「真実の向こう側」 第2章
自分のデスクに冬夜がようやく戻ってくると海堂の方から声をかけてきた。
「あ、それ、俺も探してたんだよ……」
冬夜が持っている資料を見て海堂は嬉しそうに言った。だが海堂は自分からあまり資料を探しには行かない。大抵冬夜が探してきた資料を見ては俺も探していたと言うのだ。それはいつものことだから気にならない。
「そうですか。一緒に見ます?」
「俺は良い後輩を持ったな……良い嫁はもてなかったけど……」
海堂は苦笑しながらそういう。一度、冬夜は海堂の妻である女性を見たことがあったが綺麗な人だった。そうであるからどうして浮気するのか冬夜には理解ができない。
まあ……
よくよく考えると冬夜自身が男性に対してのみ性的なものを感じてしまうせいか、綺麗な女性を見たところで僅かの感動もない。だが海堂は聞くところに寄ると大恋愛の末に結婚したのだそうだ。それが何故かこんな結果になっている。
誰もが本当に好きな人と結婚するのではないのだろうか?それとも幾多の試練を乗り越えて結ばれたとしても、こんな風になってしまうのだろうか?
もちろん海堂は気前の良い人物で、冬夜からすると好感が持てる男性のうちに数えられる。ただ、恋愛のことになると理解が出来ない部分があるだけだった。
僕だったら……
それほど好きな相手と結婚したら……
きっと一生好きでいる。
冬夜の場合、当然好きになり、つき合う相手は男性であるだろうから結婚は出来ないだろう。上手くいって養子縁組が関の山だ。それでも幸せなはずだ。だから浮気など冬夜は当然考えない。いや、考えられない。
好きな相手と日々穏やかに暮らせたら冬夜はそれで良い。例えそれが世間で冷たい目を向けられる関係であっても、二人で日々肩を寄せ合って暮らすことが出来たらそれで幸せだ。
もし……
それが長く続かなくても……
相手がやはり女性を選んだとしても……
僕はその思い出だけで生きていけるだろう。
同性故に追えない。
引き留めることもしない。
それは……
同性だからきっと叶わない想いなのだ。
秘めているだけで行動に出られない冬夜の心は何処かですり切れてしまうかもしれない。
だけど甘い夢として未来を描くことくらいは許されるはずだ。
「浅木……何ぼんやりしてるんだ……」
「あ……はは……すみません。色々考え込んじゃって……」
悟られないように……
いつも冬夜は自分を偽っている。それに対して苦しいと思ったことはない。
男性にしか興味がもてない自分を知っている。そしてそれが世間で認めてもらえないことも同じように冬夜は知っていた。
それが大人なのだ。
「メールのことか?」
何も知らない海堂はそう言って冬夜に心配そうな顔を向けた。
「そうなんですけどね……でも実害があるわけじゃないですから放っておきます」
やはり冬夜は朝話したようにメールで悩んでいることにした。
「あんまり訳の分からない嫌がらせがかかれてくるなら、局のシステム管理者にでも頼んで追いかけてもらえばどうだ?」
「いえ……そこまでする気は無いんです。いずれあきらめると思いますから……」
苦笑しながら冬夜は鼻の頭をかいた。嘘を付いているのが何となく心苦しかったからだろう。
「ならいいけどな……。んじゃそろそろ飯でも行くか?」
こちらの肩をぽんと叩いて海堂は言った。その手は冬夜の肩に一瞬触れただけで離れていく。海堂に恋愛感情はない。だが最近こんなスキンシップに冬夜は飢えていた。
誰かに触れられたい……
随分独り身できたせいで、冬夜自身に欲求がたまっているのかもしれない。
サブキャスターを任された冬夜はテレビに顔が映るようになってから、一夜だけのアバンチュールが出来なくなった。それまでは無茶をするわけではなく、何となく気のあった男とホテルに行くことが冬夜には数度あったのだ。もちろんそのままつきあいになだれ込むことはあったが、大抵は向こうから離れていった。
冬夜は追わない。
そう決めたから醜態を晒したこともない。
今はただ飢えているだけだ。
生理的な欲求だ。それ以上でもなければ以下でもない。甘い幻想をいだきつつも、現実ではかなえられないことを冬夜は知っているからだ。
変だな……
何を考えているんだろう僕は……
さっきからこんな事ばかりで頭を一杯にしていることに気がついた冬夜は、一番のきっかけになった出来事を思い出した。
青柳くんのキスだ……
触れるような軽いキスは、日頃押さえていた冬夜の気持ちをかき立てるのに十分だったのだろう。
なんて事してくれるんだよ……
もう……
暫くこのことで悩まされるかと思うと冬夜は憂鬱になり、心の中だけで密かにため息をつくと、海堂の後を追った。
社員食堂でランチを頼むと、外の景色が見える窓際に移動して座る。ここから眺める景色は最高で、手前には同じ建物は無く地平線とまでは行かないが、広々とした景色が広がり、その遙か遠くに海が見える。
疲れたとき冬夜はいつも窓際に座って、ただぼんやりと眺めていることが多い。
「そう言えば今日のニュースのトップはまた経済情報ですか?」
「だろうなあ……毎日同じトップでうんざりだよ。どかんとでかい山がこないかな……連続殺人とか……な?」
ランチのハンバーグを頬張りながら海堂は笑った。最初冬夜はこういう会話が苦手であったが、慣れると何とも思わなくなった。
誰が死のうが、助かろうが、世界の何処かで紛争が起ころうが、ニュースは日々流れて時に埋もれるだけだ。どれだけ悲惨なニュースも同じように時間に埋もれていく。もちろん完全には消えはしないが記憶の片隅に少し残るだけでまた新しいニュースがやってくるのだから、いちいち気になどしていられない。
仕事だと思うことでそれらが消化されているのだ。
「そんな毎日でかい山があるわけないでしょう……」
何となくおかしくなった冬夜は笑いながらそう言った。
「なんて言うかなあ……心が揺さぶられるような事件が欲しいな。感動でも良いし悲惨でもいい。人が注目してくれなきゃニュースにならない。かといって他社と同じような報道をしていても差別化にならないからな。その中でもうちは結構視聴率を稼いでいると思うよ。やっぱ俺のお陰かな?」
自信満々に海堂は言う。
「それは僕も思いますよ。あんまりほめると海堂さんが天狗になるから言いたくないんですけどね……」
「なんだお前、よく分かってくれているじゃないか……」
38歳の顔がこのときばかりは子供のようになる。
うらやましいことにおおらかな海堂の気性が、悲惨な事件をあつかってもそれらから漂う悲壮さが程良く中和される。それは海堂のもって生まれたキャラクターだ。そして時として大げさすぎるほどのリアクションが、堅いニュースのイメージを変えていた。
冬夜の仕事は、そんな海堂に意見をしたり、一緒に考え込んだりするサブであるからあるいみ楽だった。
世間では漫才コンビなどとまことしやかに囁かれているらしいが実際それを人から聞かされた事はない。
ただ視聴率は同じ時間帯にあるニュース番組より抜け出ているのだけは事実だ。それを冬夜自身は誇りに思い、同じように海堂人柄に惚れていた。
でもこれで……
もう少し愛妻家だったらなあ……
だがそれは求めすぎなのかもしれない。
「お……問題児がきたな……」
小さな声で海堂は言ってこちらを見た。
「問題児?」
海堂の視線を追うと、先程会った青柳がランチを持って歩いているのが見えた。その後ろには数名の女性モデルを従えている。
王者の風格ってこんな感じなんだろうな……
ふと冬夜はそんな風に思えた。
先程、冬夜に見せたような態度はこれっぽっちも見られない噂通りの無口な男を青柳は演じているようだ。引き連れている女性のモデルが何か話しかけていても答えようともせず、さらには視線すら合わせないで髪をかき上げている。あれは先程も見た仕草であったが青柳の癖なのかもしれない。
すごい奴だなあ……
何となく冬夜が感心していると青柳と目があった。
「なんだあいつ……笑えるんだな……」
その言葉に冬夜はどきりとした。
青柳は冬夜の方を向いて、確かに笑ったように見えたのだ。いや見えたと思ったのだ。だが、まさかと思っていると海堂の言葉だ。
では笑っていたのだろうか。
「……そりゃ……モデルですし……」
なんとなく間の抜けたような言葉を言いって、冬夜はランチを食べることに専念することにした。かき乱された冬夜の気持ちがここにきて、またなにやらそぞろ騒がしくなる気配を見せたからだ。
「あいつ……確か、自分から日本に帰ってきたらしいぞ。海外の大きな仕事を振ってさあ……元々あまのじゃく的なところがあるとは聞いていたが、さすがに俺もびっくりしたよ。別にうちでやってる番組をこき下ろすことはしたくないが、青柳が出ている番組なあ……あれはくそだ」
「くそって……海堂さん……」
苦笑しながら冬夜は言った。この言葉を飾らないのも冬夜が海堂に好感を持つ理由になっているのだが、一歩間違えれば大変なことになる。
「やつの輝かしいキャリアはここで地に落ちたなんて言う奴もいるくらいだからな。なあに考えてるのかわからん坊主だし、最近の若い奴は理解できないねえ……。俺だったらでかい仕事の方に行くぜ。くっだらねえ番組に出るくらいなら……だけどな」
「何か事情があったんじゃないですか?例えば家族の誰かが病気になったとか……ほら……とにかく何か日本に大事な用があったから戻ってきたんでしょうし……」
何が理由かは分からないが、とりあえず冬夜はそう言った。ただどうして青柳をフォローしているのか冬夜自身にも分からなかった。
「……まあな。人の事だ。所詮俺には関係ない……っと」
言って海堂はお茶をぐいとのみ干すと食事を続けた。だが冬夜は先程から人の視線を感じ、気になっていた。視線は丁度真後ろから感じ、振り返れば誰が見ているのか分かるのだろうが、そうするといかにも気づきましたという風に見られそうで、冬夜には出来ないでいた。
……気持ち悪いなあ……
ここを離れるときに見てやろう……
急いでランチを口に運ぶと冬夜は素早く食事を終えた。もちろん海堂は冬夜よりも先に食べ終わり、たばこを吸って一服している。
まだ視線はこちらを向いていた。
痛いほどの視線が背から感じ、冬夜はたまらない気持ちになってくる。奇妙にも身体が疼き、体温まで上昇しそうな気配を見せるのだから、己を押さえるのに冬夜は必死だ。
一体なんだって言うんだ……
だがまだ海堂がたばこを吸っているために冬夜は席を立つことが出来ずにいた。
「そろそろ行くか……」
ようやくその気になってくれた……
表情を変えずに冬夜はうなずくと、海堂と一緒に立ち上がり、自然な振る舞いで後ろを振り返った。
……
青柳くんだ……
ずっと冬夜を見つめていたのは青柳だった。
どうしてだろう……
僕を落とすことがそんなに重大なことなのだろうか?
見つめられる理由が分からないまま、冬夜はその視線から逃げるように食堂を後にした。
何かが僕の中でざわめきだしている……
押さえきれなくなりそうなその衝動が冬夜には怖かった。
この日、冬夜にとって最悪だった。昼食後に行われた打ち合わせも上の空で、何度も注意され、後に続く本番のニュースでは大きなミスこそは犯さなかったものの、海堂のフォローが無かったら大失態を犯すところだったのだ。
冬夜自身は気にするつもりなどほとんど無いはずだったのだが、一度乱れた気持ちがなかなか平静に戻ってくれなかった。そんな冬夜の様子に海堂は気が付いていたのか、仕事が終わると、声を掛けられた。
「浅木くん、何かあったのか?らしくないな……ディレクターの溝口さんも浅木ちゃんどうしたのって心配してた。まあ……ニュースは上手く切り抜けただろうけど、みんな浅木くんの挙動不審が分かったって事だな……」
本来なら注意されるだろうと考えていた冬夜であったから、海堂から心配されたことで、逆に申し訳ない気持ちで一杯になった。
「済みません……。それで……あの……僕、挙動不審でしたか?」
どんな風に見えたのだろうか?
僕はいつも通りにこなしたはずなのに……
「ああ……なんだかスタジオの出入り口の方ばかり気にしていただろう……俺は最初カメラが気になるのかと思ったくらいだ……カメラの宇崎さんが何度もカメラワークを確認していたからな……」
「本当に済みません……」
無意識のうちに青柳を捜していたのだろうか?
そんなはずは無いのだが。
今、自分自身の事も分からない程、平常心を失っているのだろうか?
色々考えるたが冬夜は今の自分の状態を説明できないでいた。
「なあ……今晩一杯やっていくか?」
海堂は手でおちょこをつまむような形を作って冬夜に言った。
「……いえ……こんな日は帰って寝た方がいいような気がするので、早めに寝ます……」
そう……
眠った方がいいのだ。
疲れているんだ……
きっと……
「じゃあ僕……帰ります……お疲れさまでした……」
冬夜は自分のコートを羽織り、軽く海堂に頭を下げるとそのまま扉に向かって歩き出そうとしたが、引き留める声で立ち止まった。
「そういや……」
「え?」
「海堂さ~ん……ちょっとちょっと」
机向こうから中隅が海堂を呼んだ。
「あ、いや……いいんだ。じゃあ浅木くん明日な!」
「はい。明日は大丈夫です」
「頼むぜ」
海堂はそう言って中隅の方へと歩いていった。
……
何か言いたい事があったのだろうか?
だが冬夜はそれを確認しないままフロアから出た。とにかく熱い湯に浸かり、ベッドにそのまま倒れ込みたかったのだ。身体が異常にだるく、そして訳もなく疼く。そんな身体をもてあましながらも冬夜は局の一階まで降り、いつものように警備員に言葉を交わすとそのままビルを出た。
「はあ……」
すでに漆黒の闇に包まれている空には星一つ出ていない。
はあ……
まだ風が冷たいな……
もうすぐ四月だというのに時折冷たい風が吹く。これももうしばらくの辛抱だろう。
うちまでの距離を冬夜は空ばかり気にして歩いた。少しでも星が見えるといいなあと思ったのだ。
冬夜は星を見るのが好きだった。
同じように夜もまた好きだ。
多分暗闇が冬夜の本当の気持ちを隠してくれるからだろう。
男性にしか性的欲望を感じないという自分が明るい朝日が似合うと思わない。心の何処かで冬夜は己を恥じているのか、それともゲイだという事実を隠したいと思っているからか、そのあたりは冬夜にもはっきりしない。
まあいいか……
別に寒くもないのに冬夜は両手をこすりあわせ、駅へと向かった。
マンションに帰って来ると冬夜のうちである玄関の扉前に青柳が座り込んでいるのを見つけて呆然とした。
「よう」
まるで見知った友達のように青柳はそう言って、腰を上げた。
「何をしてるんだい?」
彼の行動が全く冬夜には理解ができない。
「ここ、浅木さんのうちだろ?」
何故か馬鹿にされたような口調だ。
「そうだよ……じゃなくて、君がどうしてここにいるのかを僕は聞いているんだ」
「どうしてって……どうしてだと思う?」
何故この男は、疑問に疑問で答えるのだろうか。
「はあ……君は本当に訳の分からない行動をするんだな……そこから移動してくれないかな……僕はうちに入りたい」
ため息をつきながら冬夜はそう言った。
「せっかく訪ねてきたのに茶の一杯も出してくれないのか?あんたはそういう社交辞令を持ち合わせていないとか?」
不満げな態度で青柳は冬夜を覗き込んでくる。だが、扉前に立っている青柳の所為で冬夜は自分のうちの鍵を開けることが出来ないでいた。
「社交辞令ってねえ……」
冬夜は呆れた。
何故年下にこんな口の利き方をされなくちゃならないのだ。
「茶」
相変わらずそう言う青柳に、冬夜は仕方なしに言った。
「仕方ないな……いいよ。ごちそうするよ。だから入り口から離れてくれないか?」
「話しが分かるじゃないか……」
ようやく青柳がその場から離れ、冬夜はキーをポケットから取り出して扉を開け中に入る。その真後ろに青柳が立っているのが気配として感じられた。
冬夜は手を伸ばし玄関の明かりを灯そうとしたが、後ろからついて入った青柳くんが扉を閉めたため、辺りは真っ暗になった。
「おい……真っ暗で見えないだろ」
通路からの明かりを頼りにして冬夜は電気をつけようとしたのだ。それがこれではいくら毎日の事であっても手探り状態になり、スイッチの場所がすぐに分からない。
「どうして隠すんだ?」
「いきなりなんだ?」
冬夜は青柳の言葉に自分の心臓が急に高まるのを感じた。それは多分この先のことをなんとなくではあるが予感したからかもしれない。
「あんた、実は男にしか興味を持てないんだろ?」
「いきなり何を……」
冬夜はどんなときも隠してきた。
知っているのは親友の隆史だけだ。
「同類は分かるってやつかな……」
暗闇の中でくすくすという青柳の笑いが響く。
「同類って……君はそうなのか?」
あくまで冬夜はストレートを演じる。自分をさらけ出せるほど冬夜は青柳を知らないからだ。
「君は……じゃなくて君も……だろう?今更、なに言ってるんだ……」
青柳の呆れたような口調に冬夜の心臓の鼓動がますます早くなる。
だから……
認めたらどうなるんだ?
僕はどう答えたら良いんだ……
こんな状況を想像したことなど無い。だから冬夜には対応の仕方など全く思いつかなかった。
「僕は君とは違う……」
そう……
男と寝ることを隠さない青柳のような性格を冬夜はしていない。
「自分から舌をのばしてきたくせに?」
「……っ!」
昼間のことか?
昼間のことなんだな……
僕はそんなことはしていないっ!
それにキスといっても触れるようなキスだったはずだ。
「ほら……図星だろう……」
「あれは君が勝手に……いっ……」
いきなり玄関に押し倒された冬夜はしこたま背中を打ち付けた。
「自分がそういう性癖を持つくせに隠す奴が俺は気にくわないね」
青柳は冬夜に馬乗りになったまま動かない。ただ暗闇の中で聞こえてくる青柳の声は冬夜にとって酷く屈辱的なものだった。
隠すことが悪いのだろうか?
「……君が公言出来るならそれもいいだろ。でも僕は違う……」
冬夜は今まで必死にノーマルな男性を演じてきたのだ。今更カミングアウトはできない。それは持った仕事に差し支えがあるからだ。
いや……
今までも冬夜が口に出して己がゲイだと話せたのは親友の隆史だけだった。