「誘う―IZANAU―」 第1章
「ほんとうに手伝ってくれるの?」
少年は目の前に立つ美しい黒髪の青年に問いかけた。
「わたしを呼んだのは君だよ」
呼んだ?そうだったろうか?考えてみると、この青年がいつから目の前に現れたのか思い出せないでいる。その答えを探すように少年は、ただ静かにたたずむ青年を見つめた。しかし、答えは一向に見つからずそこに沈黙だけが流れた。
「聞かせてくれるかな?」
青年はそれだけ言うと少年の傍らに静かに座った。少年は漆黒の瞳に見上げられ、その中に温かい無限の慈悲を見たような気がした。きっとこの人ならこれから僕のしようとしている事を、引き止める事も笑い飛ばすこともしない。そう思わせる何かを持っていた。
「僕ね、すごいいじめられっこなんだ。両親は知らないけどね……何度か言おうとしたんだけど、言えなかったよ。だってさ苦労してこの学校に入学させて高い学費払わされて、息子はいじめられてるなんて割に合わないだろ。だから僕は家では明るく振る舞って、学校でも楽しくやってるって、夕食の席や事あるごとに嘘の話をしたんだ」
「いじめ?」
青年は一言そういうと不思議そうな目をむけて瞳を細める。
「えっ、まさか知らないとか」
「知らないとおかしいことなのか……」
青年は申し訳無さそうに俯いた。見るからに知らない事に対し、恥じている様だ。
「別に面白い話でも何でもないんだけど……」
語尾が消え入りそうになるのをごまかす様に少年は頭をかきながら青年の隣に腰を下ろし、ポツリ、ポツリと、どんな風にいじめられてきたかを説明した。あまり感情が入らないようと気を配るつもりだったが、そんな必要ももう無い。地獄だった毎日が、今はもう遠い昔の様に感じられたから。
昔話に一息つこうと青年を横目でチラリと見ると、その頬に涙がこぼれるのが目についた。
「ど、どうしたの?何か僕、変なこと言った?」
突然の涙に、驚いた少年は腰を上げかけた、その瞬間、気が付くと青年の腕の中に包まれていた。
「だから私が呼ばれたんだね」
その声はどこまでも優しい。
「時間は迫ってるよ」
そういうと青年は少年をゆっくり離し、窓から見える月に向かって立ち上がった。少年もつられて立ち上る。そして、傍らに立つ青年の白い彫刻のような横顔を見つめ、自分の為に涙を流してくれたことに対して感動と感謝で胸が熱くなった。涸れたはずの液体が溢れそうになるのを堪えるかのように、少年は窓の外に見える月に顔を向けた。
そこにある蒼白い満月は底のない夜の海にぽっかり浮かんでいる。見つめているとまるで異世界にいるようだ。
「月ってこんなに奇麗だったなんてね」
ふと足元を見ると体育館の床に、月明かりの為に窓の枠が格子状に浮かび上がっていた。
そうだ、僕はこの扉を開くためにここに来た。
今いるこの世界とは違う世界に飛び立つために……。
少年はそう心の中で呟くとポケットに手を忍ばせ、ヒヤリとした感触の物を取り出してしげしげと見つめた。それは、父親のコレクションから持ち出した鋭利なサバイバルナイフである。
「幽霊にはなりたくないなあ」
少年は努めて明るく青年に言った。
「この世に未練や、恨みがあるから魂が迷って幽霊になるんだ。そうならない様に、ここに私がいるんだよ。君のすべての苦しみと怒りは、私が引き受けよう」
青年は月の光に青白く滲んだ様に浮かび上がっている。それは今まで見たことのない神々しさだった。
「ありがとう」
少年はもうここ何年も見せなかった笑顔を浮かべ、ナイフを首筋にたてた。
その夜、町の交番に一本の電話が鳴り響いた。
「何だってんだよ。犬がいなくなったとか、道が分からないとか、そんなことはどうでもいいんだよ」
尚貴は、まだ目が覚めず夢の中でぼやいていた。しかし、電話のコールは鳴り止みそうになく、狭い宿直室の壁に反響し、鼓膜を直撃している。
おやじさんが取ってくれるさ……そう思い夢の中に戻ろうとしたが、誰も電話を取る気配はなかった。
おやじさん……もしかして、いないのか?
薄目を開けて宿直室の扉の向こうから漏れる光りに、尚貴は人の気配を感じ取ろうとしたが無駄なようであった。
「もしもしこちら……」
尚貴は仕方なく電話の受話器を気怠げに取る。
「その交番の先に私立の高校があるだろう?」
「あ……はあ、ありますね。それが?」
「そこの体育館で少年がいじめを苦に自殺した。丁重に弔ってやってほしい」
「自殺ですって!本当ですか?それで貴方は一体どちら様でしょうか……くわしく……」
尚貴がそう聞いているのにも係わらず、相手は電話を切った。
いたずらか?そう決めてもう一度布団に潜る事もできたが目も頭も完全に覚めてしまっていた。
時は、かっきり真夜中の3時。
「自転車であの高校へ行って帰って来てもそんなに時間はかからないはずだよな」
クシャクシャになっている髪を右手で撫でつけ、尚貴はむくりと起き上がった。
彼は名前を鳥島尚貴と言い、身長167あるかないかで、やや低いという位で特にこれといった特徴はないごく普通の青年だ。しかし会う人が忘れることのない印象的な瞳を彼は持っていた。
人によってはやや大きすぎると言われる目は、黒い部分が大半を占め、尚貴はそれをいつも人なつっこくクルクルさせている。そのせいか、今年22歳になるはずの尚貴であったが、いつも年齢よりかなり下に見られていた。
尚貴は制服の上着を軽く引っかけるとズボンをはき、重い無線等の、種々の装備を腰につけると宿直室を出る。すると、二畳あるかないかの事務所にある机に“ただいま巡回中”のプレートが入り口から見えるように立て掛けてあった。
やっぱりおやじさん警らに出たのか……。
尚貴がおやじさんと呼ぶもう一人いる警官は、本名は田所と言う。四十代前半であったが、妙に年寄り臭く、尚貴に事あるごとに説教をする為、いつの間にかそう呼ぶようになった。
尚貴はそのおやじさん宛に簡単に書き置きを終えると、年代物の自転車を裏の車庫から引っ張り出してだるそうにまたぎ、ぬるい夜風の中を泳ぐようにこぎ進んだ。
流石年代物であるために、一足こぐごと、キイキイと鳴る自転車が夜の闇に不気味に木霊する。それは辺りからなにか得体の知れないものでも呼び覚ましそうな音だ。
「くそっ油を差しときゃ良かったな。でも、まぁこう人気がないと自転車の軋みでもないよかましか」
尚貴はひとりごちる。
この辺りは山の斜面を切り崩し出来た新興住宅地で、沢山の新築だった家が建っている。オフィス街から二時間(住宅業者の売り文句は九十分)はゆうにかかる、はっきり言えば田舎に位置している。それでもバブルがはじける以前は人々はこの地を訪れ、いずれくる老いに対して穏やかな暮らしを夢見、希望とともにいつ終わるとも知れない住宅ローンを抱え込んだ。確かに環境は抜群、空はまだ青く空気もそう汚れてはいない。大きな病院と、ショッピングセンター、各種の学校がそろっていた。
それらは住宅業者が強引に誘致したのだが、バブル崩壊後、高い金利のローンと、通勤地獄に疲れ果てたが、まだ余裕のある父親達は自分たちの描いていた幻想から目覚め、さっさとこの土地から家族を連れ出て行ってしまった。
人々の減少に伴って大きなショッピングセンター等は早々に撤退した。住宅には次々と売り家の看板が立てられ、残ったのは売れるはずだった大半の新築の住宅、逃げることの出来なかった借金持ちと、有名大学への進学率の高い高校、それに魅かれた子を持つ母親と自己犠牲の虜になっている父親、さらにたとえ一人でも住人がいる所にはかかせない警官であった。
「あれ……」
尚貴は目的の学校が近づくにつれてある建物に電気が煌々とついているのに気付いた。校門に一旦自転車を止めてよく見るとそれは校舎の方では無く、問題の体育館であった。
「こんな時間に運動部の練習か?そんなわけないか」
この頭脳優先の高校の体育館は飾りで、ここで活発に運動する学生を見たためしが無い。いや、問題は今、真夜中であることだ。
不審に思いながらも尚貴はそろそろとペダルをこぐがキイキイという音は止みそうになかった。
「こんな時位静かに走れないのかよ!かりにも警官の自転車だぞ」
自分の責任なのにもかかわらず小声で悪態をつく。
尚貴は、自転車を体育館の入り口に止め「誰かいるのか?」と大声で言いながら刺すような光を遮り、一歩を踏み出した。
暗闇から、急に明るい光の中に晒された尚貴の瞳は必死に光量を調節している。
「こんな時間に体育館に電気をつけて警官を呼び出すなんていたずらじゃ済まない……」
かざした手の間から真っ先に、目に飛び込んで来たのは赤い色彩であった。まるで薔薇が敷きつめられているかのような“あか”だった。
「何……だ」
目をこする。まるでまだ夢から覚め切らぬ者がするように何度も何度もこすった。そうしてのろのろと足元に視線を向かわせる。
「血……なのか?そうなのか?」
尚貴の靴は血溜まりの中にめり込んでいるように見えた。
視線を徐々に上げると体育館の真ん中に誰かが横たわっているのが見えた。しかし一面に広がる赤い色に支配された尚貴は動けない。
「け……警察に……連絡……」
自分が警官であることも忘れてただそれだけが頭の中に浮かんだ。
あか……なんという、あか……
天井がぐるぐる回っている。
あか……なんという、あか……
尚貴の意識はそこで途切れた。
その血溜まりが文字を描いている事には気づかなかった。
「すげえ事になってるぜ」
人の声が聞こえる
「確かにひでえ……」
助けて……。
「警察に連絡するか?」
「俺はごめんだ!昔から坊主と警察にかかわると、ろくな事しかねえ」
そんな事言わないで、助けて……。
「それなら、さっさと行こうぜ」
「待てって。どうせこいつら死んでんだ。金目の物を頂いてからにしよう」
ひどい……こんな人達がいるなんて……。
どんな奴らだ……もし助かったらひどい目に合わせてやる。
目をゆっくり開けて見る。そこは真っ赤な世界でしかなかった。
「うわああああっ血、血だああっ」
「しっかりせんか!」
聞き覚えのある声が響いた。
「お……おやじさん?」
少し憔悴気味の見慣れた顔がそこにあり、その隣に熊のようにいかつい顔をした男が立っていた。
「あれ?」
尚貴は目の前の二人を確認して、初めて自分の体が動かない事に気付いた。
「もう、外してやっても構いませんか?」
「ふん。だらしのない奴だ。あの位の事で動転するとはな……しかし、まあいいだろう」
尚貴の手足はベッドにしっかり縛られていたのだ。その結び目をたどたどしい手つきで田所は、ほどき始めた。
「ここ、病院でよすね?」
白いシーツと白い壁、レール付きの天井を見て尚貴は言った。
「俺……一体どうしちゃったんですか?」
両手が自由になった尚貴は、上体を起こしながら聞く。何がどうなっているのか尚貴には分からないからだ。
「昨日の晩、君は高校でなにを見たのか覚えているかい?」
足首の紐をほどき終わった田所が溜息混じりに言った。
ああ……確か妙な電話があって、近くの高校まで自転車に乗って……体育館に……
尚貴は視線を宙に彷徨わせながら次第に昨夜の事を思い出していった。
「ああっ!おやじさん。大変な事が体育館で……」
「大変な事は分かっている。それより聞きたいのは、なぜ君があんな時間にあそこにいたか……だ」
苛々しながら、人らしき熊が口をひらく。
「おやじ……田所さん。この方は?」
おやじさんと言いそうになったのを訂正して尚貴は聞いた。
「県警一課の名塩正人警部さんだ」
熊の様に見えたのは、この男の豊かな髪と口を覆うように生えている髭の所為だった。
「一課……じゃあ、やはりあれは殺人ですか?」
「そういう判断は、君ら制服さんには関係ない事だ。聞かれた事だけに答えればいい」
名塩は尚貴の顔を睨みながら、ややきつい口調で言う。
尚貴は“制服さん”と刑事が使うこの言葉が、警官に対して蔑称である事を知っていた。そして、そういう彼らに逆らえない事も分かっている。
「昨日の夜……三時頃だったと思います。いえ、三時でした」
時間は確かに確認したはずだ。
「妙な電話が入り、その相手がこう言いました。体育館で少年がいじめを苦に自殺した。丁重に弔ってやってほしい……と」
「相手は誰だったんだ?」
名塩はまるで獲物を見つけた動物の様に期待で瞳をぎらぎらさせながら、尚貴を見つめてくる。その視線から尚貴は目を逸らせた。
「聞く前に、電話は切られました」
……だから制服は間抜けなんだ。ーと言わんばかりの視線を名塩は浴びせてくる。尚貴はそれに気付かないふりをして言葉を続けた。
「田所さんが警らにでておられたので、自分が代わりに様子を見に行く事にしたんです。もし、自分が出掛けている間に、田所さんが戻って来てもいいよう書き置きをして出ました」
一息つくと尚貴は残りの言葉を一気に吐き出した。
「高校につくと、体育館の電気はすべて点いていました。最初に目に付いたのは、血の海でした。その真ん中で誰かが横たわっているのにかろうじて気が付きました。それで俺……あ……その……そこから先は……すみません。覚えていません」
「おかしいな……」
田所は妙な表情を浮かべた。
「そうだな、それとも犯人がいたとしてそいつか?」
次に名塩は、こちらにうさん臭い人間でも見るような目を向けてくる。その理由が分からない尚貴は二人の表情を見比べ、どういう事か聞こうとする前に田所がこう言った。
「明かりは点いておらなんだ……」
「えっ」
「電気は点いてなかったんだよ!聞こえているか?」
名塩は吠える様に言った。
「わしが交番に戻ったのは、お前が出てすぐの様だった。そしていくら待っても戻る様子が無かったので心配になって、その高校に行ったんだ。体育館の前に自転車が止めてあったんで声を掛けようとすると、入り口のすぐの所にお前がうずくまっているのが月明かりで分かった。側に寄ると小声で 血だ……血だ……と繰り返し言ってたもんで、わしはぐるりと見回してみたんだ。そうしたらコールタールのような黒い物が一面に広がっていたのでびっくりしてな、だが電気のスイッチの在りかが分からんかったんで校舎の宿直室の先生を呼びにいって、初めて電気が点いたと言う訳だ」
「俺が嘘を付いてると言うんですか?」
尚貴は半ば泣きそうな顔で聞き返した。
確かに点いていた!今ここに田所だけがいたのならこう叫んでいただろう。
「いや……そうは言ってない。もしかすると誰かがいたのかもしれん。お前は不審な人影を見かけなかったのか?」
尚貴は静かに顔を横に振った。
「いずれ落ち着いた頃、また話を聞きに来る」
まるでくだらない事に時間を費やしてしまった……と、ばかりに名塩は大仰に手を振り病室から出ていった。
「気にするんじゃないぞ。誰だってあんな現場を見りゃ気も動転するさ」
しかし尚貴にはその言葉は聞こえていなかった。
電気は点いていなかった……それだけが頭の中を駆け巡っていた。
電気は点いていなかった……外は既に太陽の支配する世界となっていた。
あの様子じゃ血文字の事は気付いてないようだな……
名塩は病院の地下駐車場に止めて置いた覆面パトカーのハンドルに手を掛けながらつぶやいた。
全く気味の悪い事件だぜ……
死んでいたのはその現場になった高校に通う1年生の田中裕喜十六歳。はっきりとした検証や死体の検死結果は出ていなかったが、昨夜と今朝にかけての現場検証で検視官や鑑識共が気味悪がっていた。
血痕(そんな可愛らしい量ではなかったが)それに指紋、足跡は死体本人以外のものは一切無く、背中にでき始めていた死斑は大量出血によって薄桃色(死後1時間位。但し、体中の血が出ていた為に時間の特定は、はっきりと断言できないと検視官は言っていた)
凶器は、本人が両手に握っていたサバイバルナイフ。それを使って一気に左耳の下から喉にかけて斜め、刃に沿ってナイフを引いている。それは到底他人が傷つけることの出来ない角度であることが確認された。ここまでは自殺と言ってもさしつかえないだろう。
問題はその後だった。
まず自殺にみられるためらい傷は一切無く。不思議な程大量の血(検視官はこれだけの血を出すには鶏をしめる時の様に逆さに吊らないと無理だろうと言っていた)最大の疑問は体育館一杯に書かれた血文字(4名の男子生徒の名前が書かれていた)その血から生活反応が出たことだ
じゃあなにか、自殺を図ったその男の子は自分の首から血を流しながら手にその血を付け、体育館じゅうふらふらと歩きながら4名もの人間の名前を書いたと言うのか?それも死が目前に迫っているというのに、あんな丁寧に整った字を書けると言うのか?
名塩は何とも言えない悪寒が走るのを感じた。そして昔見た「ゾンビ」という映画を思い出す。
あいつらは人が死なない化け物になるんだったよな……銃で撃たれようが、刃物で腕を切られようが死の迎えは来ず、人間の血や肉を求める生き物と化す。そういえばこんな地下の柱の陰から……
コンコン
名塩は誰かが車の戸をノックした音に、心臓が掴まれたかのように驚いた。
「おっさん!あんたが車を出してくれなきゃ俺の車が出せねーんだよ」
普通ならおっさん呼ばわりでもされようものなら一発位頭にくらわしてやるところであったが、その日に限ってすんなりエンジンをかけ、車を発進させた。
名塩は何故か無性に太陽の光が恋しかったのだ。
今日一日ゆっくり家で休んでいいぞ……田所はそう言って、名塩の後に続いて交番に帰って行った。
尚貴はそれから精密検査を受け、どこにも異常がないのが分かると早々に病院から退散した。
あの血の主は一体誰だったんだろう……電話をかけて来たのは?
尚貴はそればかり考えている。しかし、それ以上に自分の不甲斐なさを恥じた。
看護婦の話では尚貴が病院に着くと、それまで放心していたのが、突然錯乱状態に陥って誰が声をかけても、ただ暴れるだけで聞こうとしなかったらしい。その為、尚貴が自分自身を傷つけないように手足を縛ったのだ。
尚貴はその話を聞くと、更に気が重くなった。あの名塩に制服呼ばわりされても仕方がない、というより当然の事の様に思われた。
手首と足首に残った縛られた痕が、擦れて赤くなっている。血もでたのか、治りきらない傷が未だうっすらと血を滲ませていた。それを見ると、かなり激しく暴れたことが予想される。
だが、尚貴の今の足取りはしっかりとしていた。
これは事件なんだ……この見放された町の小さな交番で一生を送るのではないかと半ばあきらめていた。それが、見ろ!とんでもない事件が起こったのだ。チャンスが巡って来たんだ。事件がどういうものかまだ詳細は知らされていないが、俺の勘ではこれがめったにない事件だと告げている。これを解決したら制服を脱ぐことだって夢じゃないかも知れない。
尚貴は、初めて自分が警察の人間で、犯人を追いかけ逮捕出来る立場の人間であることを自覚した。
それはどことなく自分が特別な人間になったかのように尚貴は思えて仕方がない。
しかし、尚貴が交番に戻ると、自分の考えが甘かった事を思い知らされた。
「関係ないって。それ、どういう意味なんですか!」
田所は事件の詳細、県警の見解など尚貴に請われるまま一通り話してくれたが、それを後悔している様な表情を向けてきた。
「だから言っとるじゃろう。県警と署轄の方で仕切るそうだから我々にはもう関係ないとな」
田所は、もうすべて終わったとでもいうように巡回日誌の続きを綴る。その回りを苛々と尚貴は行ったり来たりしていた。
「それに今日はもう帰って良いと言ったろ。何で戻って来るんだ、お前は……」
まるで聞き分けのない子供に対して、仕方ないと言わんばかりの口調であった為、尚貴は余計に腹が立った。どんな事に対しても田所が事なかれ主義であるのは、この一年間一緒に仕事をして十分理解していた。だがそれは時と場合によるものであり、決して今回は譲る気にはならなかった。
「県警は県警でやらせておけばいいじゃないですか。だから、俺とおやじさんとで別に調べてみるのも少しくらい……」
尚貴は机に両手をつき、田所を覗き込む。すると田所からは憐れむような目が返された。
「名塩警部に制服呼ばわりされたのが、そんなにこたえたのか?」
「そ……そんなんじゃないです」
「その上、刑事になりたいか……」
ひとつ小さなため息をつき、持っていたボールペンを日誌の横に置くと田所は言葉を続けた。
「まあ、君ら位の年じゃ刑事に憧れるのはしごくもっともな事だ。それに、たいてい警察に来る男の子はそれを目指してやって来る。だがなぁ、あそこは人間性善説を木っ端微塵にしてしまう。毎日付き合うのは幼い子供をいたぶり殺す事を快感にしている様な奴や、意味も無く人殺しを楽しむ様な奴、ま……そんな事件ばかりじゃないが、それでも刑事という者は済んでしまった事に対して行動を起こす役人じゃ。結局、自分の無力さ、不甲斐なさを思い知らされる。おまけに心も年追うごとに荒んで来る。正義を掲げるだけではもたんのじゃよ。動機が憧れならなおのこと、やめておいた方がええ」
「俺は……」こんな所で一生を終えたくない……尚貴はそう続けたかったが、ここで一生を終えるつもりの田所の前で言う事は出来ない。だが、田所はそれを見透かした様に言った。
「なぁ、人の生活を守るのが警察の仕事であるなら刑事だろうが警官だろうが何だっていいんじゃないか?ここで、普通の人達の生活を守り、時には空き巣位捕まえる機会はあるだろう。そんな暮らしで人との繋がりを大切にする事もわしはいいと思うがな……」
尚貴はもう何も反論せずに、引き寄せたいすを表に向けて座った。田所にいくら言っても聞き入れてくれないことが分かったからだ。
尚貴は既に暮れてしまった景色を眺めた。遠くに見える山の端が、まだ赤く光を反射している。気が付くと交番の表に掛けてある新聞受けに夕刊が差し込まれている事に気付いた。
(あの事件はもう載っているんだろうか……)
ガサガサと新聞をめくるが載っていない。見逃したのだと思った尚貴はもう一度最初からめくり直した。
「自殺……」
記事は、まるでこんな事は日常茶飯事であるかの様に、端に小さく載っていた。その横にいつの間にか田所もやって来て新聞の記事に見入っていた。
「おやじさん……」
こういうもんなんですか?半分怒り、半分は悲しみであろうか、尚貴の瞳の表情は田所には読み取れなかった。そして視線を記事に戻す。
「早すぎる……」
そう言って田所は、憮然とした表情でその場から離れていく。
尚貴は、この目立たない様に載っている記事から何か他の意味がくみ取れるのではないかという様に何度も何度も読み返した。
「何なんですか!あの記事は」
名塩は、日に焼けた顔を更に赤くし、捜査本部に響き渡る程の声を張り上げた。回りにいる署轄の刑事や警官、婦警もその剣幕にじっとことの成り行きを伺っている。
「それが、何だって言うんだ!まだ自殺か他殺かも分からんというのに、捜査は打ち切りだというのか!ふーざーけーんーなっ!」
名塩は電話を叩き壊さんばかりに放り投げ、それを署轄の刑事が受け取る。しかし既に電話は切れていた。
「警部、それで……やはり捜査は……」
県警から一緒にきた西脇がおずおずと聞いてきた。
「例の血文字の中に偉い政治家の息子の名前があったんだとよ」
名塩は吐き捨てるように言う。
(だから、それが事件に何の関係があるって言うんだ)
「明日には戻るようにと、我らの上司のご命令だ」
「しかし私は……」
西脇は名塩の顔を見ずに、窓から見える暗い景色を見ながらポツリと呟いた。
「何だ言ってみろ」
西脇は痩せた男で、銀縁の眼鏡を細長い顔に掛けていた。刑事というよりは学者に見える。神経質そうな小さな目、やや高い鼻梁に小さな口、それらを総合すると全体的に小作りの印象をうける。だが、眼鏡を通して見える小さな瞳は穏やかな光を発していた。
もし学者のように屁理屈をこねるような刑事だったならコンビを組むのはごめんこうむるところだった。しかし、実際は一緒に居て居心地の悪い男では無い。それに、もし印象通りの男だとしても、名塩はコンビを組みたいと思っただろう。それに見合うものを西脇はもっていたからだ。
「きっと帰れないと思いますね。荷物をまとめる必要はありませんよ」
「今晩、また何か起こるというのか?」
「さあ……そこまでは何とも……」
意味深に笑う西脇の歯は一本抜けていた。先月、尋問中に興奮した犯人に殴られた結果であった。
「まあ、おまえの勘は妙に当たる。信じるよ。それはいいとして、その抜けた歯を何とかしろ!」
歯が抜けた顔で笑うと、まるでマッドサイエンティストだ。しかし西脇の直感力は名塩にはないものであり、必要なものであった。その直感に何度も世話になってきたから。
「しばらく無理な様なんです」
西脇は真顔で言う。
金じゃないな。名塩は思った。では、これから色々事件が起こるというのか。
「飯でも食いに行くか」
そう名塩は言い、二人は捜査本部後にした。
「闇が私に味方する。そして、私を呼ぶ哀しい声が聞こえる」
青年は、喧騒の飲み屋街をゆっくり過ぎるとビルの立ち並ぶ通りに着いた。月はまだ欠けているようには見えず、その光を地上に発していた。
人気のないビル街は真っ黒な蔭を作り出し、それらはうねり、のたうち昼間の世界から解き放たれた事を歓喜し、別世界を地上に造り出している。そこへビルの谷間をわたる風はセイレーンのごとく唄い、四方を縦横無尽に駆けていく。
吹き抜ける風に髪すらなびかせずに青年は立っていた。着ているコートすらはためかない。その青年の瞳はこの辺りで一際目立つビルを見つめている。
「ここか……」
青年は囁くようにそういうと、ゆるりとした歩調で目的のビルに向かった。
あかいと思った世界は自分の目に入った血だと気付いた。
何とか動く右手で目をこする。
見てやる……
すると、目の前にぼんやりと人の輪郭が見えてきた。
「うまく探せねぇな」
目に焼き付けてやる。
「あったぜ!けっこう入ってる」
目に……
その瞳に焼き付いたのは、頭が割れ脳髄が飛び出している両親の首であった。