、思っているとなにやら黒い影が木の上からぶら下がっているように見えた。
 なんだ?
 よく見ようと近づくと、呻き声がまた響く。それは黒い影に近づけば近づくほど、大きくなり、幾浦はペンライトをポケットから取り出して、真っ黒な影に向かって当ててみた。
「うわっ!」
 木の枝に、ぶら下がっていたのは南だった。
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