Angel Sugar

「真実の向こう側」 第14章

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「……今回は四名死者が出ました。五人家族のうち三人が煙に巻かれて亡くなられ、父親は一旦助かったものの、家族が取り残されているのを知り周囲の制止を振り切って火の中に飛び込み亡くなられました。ご冥福をお祈りします」
 淡々と海堂がニュースを読み上げる。その後を追うように冬夜が発言していた。
「これで連続放火は十件続いたことになりますが、捜査本部の方では犯人の目星が未だ付きません」
「こう毎日放火があるとすればそろそろ犯人像が浮かんできてもおかしくないと思うんですけどね……浅木さん」
 判で押したような会話。
「そうですね。何とか犯人を捕まえて欲しいところです。これ以上被害も被害者も広がって欲しくありませんね」
 冬夜の表情は、やはり硬い。それは仕方ないだろう。
「捜査本部の方では被害者になられたご家族のうち、その日、在宅していなかった息子さんを事情聴取で引っ張っています。ただ、息子さんは元々家に殆ど帰らない生活をされていたようですので、うちにいなかったからといってすぐさま犯人だとは決めつけられません。警察の勇み足にならなければ良いのですが……」
「最近冤罪という問題も出てきていますので、その点はしっかり捜査をしていただきたいものですね。どう考えても、自分の家族が住む家に放火など出きるわけがないんですから……。とはいえ家族だからそんなことはしないだろうという先入観も、警察の方でもたれると困ります」
「警察はきちんと捜査を行った上で、この連続放火の犯人をすみやかに逮捕して欲しいですね。これ以上犠牲者がでないうちに……」

 これだ……
 これなんだ……
 普通の会話だと僕は思う……
 だけど、もし、当事者が聞いたらどうだろう?
 腹が立たないか?
 むかつくよな?

どう考えても、自分の家族が住む家に放火など出きるわけがないんですから……。とはいえ家族だからそんなことはしないだろうという先入観も、警察の方でもたれると困ります

 最初の言葉だけで納めて置けば良かったんだ。それなのに冬夜はちっぽけな正義感からこんな言葉を付け足してしまった。
 確かにどちらとも取れない表現をしていると思う。正しい意見だと思う。だけど家族を失って、たった一人残された当事者である青柳がこれを見て、どう思う?
 放火魔かもしれないと言われて傷つかないはずはないだろう。
 冬夜の発言に逆恨みする事だって考えられる。
 手がブルブルと震えていた。自分の言ったことがこんな事になるとは思わなかったのだ。
 何時だって怪しい情報は適当に濁してきた。
 だけど……
 誰が聞いてもおかしくない言葉が、その当事者であるからこそ傷つくことがあると冬夜は知った。それがこの言葉だったのだ。
「早速見てるんだ……」
 いきなり青柳の声が誰も居ないアナウンスルームに響き、冬夜は机に並べていたビデオをバラバラと床に落とした。それを拾い上げる事が出来ずに冬夜は椅子に腰をかけたまま、戸口に立つ青柳の方に視線を移す。すると青柳はゆっくりと冬夜に近づき、テレビ画面を見た。
「きっついよなあ……俺さあ、あんたがこんな事言った所為で近所から何て言われたと思う?お前が放火したんだろうって言われたよ……。知るかよそんなの……」
 冬夜が座っている椅子の背もたれに手を置いて青柳は言った。
「……僕は……」
 まともに青柳の顔を見ることができず、冬夜は視線を落ちたビデオに向け、動揺している気持ちをなんとか平静に戻そうと試みたが無駄だった。
「あんたらの言う警察の事情聴取だって、何処に昨晩いたんだ?ってだけだぜ。だけどニュースで事情聴取で引っ張られてるって言ったのはこの番組だけだった。新聞には翌日載ったことだからな……。その新聞記事はきちんと俺は犯人じゃないって載ってたぜ。でもゴールデンタイムにあるニュースの報道ってすげえ力があるんだろうなあ……そんな朝刊なんて誰も読まずに、ニュースだけの情報で俺が犯人だって言うんだからいい加減にしろっての……」
 ムッとした口調からはあまり怒りは感じられない。いや、当時の怒りは想像できないものがあったのだろう。時間が経ったことで、それらが表に現れないで心の中、奥底に今も澱んでいるのだ。
「それは……」
「もちろん、誰が聞いたって素敵な言葉だよ。どっちも適当に誤魔化してるんだからな……上手い逃げ方で俺を責めてる……」
 誰かを責めるつもりで発言した訳じゃない。
「僕は責めているつもりなんてない……ただ……あの時は……」
 だけど、もしそうならという気持ちは何処かにあったかもしれない。
「あんたらしい正しい言い方してるよ。でもな、それで俺が真面目な男だったら誰も何も言わなかっただろうさ。でも俺はあの当時両親と揉めてた。俺が学校も殆ど行かずにモデルの仕事してたから……男の癖にって言って認めて貰えなかった。で、たまにうちにかえると大喧嘩だ。近所の連中も知ってるよ。そんな中放火されて家族が死んで、誰が俺じゃないって言ってくれるんだよ……。こんな俺でも肩身がせまいっての……仕方ねえから海外に逃げた。向こうでモデル活動してたら有名になった……それだけだ……」
 淡々と語る中、確かに冬夜は青柳の苦悩に気付いた。普段不真面目な分、余計にそれが分かる。
「本当に僕は……そんなつもりで話した訳じゃないんだ……」
 言い訳しかできない。だが、こんな陳腐な言葉しか出てこないのだ。
「分かってるよ……そんなの……。でも俺は……これでも家族のことは大事に思ってたんだぜ……まあ……俺がこんな風だから信じる信じないはあんたの勝手だけどな……」
 青柳が手を掛けている椅子がキイと軋む。
「済まない……」
 これ以上の言葉を冬夜は見つけることが出来なかった。
「たった一言が……俺の人生を変えたんだ……」
「……」
「責任取れよ……」
 ギュッと両肩を掴まれた冬夜はビクリと身体を震わせた。
「どうしたらいいんだ?僕には謝ることしかできない……」
 俯く角度が更に深くなる。もうテレビ画面は見ることができない。
「終わったことをとやかく言っても仕方ないしなあ……最初はあんたの仕事を取り上げてやろうと思ったんだけどさあ……いまいち面白くない。その次は俺にすっげえ惚れさせて突き落としてやろうと思ってたんだけど……あんたガードかてえしなあ……。身体のガードはすんなりおちたけどな……」
 やはりそんなことを考えていた。多分冬夜はそうだろうとは思っていたが、理由だけが分からなかったのだ。だがそれを知った今では青柳を責める言葉など言えるわけがない。
「でもあんたの身体って結構良い感じだし……俺の奴隷っていうのも良いよな……」
 クスクス後ろで笑う青柳は本気のようだ。
「奴隷って……」
「性の奴隷……いいじゃん。俺のこと追い出したがっていたみたいだけど、これで追いだせなくなるだろう?あんたは俺に飽きたかしらねえけど、俺が飽きるまであんたは嫌でも俺の相手をするんだ……良いよな……」
 青柳はそう言って冬夜の耳元に唇を寄せてきた。
「それで……良いのか?」
「ああ……嫌がる相手を犯す方が楽しめる……」
 残酷な言葉をあっさりと青柳は吐き、冬夜の耳朶を噛んだ。
「……分かった……」 
 嫌だとどうして言えるだろう……
 言えるわけがない。
 青柳は冬夜の一言をずっと胸に抱き続けてきたのだ。いつか復讐しようと思っていた。そんな彼の気持ちを受け止めてやるのが責任の取り方だと冬夜は思った。
 もちろん言いがかりだろうと言えばそうだなるろう。だが確かに冬夜は青柳を傷つけた。そして冬夜は何も知らずに今まで生きてきた。
 何処かで責任と取らなければならないことなのだろう。
「そろそろ帰るかな……ちゃんと帰って来いよ……」
 肩に置いた手を引っ込め、青柳は出入り口に歩き始めた。冬夜はその青柳の姿を追うことが出来ずに雨の降る外の景色をぼんやりと眺めた。
 雨だ……
 僕の心と同じだ……
 今までどれだけ言動に気を付けてきただろう……
 決して人を傷つけるような発言はしない……
 でも真実はきちんと報道する。
 それが……
 チラリと机に散らばった資料を眺めると、丁度当時の放火の事件を扱っている記事の場所が開かれていた。そこに書かれていたのは中学生の子供を二人守るように母親が覆い被さり、その側に父親の死体があったという記事だった。
 真実の向こう側……
 毎日流れていくニュース……
 この世界に入るときに釘を刺された。
 決して感情移入をしないこと……
 でなければもろい人間は事件の悲惨さと事実の重圧に耐えきれずにつぶれてしまう。
 いつも一歩引いた位置からニュースを捉えること。
 それを守ってきた。
 だけど……
 ふらりと立ち上がり、冬夜も帰ることにした。だがうちに帰る気分ではなかった。しかも傘を差す気力もない。
 ああ……
 僕は一体今まで何をしてきたんだろう……
 ふらふらとした足取りの帰り道、冷たい雨は僕の身体を突き抜けるような勢いで降り叩く。
 冷たくはない。
 雨は僕の涙を隠してくれる……
 誰もいない公園に入りベンチに座る。
 そうして空を見上げ目を思い切り目を開く。
 瞳が雨粒に晒され痛みを訴えた。だけど雨は冬夜の涙をさらって大地に導いてくれる。
 真実の向こう側……
 そこには被害者も加害者も……そしてそれらに関わっている人達がいる。
 見えなかった。
 目を閉じていた。
 怖かったからだ。
 死を見つめること……
 傷ついた人を見つめること……
 理不尽な行為に怒りを覚えること。
 報道という立場にいるかぎり目を半分閉じていなければならなかった。
 だけど……
 僕の一言に傷ついた人が確かにいた。
 青柳くんだけではないかもしれない。
 見えないメディアの向こう側に……
 確かに僕は誰かを傷つけた。
「う……うう……」
 冬夜はその晩うちに帰ることが出来なかった。 



 結局冬夜がうちに帰ったのは朝早くだった。一晩何を公園でしていたか冬夜自身も思い出せない。ただ身体が冷えて寒い。うちに帰ろうと思ったのも、雨が上がった後の自分の姿をハッキリ認識したからだ。
 着替えないと……
 仕事を放棄することは出来ない。例えどんな理由で嫌になっていたとしても、今与えられている事はこなさなければならないのだ。
 少しだけ残っている冬夜の責任感がようやく足を自分のマンションに向けた。タクシーの運転手には嫌な顔をされてしまったがそれに乗るしか方法は無かった。
 マンション近くでタクシーを降り、精算を終えて歩きだすと冬夜の後ろにできる水たまりのような足跡が、ぽつりぽつりと残る。それすら今は酷く寂しげに見える。
 寒いな……
 朝早くマンションの通路を歩いている所為か、まだ誰とも出会わない。それにホッとしながら冬夜はようやくたどり着いた自分のうちに入った。
 玄関にはやはり青柳の靴がある。一晩イライラして待っていたのだろうか?帰ってこいと言われたのに冬夜は帰らなかった。別に意図して帰らなかったわけではない。帰えるということを忘れていただけだ。
 ぐっしょり濡れた靴を何とか脱ぎ、靴下も一緒に脱ぐ。逆さにすると意外に沢山の水が玄関にこぼれ落ちた。靴下の方はそこで絞ってポケットに入れた。
 とりあえず軽くシャワーでも浴びて服を着替えないと……
 冬夜はよたよたと歩きバスルームにはいると熱い湯を浴びて、身体の芯まで冷え切った身体を温めようとした。だが、局に行くまでの時間がそれほど残っていなかったため、皮膚一枚を温めただけでバスルームから出ると何時も通り服を着替えて一息を付いた。
 身体の芯がまだ凍り付いているのが分かる。それもコーヒーを飲めば温もるはずだ。
 くたびれた身体をようやく動かして冬夜は寝室を覗いた。するとベッドの上には青柳が座りこんでいる姿が目に入った。
 起きてる……
 どうしよう……
 薄く明けた扉を冬夜が閉めようとすると青柳と目があった。
「おい、朝帰りして挨拶もねえってか?」
「……」
 どう言って良いか分からずに冬夜は沈黙することを選んだ。
「来いよ……」
 射抜くような瞳に見つめられた冬夜は魅入られたようにフラフラと青柳の座るベットに歩き出した。近くまで来ると、青柳は冬夜の手首を掴み、そのまま荒々しく引っ張る。その拍子に冬夜は青柳の胸に倒れ込んだ。
「朝から入念に身繕いか?昨日の晩、何処に行ってたんだよ……。ん?誰かに泣かされた顔をしてるな……」
 冬夜の泣きはらした顔を見て青柳は誤解したようだ。
「君には関係ないだろう……」
 青柳の視線から顔を背けて冬夜が言うと、いきなりベッドに組み敷かれた。
「あ……」
 名前を呼ぼうとすると冬夜は口元を塞がれ、口内を貪るように吸い付かれた。抵抗する気はない。冷えきった身体と頭は何かを考えるという思考自体がとまっているのだろう。
「で……誰かと寝てきたとか?」
 口元を離し、青柳が意外に真剣な顔で問いかけてきた。
「そんなの……君に関係な……っ……」
 言い終わる前に、青柳は冬夜のローブの前を左右に開く。するとようやく皮一枚温まったはずの肌は冷たい空気に晒され、身が締まるようにキュッと引きつった。
「青柳くん……」
 露わになった冬夜の胸元や首筋を青柳は舐めるように見つめ、次ぎに指先で触れてきた。その何かを探すように動かされる指先に、冬夜は熱いものがこみ上げてくるのに気付き、口元を噛みしめる。
 ただ触れられているだけで冬夜の身体は反応する。既に覚えている青柳の愛撫を身体は欲しがっているのだろう。
 それが情けない。
 だけど事実だ。
「……俺の付けた跡しかないな……」
 見下ろしながら青柳はぽつりと言った。彼は冬夜の身体に他の男の痕跡を探していたのだ。
「……」
 何を言えば良いのか。
 頭が回転しない。言葉も浮かばない。
 なのに身体は疼きを感じている。
「なあ……じゃあ……何処にいたんだ?」
 言いながら青柳は冬夜の首筋に舌を走らせてきた。ネットリとした舌が首筋から鎖骨に向かって移動し、時に強く吸い付いてくる。思考は完全にとまっていると言うのに愛撫に応えようとする冬夜の身体は青柳を強く欲しているのだ。
 彼の手、彼の舌、そして彼の鋼のような雄の証が身体を貫くのを心待ちにしている。
「僕は……っ……あ」
 親指で胸の尖りを潰され、冬夜は声を上げた。だが痛いわけではない。快感が走った身体から漏れる声の一つだ。強く胸元を下から上へ揉み上げられて更に冬夜の上げる声に熱がこもった。もう少し部屋の温度が低ければ、その喘ぎは白く見えるに違いない。
「……俺のものだって言っただろう?」
 青柳の手が腰元に移動した瞬間、冬夜は我に返った。
「……よせ……僕は……う……」
 茂みに手を埋められ冬夜はうめき声を上げる。
「あんたを滅茶苦茶にしてもいいのは俺だけだろう?」
「……やめ……」
 このまま理性が吹っ飛んだとしても良い。一瞬よぎったその思いに冬夜は、嫌悪を抱いた。
「止めろっ!」
 ドンと思い切り青柳を突き飛ばして冬夜は呼吸を整えた。青柳の方は、ただ、じっと冬夜を見つめるだけで、突き飛ばしたことに何も言わなかった。
「僕は……自分のしなければならないことを誠実にこなしたいんだ……」
 このまま雪崩れ込んだら冬夜は局の仕事を放り出してしまうだろう。それだけは絶対避けたかったのだ。冬夜自身のことで迷惑を掛けることは絶対にしたくない。それを信念にして冬夜は生きてきた。
「……ったく。真面目な男だな……面白くない……」
 言ってため息を付き、一人ベッドで寝転がる青柳から冬夜は逃げるようにベッドから下りると、はだけたローブを整えた。
「仕事に行く準備するから……行くよ……」
 開けたときと同じようにそっと扉を閉めると、キッチンに引き返して既に冷めたコーヒーを飲んだ。身体の芯は一向に温もらない。とりあえず目を通して置かないと……と、パラパラめくる新聞の情報も霞がかかったような頭に文字の羅列だけを浮かべていた。
 全然入らない……
 何とか集中しようとするが頭に何も入らないのだ。
 それでも時間は迫っている。
 急いでモバイルの方のメールをチェックし、よく入っていた嫌がらせメールがまた途切れていることに冬夜は気が付いた。それらも青柳の仕業だったのか。
 多分そうなのだろう。
 青柳だと考えるほうがピッタリと収まる様な気が冬夜にはする。
 僕はどうしたらいい?
 青柳が本当に望んでいるのは冬夜がこの仕事を辞めることなのだ。恥をかかせて辞めさせるなど、色々考えたに違いない。性の奴隷にしてやると言っていたが、そんなものがどう復讐になるのだ。今までもそうだったが、結局冬夜が悦んでいるのだから、青柳が満足するとは思えない。セックスなんてそんなものだ。それともこれからは酷いやり方で冬夜を抱こうと考えているのだろうか。
 馬鹿馬鹿しいな……
 辞めてやるよ……
 それで満足するだろう?
 青柳が憎いのはキャスターである冬夜だ。職業こそが一番の問題な筈だった。ニュースを見るたびに青柳は、昔、冬夜が言った一言を思い出しては苦い思いに駆られていたに違いない。その根本を取り払うには、結局の所、青柳の苦しみの原因を作った冬夜が仕事を辞めることでしかないと、どうせいつか気付くだろう。
 コーヒーを飲み干して、乾いた喉を潤しながらようやくハッキリしてきた瞳を冬夜は何度も瞬かせた。頭もどうやら少しずつエンジンがかかってきている。
 冬夜はテレフォンラックに置いてあったメモを取り、青柳に向けての言葉を書いた。

すぐには無理だろうけど、局を辞めるよ。それが一番君が望んだことだろう。反省してるなんて言葉を聞かされても君は信じないだろう。だから僕が望んだ仕事を君の為に辞める。
だから、キーを置いて出ていってくれ。

 冬夜はそれをテーブルの上に置き、いつもより少し早かったがマンションから出ることにした。
 メモを青柳に見られる前に冬夜は局へと逃げたかったのだ。

 いつもより早い出勤に警備員の中村は声を掛けてきたが、冬夜は愛想笑いを浮かべて適当に返した。そこを通り抜け、冬夜はエントランスを抜けてエレベーターに向かった。今はアナウンスルームにいる方がホッとできるから。
 ようやくアナウンスルームに入ると早いせいかまだ自分のところのスタッフはいなかった。もっと早い番組を担当している向こう側の席はやはり人が沢山いて、中には自分の知った顔も見受けられたが、忙しいのか声を掛けられることはなかった。
 冬夜が自分の席に座ろうとすると昨晩散らかしてしまったビデオと資料がそのままになっており、苦々しく思いながらそれらを拾い集めて机に並べる。それらが終わると冬夜は薄くため息をついて椅子の背もたれに背中をのばして身体を任せた。
 不思議と睡魔はやってこない。ただ身体の芯がまだ凍えているのだけが分かる。目は久しぶりの徹夜状態と、一晩中泣いていたせいか充血して見られたものではなかった。だがこれは目薬を一日中差し続け、冷たいタオルでもあてがっていたら夕方のニュースにはまともに戻っているだろう。
 今までも数度そうやって充血した瞳を元に戻してきた。
 これでいいと思う……
 朝早いためにまだ誰も来ていないフロアに背もたれの椅子に身体を任せると響く独特の 音が響いた。
 キー……
 キー……
 瞳を少しだけ休ませるように冬夜は目を閉じた。
 疲れた……
 がむしゃらにここまで来たけれど、だからどうだったかと聞かれると辛い。自分のキャスターとしての自信も誇りも砕かれた気分だ。正しいと思っての発言がこんな結果を招いているとは思いもしなかった。だけどもこれから先、同じような事が無いとは限らない。所詮は無理だったのだろう。いずれこういう結末が遅かれ早かれやってくる。最後に理由を突きつけられる辛さを考えると、今のうちの方がいい。後はいつも通り過ごせばいいのだと冬夜は思った。
 表舞台に立つような仕事を選んだからこんなことになった。
 何故冬夜は自分がキャスターを選んだのか思い出せない。だがその理由を遙か昔から掘り起こすことも、もうしなくていいのだ。
 辞めるのだから。
 辞めてどうするかはこれから考えると良い。
 暫く何も考えたくない……。
「……もういいんだ……」
 冬夜がぼんやりと席に座っていると、中隅がまずやってきて明るく声を掛けてくれる。そんな中隅に軽く会釈し、冬夜がまたぼんやり席に座っているとバタバタと走る音が聞こえた。誰が走っているのだろうと、霞のかかった意識の中考えていると、その足音が冬夜の後ろで止まった。
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