Angel Sugar

「真実の向こう側」 第19章

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 周囲は少しずつ街が目覚めていくのが、人々のざわめきや通行量の増えた車の行き交う音が遠くから聞こえて冬夜に知らせる。窓を開けると外は太陽が顔を覗かせ、薄紫の空に輝いているのだろう。そうして空気も朝独特の匂いがするのだ。
 だけど冬夜は今、窓を開けてそれらを確認する気分になれなかった。
 自分が何故だか酷く汚れているような気分だ。それは青柳と関係が出来てしまったことで思うのか、ゲイである自分をそんな風に思ってしまっているのかわからない。
 確かに世間で胸を張り、自分がゲイだとは公言できないだろう。だけど恥じたことはない。しかし本当にそうなのだろうか?
 隠そうとすること自体、本当は恥じている自分を誤魔化しているだけじゃないのか?
 胸を張れば良い。違うのか?
 悪いことをしているわけではない。ただ男性を恋愛対象に見てしまうだけ。それ以外に他の人とどう違う?
 そうだよな?
 ……
 ……僕は……
 変だ。
 こんな事をこの年齢でまた考えるとは思いもよらなかった。
 学生の時に随分と悩んだことではあるが。
 女性には魅力を感じなかった本当の理由。
 自分がゲイであること。
 それを隠さなければならないという現実。
 何故?
 何処が悪い?
 行ったり来たりの堂々巡りの中、冬夜は答えを見つけようとして見つけられなかった。
 だからこういうものだと言い聞かせて、今まで生きてきたのだ。だけどまた同じような疑問で頭を悩ませている。
 青柳くんの所為だ……
 彼があまりにも自分に正直に生きてるから……
 バイだと隠さない。
 しかも欲望にも正直だ。
 欲しい物は欲しい。
 手に入れる為ならどんなことでもする。
 彼の行動が世間で何と言われようが本人は何処吹く風だ。
 そんな青柳が冬夜は羨ましい。
 そう……
 正直に言うと本当に青柳が羨ましい。
 青柳が立っていると性格そのもののオーラが見えるような気がする。時に激しく射抜くような瞳は、見つめられると身体が震える。それは小動物がライオンなどに睨まれ逃げることも忘れて硬直してしまうのに似ていた。
 一応外向きに見せる表情は青柳が持つ気性の激しさを自分で押さえているのが良く分かる。それは彼にとって最大の社交辞令なのだろう。それでもあふれ出るオーラは隠せない。
 冬夜はその本来なら遠く距離をおきたい筈の相手を真っ正面から受け止めてしまった。だから元来ぐらぐらしている冬夜の信念が頼りなくなっているのだ。
 青柳の抱き方は性格そのままだ。身体のあらゆる場所を愛撫する青柳の手は時に痛みを伴うほど激しい。だけど壊してしまうほどのものではなくて冬夜の身体の奥に燻っている欲望をかき立てるにはそれが必要なのだと本能的に知っているのだろう。
 何処か諦めているような冬夜は欲望を口にするのが苦手だ。それを青柳は無理矢理引きずり出して冬夜を拘束している枷を外してくれる。
 その時の自由な感覚はまるで麻薬のようだ。
 一度知ってしまうと理性では彼を危険だと判断しているにも関わらず、身体はまた甘美な時間を欲しがる。
 それは隠せない事実。
 時折見せる子供っぽい笑みも、優しさも、冬夜の気持ちを引きずるのに充分な効果を持っていた。本人は意識してはいないのだろうが、冬夜がその笑みにどれだけ惹かれているか青柳はきっと知っているのだろう。
 無意識かもしれないけど……さ。
 青柳の肉塊が冬夜の身体の奥を貫くとき、多分あらゆる枷から解き放たれているのだ。世間体も、自分の職業もなにもかも。冬夜はただ欲望を満たすためだけに喘ぎ、愛撫を更に求める。そこに気恥ずかしさなどこれっぽっちもない。
 与えて貰えるものを一滴でも取りこぼさないように神経を使っているのは冬夜自身であり欲望だ。紛れもない淫らな欲望を持つのは冬夜自身。恨まれていると言われても、その言葉にすら冬夜の身体は疼きを感じている。信じられないことだ。
 理性からすると多分眉をひそめるような関係だろう。だけどそんなもの、青柳と抱きあえばどうでも良くなる。彼の熱い情熱に冬夜も焼き尽くされたいと思う。それで灰になっても良いと焦がれる瞬間がある。
 こんな自分が恐い。
 何か別な生き物に変えられてしまったような気がして仕方がない。
 だから僕は……
 青柳から逃げ出したいのだ。
 自分の責任を持ちだして、青柳の目の届くところから逃げたい。
 多分……
 僕は……
 青柳くんが好きなんだろう……
 多分ではなく、好きなのだ。
 その事実にたどり着いた瞬間、冬夜の閉じた目から涙がこぼれ落ちた。

 昼過ぎに外で何か大きな音が聞こえ、冬夜は目を覚ませた。
 いつの間にか寝てたんだ……
 朝よりも気分はましになっているが、うろうろと歩き回れるほどではなかった。でもやはりお腹が空いている。
 何か作ろうかな……
 めんどくさいな……
 一人だと何をする気にもならない。
「でも薬飲まないと……」
 その為には何か胃に入れなきゃ……
 冬夜はごそごそと起きあがり、次にベッドから下りるとフローリングを歩いてキッチンに向かった。
 キッチンには隆史が言ったとおりお粥は既に底をついている。今から何か食べようとすると自分で作らなくてはならなかった。
「あ……めんどくさいな……」
 椅子に腰を掛けて、息を浅く吐いた。立っているのが辛い。頭の芯がまだクラクラする。随分酷い風邪だなあと冬夜は思った。
 がんっ!
 また大きな音がしたために、冬夜は思わず立ち上がった。音はどうもうちの玄関付近から聞こえる。しかも玄関の外だ。
 足元頼りなく玄関まで歩くと鍵を開けて扉を開いた。するとそこには青柳が座り込んでいた。
「……何してる?」
 冷ややかに冬夜は青柳を見下ろした。
「……別に……」
「じゃあ、どいてくれないか?」
 そういうと青柳はふらりと立ち上がる。
「……よ……」
 そう言って顔を上げた青柳の頬は腫れていた。昨晩誰かと喧嘩でもしたのだろうか。
「何だよその顔は……」
「殴られた。だが殴り返してもやった」
 憮然とした表情で青柳くんはぽつりと言う。
「誰に?いや、誰を殴ったんだ?」
「……あんたに関係ないね」
「じゃあ聞かないけど。……で、君は、僕にここから突き落とされても良いことを、この間やったはずだよな?」
 薬を使ったことを案に仄めかすように冬夜は言った。本当なら怒鳴りちらしても良いのだろうが、そうなると青柳の方も逆ギレするだろうから、怒鳴ったりは出来ない。
「……あれは悪かったと……思ってる」
 珍しく素直に青柳は謝ってきたことで冬夜は拍子抜けしてしまった。
「それで……今日は何しに来たんだ?」
 玄関に入ろうとする青柳を冬夜は押しとどめる。
「何だよ。俺は今ここに住んでるんだっ!」
 ムッとした顔で青柳が言ったので、怒らせるとまた何をするか分からないと感じた冬夜は押しとどめていた手をどけた。すると、青柳はするするっと靴を脱いでさっさと部屋へ入っていく。あくまで自然に。
「……」
「腹減ったよなあ……って、あんた何だよ……今まで寝てたのか?」
 くるりと振り返り、パジャマ姿の冬夜を見が青柳は驚いていた。
「……まあね……」
 と、言った瞬間、頭の先から血の気が急に引いたような感覚が身体に走り、冬夜は思わずその場に座り込んでしまった。
 こんな時に……と冬夜は思ったが立ちくらみが突然来たのだから仕方ない。
「……おい、どうしたんだ?」
 言って青柳が冬夜の腕を掴んで引っ張る。その振動に頭が痛みを訴えた。
「あっ……頼む……引っ張らないでくれ……まだクラクラしてるんだ……」
 床を引きずられながら冬夜は言った。
「なんだ……マジで風邪引いてたのか?」
 青柳はヒョイと冬夜の身体を抱き上げる。その行動が冬夜には理解できず身体が強ばった。もしかするとまた何かしでかそうとしているのかもしれない。そういう怯えがあったのだ。
「青柳くん……」
「立つのつれえんだろ……?じゃあ仕方ない」
 青柳は冬夜をベッドへ連れて行き、そこに壊れ物でも扱うようなに横たえてくれる。どうあっても嫌な予感が拭えない冬夜が後ずさると青柳は吹き出した。
「ばっか、こんな時までさからねえよ」
 寝室から青柳が出て行き、暫くすると氷水を入れた洗面器とタオルを持ってきた。まるで似合わない青柳くんの態度が僕を動揺させる。今度は一体何を企んでいるのか。
「……」
「あんた熱っぽいよ。どうせこの間雨の中に身体晒したからじゃねえのか?そりゃ、あんたが悪いんだって……」
 氷水の中にタオルを入れて絞っている青柳に冬夜はどういう態度を取って良いのか分からない。
「……青柳くん……」
「何にもしねえっていってんだろ!さっさと寝ろよ」
 怒鳴るように青柳がそう言うので、冬夜は仕方なく身体を横にした。
「風邪ってのは疲労から来るんだから寝てりゃ治るんだ」
 言いながら青柳は冬夜の額にかかる髪を払い、絞ったタオルを置く。何処か優しげな仕草に胸が苦しい。
「……僕は……」
「ほら、足伸ばして寝ろって。何、縮こまってるんだよ……」
 ぐいっと足を力強く引っ張られて冬夜は呻いた。
「……お前が素直に言うことを聞かないから……」
 青柳は苦笑しながらも乱れている毛布を整える。
「マシか?」
 冬夜の顔を覗き込み、心配そうに聞いてくる青柳はどこから見ても心底こちらを心配してくれているように見える。
 だがそれは幻想だ。
 冬夜がそうあって欲しいと思っているから、自分にとって都合よく見えるだけ。
「……ありがとう……少し楽になったよ……」
「そっか……良かったな」
 青柳くんが笑顔を見せると冬夜は胸が一杯になった。
 無理矢理冬夜の身体を貪る相手が少し優しさを見せたからと言って何故こんなに胸が苦しいのだろう。
 しかも冬夜を恨んでいる相手だ。
 苦しい……
 こんな奴を好きだなんて……
 泣き出しそうな自分を悟られないように冬夜は腕をクロスさせて顔を隠す。見られると弱みを握られているような気になるから。
「何だ……まだ辛そうだなあ……」
 暫くすると青柳はタオルを又氷水に浸けて絞ると額にのせる。そんなことを繰り返された冬夜は我慢できずにとうとう聞いた。
「どうして?」
「何が?」
「何故こんな事をするんだ?」
「何故って、あんた風邪引いて熱あるんだろう?」
 どうしてそんなことを聞くんだという表情の青柳だ。
「ああ……」
「じゃあ仕方ないだろ。あんた今、つれえんだろし……」
「……辛い……」
 辛いのは……痛いのは心だ。こんな優しさを見せて欲しくなど無い。なにかを期待して、ずるずると関係を続けてしまいそうだから。
「……俺は腹が減ってきて辛いなあ……なあんか作って食って良いか?」
「いいよ……」
 冬夜は目を閉じた。本当は耳も閉じてしまいたかった。
「あんたはどうする?」
「……今はいいよ……」
「ふうん。じゃ、俺ラーメンでも作って食うわ」
 出ていく前にもう一度タオルを絞って額に乗せると青柳の足音が遠ざかる。次に聞こえるのは寝室の扉が開閉する音。
「……」
 分からなかった。
 青柳が全く理解できない。何を考えているのか、いつも分からないけれど今日が一番分からなかった。
 一度失敗した惚れさせて突き落とす計画をまだ彼は捨てていないのか?
 駄目だ……分からない……
「おい、あんたのも作ったから……食えよ……」
 突然、青柳の声がしたかと思うと、チャーハンらしきものの匂いが鼻につき冬夜は閉じていた目を開ける。すると青柳がお盆になにやら色々乗せて持っているのが見えた。
「え……」
「ちょこっとだけ身体を起こせって。体力無さそうだからな。なんかくってから寝た方が良いと思ってさ」
 仕方無しに冬夜は身体を起こして枕をせもたれにして座る。するとピラフとお茶、そしてみそ汁の入ったお椀が盆に乗せられたものが渡された。
「ま、全部インスタントだけど」
 青柳くんの方はインスタントのラーメンを入れた丼鉢を持ち、ベッドを背もたれにしながら床に座るとずるずると食べはじめた。
「……青柳くん……」
「何だよ。俺の作ったの食えねえってのか?」
 背中を向けたまま青柳は言う。怒っているのかどうか冬夜には表情は見えない。
「いや……ただ……」
「ただ?何だよ……」
「どうしてこんな事をしてくれるんだ?」
「別に……気まぐれだよ」
 青柳はそれだけ言って、又ラーメンを食べだした。
「……そう……」
 そう、気まぐれだ。なのに胸が苦しくて仕方ない。その為に折角の料理に冬夜は手がつけられなかった。
「……そんなに気に入らないか?」
「……」
「俺がこんな事……似合わねえ?」
「……ああ……」
 冬夜は絞り出すようにそう言った。これ以外何を言えば良いのだろう。
「……俺のこと……憎んでる?」
 それは僕じゃなくて君だろう?
 青柳くんが僕のこと……
「……」
「俺があんたにしたこと怒ってるのか?」
「いいや……」
 今まで受け入れてきたのは冬夜自身だ。だから怒るわけなどない。
「……じゃあ……俺のこと……嫌い?」
「……な……」
 何を一体この男は言っているんだ。
 冬夜は大混乱の上、パニックだ。
 目頭が熱くなりお盆の上に乗った料理が霞む。青柳から優しさを感じたいとは思ってきたが、いま、現実に見せられそれらすべてが気まぐれであることが辛い。
 違う……
 また何か青柳が考えている事に、冬夜無駄だと叫んでやりたいくらいだった。
 もう騙されない。
 騙される振りもしてやれない。
「なあ……っ……」
 青柳は振り返ってこちらを見て、声を詰まらせているように見えた。多分、止められない涙がポロポロと頬を伝っていたのを見たからだろう。
「……済まない……泣くつもりは……」
 思わず冬夜は目を擦った。
「冬夜……」
 冬夜は青柳が初めて名前を茶化さずに呼んだ事に動揺した。
「今……なん……」
 冬夜が言い終わらぬうちに青柳はそっと唇を重ねてきた。それは驚くほど優しいキスで触れるだけですぐに離される。目の前には今までに見たこともない真剣な顔つきの青柳がいた。その向けられる視線に我慢できず、冬夜は俯くことしかできない。
「……もう、こんな関係は……止めてくれないか?……僕は責任を取って局を辞める。それで良いだろう?納得できないなら住むところも……携帯番号も、全部変える。君の目の届く範囲から消える……これなら良いだろう?それでもまだ駄目か?許して貰えないのか?だったら……どうしたらいい?」
 青柳は冬夜の言葉に返事を返すことなく、口を閉ざして沈黙したままだ。
「辛い……何が辛いのか分からないが……辛いんだ」
 何が辛いのかを冬夜自身は分かっていた。分かっているから理由を言えない。
「……そっか……」
 暫くすると青柳は又冬夜から背を向けて座った。
「青柳くん……」
「俺が……これ以上、嫌だってごねても、こっから追い出したくてしかたねえんだろ?」
「ああ……」
「潮時か……」
「そうだ……」
 青柳は苛立たしそうに頭を掻いた。
「俺……さ、素直じゃねえから……言えなかったけどよ……」
「……」
「以前も……一回言ったけど……」
「……なに……を?」
「実は……俺……あんたのこと……好きだったんだ……」
 この男は一体何を言ったんだ?
 冬夜は青柳が言った言葉を信じられずに呆然としてしまった。
「……」
「まあ、いっかそんなことはよ……。何言ったってあんたは俺のことこれっぽっちも信じてくれねえだろうし……それだけの事を俺はやってきたから……。はは。俺、出ていくよ。もう来ないし、話しかけたりもしねえよ。あ、別に局辞めなくても良いよ。そんなつもりはなかったんだからさ……今更だけど……。悪かったよ……」
そう言って青柳は合い鍵を床に置いてから立ち上がると、そそくさと寝室を出ていった。次に玄関の開閉の音が遠くから聞こえ、ようやく冬夜は我に返った。
「青柳くん!」
 もちろん既に出ていってしまった青柳には聞こえないのだろうが冬夜は叫んだ。
 しかし遅かった。
「……僕は……」
 残されたお盆の上に乗った料理がまだ湯気を立てている。素直になれなかったのは自分もである。狡いのも自分だ。自覚していたことで傷つきたくなかった。これ以上弱みを握られたくなかった。だから何も言わなかった。
 だが、これで良かったのだろう。青柳には恨まれている。このまま関係を続けたとしても結局虚しい関係になるのだけだ。
「これで良かったんだ」
 膝の上に置いた盆の料理を見つめてそう呟く。
 そう……
 終わったのだ。
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