Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第11章

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 池田は悩んでいた。専務に呼ばれ、自主退職を勧めるような事を言われたからであった。それもいいか……と思う自分と、家族を省みず仕事に明け暮れた自分の存在は、会社にとって何だったのだろうと思った。ただがむしゃらにここまで来た。同期の誰よりも早く部長になり、ついこの間までは次の出世も、すぐだろうとも言われていた。それはもう過去形であった。
 悪くても左遷を考えていた池田にとって、何よりも辛い一言を聞かされた。「うちはメーカーだろう。商品のイメージダウンが一番こたえることは君が一番よく知っているね。君は会社を一番に考えて今までやってきてくれた。私もそれはよく分かっている。今度も会社のために、君が出来る一番の選択をして欲しい」私の出来る一番のことは私が消えること……家族を犠牲にした結果が今回の事件に繋がり、その上、自分も会社を追われることになった。
 これが償いだというのだろうか?池田はそれらを考えると自分の人生がいかに希薄なものだったのか気が付いた。今、自分が立っているところは固く、揺るぐことなどないと信じていた自分が滑稽でもあり、哀れだと思った。家庭を優先していればこんな事にはならなかったのではないのだろうか……。会社という得体の知れない本来ならば意志など持たない無機質である存在に振り回されていた。自分と向き合うことなど長い間しなかった。
 純一もそうなのであろう。「良い高校に入れて良かったと思う。父さん達には感謝してるよ」純一は入学するときそう言った。そんな意志のない子供に危機感を感じなかったのは池田である。純一が選んだ高校ではなく、中学の時の担当に頑張れば偏差値は高いが何とかなるだろうといわれ、我が子の意志をそっちのけで有頂天となり、あの高校を薦めたのは他ならぬ両親であったのだ。
 そのことに疑問を感じず、言われるがままに受験し、入学する。そこに純一の意志はなかった。意志表示させる機会を、事もあろうか教えるべき両親が教えなかった。そう、池田も意志表示をすることを忘れていたのだ。会社で逆らうことも無く、白と言われれば白。黒と言われれば黒。そういう生き方が知らず知らず身に付いた自分に出来るわけなどないのだ。
 池田は夜のネオンを背に、ふっと立ち止まり空を仰いだ。空など見上げているのは池田だけであったので、人々が妙な顔をして池田を見、通り過ぎる。
 今回のことは不幸な事だった。しかし、自分に向き直る機会が与えられたのだと前向きに考えることにした。人生のスタートをもう一度新たにきったと思えば良いのだ。ここでしか生きられないと思っていたが、現実は何処ででも人間は生きることが出来るはずであるし、どんな人生も選択できるのが人間の特権ではなかったか?選択肢がたくさんあったのにも関わらず、盲目になっていたのは自分であった。
 池田はそう考えると気持ちが楽になった。雑誌に自分たちの事が載ったというのが何だろう。そんなことはどうでもいいことなのだ。いずれそんなことは時間と共に人々の心から消え去っていく。大切なのは家族を守るという父親の義務であった。
 スタートをきろう。新しく。
 うちに電話をかけて今日は芳美にごちそうを作って貰おう。そうだ、ケーキも買って帰ろう。
 池田はそう思いながら、初めてうちに帰ることがこんなに待ち遠しいことであったのかと、浮き立った気持ちで歩き始めた。
 帰ろう。家族の元に……
 しかし、池田はその日、戻ることは無かった。



 朝から雨が降っていた。
 霧のような雨であった。地面に打ち返された空からの水滴は、水煙のように漂っている。
 ヒンヤリとした朝の空気が、雨によって更に冷たく感じた。
 そんな中を警邏から戻った尚貴は、濡れた雨合羽を交番の入り口で脱いだ。それを見て田所は気を利かせて熱いお茶を差し出した。
「だんだんと寒くなってくるな……」
「そうですね……」
 尚貴はそう言って湯飲みを受け取った。霧雨が髪を濡らし頬にへばりつくのを手でかき分けながら、お茶を一口飲んだ。
「うまいですよ、おやじさん」
 笑顔で尚貴は田所に言った。それを見た田所も満足そうな顔をした。
「ところで、昨日の……そう芹町さんはどうじゃったんだろうな……」
 例の週刊誌は、昨日の昼頃から回収され、今は店頭には無かった。
「回収も遅すぎた感がありますよ。結局、完売に近かったそうじゃないですか!」
「そうじゃな……じゃが、芹町さん……ずいぶんと取り乱しておったぞ。わしにも、あれは違うとか私じゃないとか……」
「手違いで済まないことをしたんですよ。会えばいつも言い合いになるし、もう会いたくありませんよ」
 それは尚貴の本音であった。純一が先走った行動に出なかったことだけが救いであった。もし、このことが原因で自殺でもしようものなら尚貴は伶香を許さなかった。だが最悪の事態は回避できた様であったのでとりあえずはホッとしていた。
 しかし尚貴は昨日の伶香の顔を忘れられなかった。気が強く、男を顎で使いそうな雰囲気の伶香が泣きそうな顔をしていたのが、尚貴の脳裏に張り付いていた。
「まぁまぁ、そういきりたちなさんな……」
 田所はむっとした顔の尚貴を宥めるようにそう言った。
「他の三家族は、今どうしておるんじゃろうな……」
「昨日の電話では、警官が悪質な何人かを連行したと言ってましたけど……。池田さんの方は、俺が昨日顔を見せた所為で空き缶や、石を投げる人間は姿を消しましたから良かったですよ……。全く現金なんだからな……」
 尚貴は溜息をつきながらそう言った。
「制服もまんざらじゃないということだろう……お前が私服だったら相手にされてなかったと思うがどうじゃ?」
 田所はからかうようにそう言った、それに対し反論しようとした尚貴であったが、田所が外を指さしたので、つられて後ろを振り返った。
「純一君?」
 純一は雨の降りしきる中、傘もささずに立っていた。
「どうしたんだい?」
 尚貴が思わず駆け寄ろうとしたが、純一が言った言葉で立ち止まった。
「父さんが……死んだ……」
 純一は、雨の滴なのか、涙なのか分からない濡れた顔を尚貴に向けた。
「死んだって?えっ……純一君?」
「僕の所為だよ……みんな……僕が……」
「純一君!」
 尚貴は純一を捕まえようと駆け出したが既に遅く、いつの間にか激しくなった雨の為に霞んだ景色に消えた。暫く辺りを田所と探したが純一は見つからず、尚貴は所轄に連絡をして貰うよう田所に頼むと、池田の家に向かった。
 嫌な予感がする……尚貴は胃に鉛を飲み込んだような苦しさを感じながら池田の家へと向かった。そんな尚貴を冷たい雨が身体を突き刺すような激しさで降り叩いた。

「鶴見さん、芹町さんに人が訪ねてきてるんですが……」
 鶴見の後輩である片桐が言った。
「えっ……ああ、追い返してよ。今、彼女酷く落ち込んでて、それどころじゃないんだよ」
 鶴見はそういうと、手で追い払うようなしぐさをした。昨日から市民からの非難の電話と、押し掛ける人間の対応に追われていた。伶香は昨日の事で、上司に酷くなじられ、謹慎するよう勧告された。伶香が悪いのではないことは鶴見にも上司にも分かっていた。それでも誰かが責任は負わなければならない。構成を担当した鳴海の方も、混乱していた。あんな記事では無かったと……。
 何処かで改ざんされたとでも言うのだろうか?鳴海があんな馬鹿げたまねをするはずはないのだ。それはここ一年つきあってきて、鶴見も知っていた。伶香の方は鳴海とは数年来のつき合いである。お互い信頼関係もあった。だからどちらも鳴海の仕業とは夢にも思わなかった。それでは一体誰が、どの時点で改ざんしたのか?その訳は?鶴見はそれを考えると昨日から一睡も出来なかったのである。
 一体誰が……
「追い返せって言われても……相手はどうも今回の件に関わってる少年の様ですけど……この雨の中、傘も差さずに来たみたいで、びしょ濡れなんですよ……多分、昨日発売された週刊誌の件だと思いますが、あの子には説明した方がいいんじゃないですかね……」
 少年が来たと聞いた鶴見は、暫く考えた後、打ち合わせ室にその少年を通すように言った。説明しておいた方がいいだろうと判断したのだ。いくらいじめに参加していたとはいえ、少年の両親を名指しで責める権利はこちらには無かった。 
「じゃ、第二打ち合わせ室でいいですかね……」
 片桐の言葉に鶴見は頷くと、伶香を呼びに戻ろうとした。が、そこで思いとどまった。伶香に今、そんな心の余裕はないだろう。そう考えた鶴見は自分が書いたと言って説明しようと思った。それが一番良いと……。
 打ち合わせ室に入ると、少年が案内された者から渡されたタオルを肩からかけて座っていた。その表情は青く血の気がなかった。それは冷たい雨にあたった所為だった。
「あんたが芹町さん?」
その声は鶴見には、酷くしわがれて聞こえた。
「そうだよ……。君は?」
 そう言った瞬間、少年は立ち上がった。
「そんなこと……知ってて聞いてるのか!お前の所為で……お前があんな記事を書いた所為で……」
 そう言って少年は俯いた。手は握り拳を作り、僅かに震えている。四人の内、どの少年かは鶴見には分からなかった。
「君達の両親の名前が載ったことは本当に申し訳なかったと思ってる。あれは手違いで、本当はあんな記事じゃなかっ……」
「手違いだとかそんなこと今更言われても仕方ないんだよ!その所為で僕の父さんは死んだ!会社の人は……ううん、みんな自殺だって言ってる。自殺したんだ!こんな僕の所為で……本当なら僕が死ななきゃならないのに……父さんには関係ないのに……あんな記事が載った所為で……みんな……みんなお前の所為なんだ!」
 少年は、泣きはらした目を更に赤くして叫ぶように言った。
「君のお父さんが亡くなった?」
 鶴見は驚きで立ちすくんだ。
「警察は……事故だって言ってる……だけど……そんなの嘘だ……父さんの会社の人が言ってた。父さんは会社を辞めるように言われたって……父さんには関係ないのに……辞めろって……。父さん……会社から出るとき酷く落ち込んでたって聞いた……きっと……もう嫌になったんだと思う……僕みたいな出来の悪い息子がいる家に帰りたくないって……そう思って……」
 その表情が、あまりにも痛々しくて鶴見は思わず視線を反らした。その死が事故なのか、自殺なのか、その事を知らない鶴見には判断のしようが無かったが、少年がその事で苦しんでいるのは手に取るように分かった。
「それは……お気の毒だったと思う……」
 鶴見にそういう言葉しか出なかった。
「気の毒?気の毒だって?そんな言葉なんか要らない!父さんを返せ!」
 少年はそう言って鶴見に掴み掛かった。しかし人より身長も、体のつくりも一回り大きくがっしりした鶴見に対し、少年は痩せて小さかった。その為、少年の振り上げる拳も全く堪えなかった。
「来週の週刊誌にはお詫びの記事が載るから……」
 鶴見がそういうと少年は叩くのを止めキッとこちらを睨んだ。
「どうせ……この事も書くんだろう?おもしろおかしく……いいね……それでお金がもらえるんだもの……人の不幸でお金を貰えてさ……」
 少年は、く、く、くと笑うとポケットからナイフを取り出した。そのかざされた刃は鶴見の困惑した顔と、天井の蛍光灯を映し出していた。
「君……馬鹿な真似は……」
 と、言ったと同時に鶴見は下腹に鈍い痛みを感じた。視線が下に向かうと突き刺さったナイフの柄が見えた。思わず手でその部分を触ると、なま暖かい血の感触が指に触れた。その血の付いた指を自分の目の前に持ってくると、やっと自分が刺されたことに鶴見は気が付いた。
「君……」
 鶴見は血の付いた手を広げたまま少年を見た。少年は涙を落としながら無言で立ちすくんでいる。
「帰るんだ……早く……君はここには来なかった。誰に聞かれてもそういうんだよ……俺は自分で転んで、このナイフを刺してしまった。君が刺したんじゃない。分かったね……」
 そういうと鶴見は、がくっと膝を落とした。痛みより下腹が酷く熱く感じた。
「早く……行くんだ!」
 鶴見がそう言った瞬間、打ち合わせ室の戸が開かれた。
「つるちゃん!」
 伶香はそう言って鶴見に駆け寄った。その後ろから先ほど少年を案内した片桐が叫んだ。
「鶴見さん!」
 二人は鶴見に駆け寄り、同時に少年の方を向いた。
「君は……池田純一君……」
 伶香は少年が訪ねてきたことを片桐に聞き、ここにやってきたのであった。
「鶴見さん、しっかりして下さい!」
「この怪我……俺が自分で……鈍くさいことしてさ……その子……関係ないから……」
「鶴見さん、何言ってるんですか!芹町さん、俺、救急車呼んできますから……ここ、お願いします!」
 片桐は伶香にそういうと飛び出していった。
「芹町って……じゃあ……この人は……」
 純一は最初に伶香を見、次に鶴見を見ると、もう一度伶香に視線を戻した。
「伶香さん……あの子……関係ないです……だから……家に帰してやって下さい……早く……」
「私と……勘違いして……刺されたの?ごめんなさい……私の所為なのね……」
 伶香は鶴見にそういうと、今度は純一を見た。その表情は瞼がないのかと思われるほど見開かれていた。
「純一君……ごめんなさいね……苦しめてしまったのね……私を殺したいほど……」
 純一はそれを聞いて、その場を飛び出した。
「純一君!」
 鶴見を抱えたまま、伶香は体勢を浮かせた。そんな伶香を止めるように鶴見は腕を掴んで言った。
「伶香さん……追わないでやって下さい……あの子が……やったんじゃないんだから……俺って……本当に……鈍くさくて……自分で……笑っちゃいますよね……」
 そこまで言って鶴見は意識を失った。

 尚貴は、池田の家で芳美を宥めながらイライラと連絡を待っていた。池田は事故死であった。昨晩、道路を横断しようとして酔っぱらい運転の車に跳ねられたのであった。
 所轄からの知らせでは、完全な事故死と断定された。しかし、連絡を受けた芳美と純一が病院に着くと、池田の同僚もそこにいた。同僚の話によると、お互い別々で帰ったが、道路向こうに歩く池田を見つけ、声をかけようとした瞬間に跳ねられたというものであった。その同僚は橘と言った。芳美も何度か池田と飲みに行く仲だと聞いていた。その橘が言った。あれは自殺ではないかと……。会社での池田の事をそこで芳美は知らされたそうであった。そして間の悪いことにそれを純一が立ち聞きしていた。
「あの子……橘さんの言うことを聞いて……それから……飛び出していったんです……」
 芳美は泣きながらそう言った。尚貴はそれを聞いて、純一の事を探して貰うよう所轄に連絡を入れた。
「大丈夫でしょうか……あの子……」
 芳美はそれだけ言うと、俯き、またさめざめと泣き出した。
「大丈夫ですよ……」
 そうは言ったが、年間に家を飛び出す子供や、失踪する人間は数え切れないほどいた。警察が、純一一人だけ特別扱いできるほど、人手も時間もない現実が尚貴を不安にさせた。 
 そこに尚貴の無線が鳴った。
「あ、おやじさん……どうです?」
『いいから、尚貴、とりあえず急いで戻ってくるんじゃ』
「え?」
『純一君が人を刺した様だ……とにかく詳しいことは戻ってからじゃ……』
 田所はそれだけ言うと無線を切った。尚貴は、驚きで顔が強張るのを必死に笑顔に替えて芳美に言った。
「済みません。すぐ戻ってきますので、純一君からの連絡を待って下さい。連絡が入ったら交番の方に電話を下さいますか?」
「はい……」
 尚貴は芳美を励ます言葉をいくつか言うと、急いで池田の家を出た。いつの間に雨は止み、夜空には星が、雨など降ったことなど感じさせないような光を発していた。そんな中を尚貴は自転車を力いっぱい漕ぎ、交番へと向かった。
 心が嵐のように吹き荒れていた。誰を刺したのだろうか……そればかりが頭をぐるぐると回っていた。
「おやじさん!」
 自転車を飛び降りるように乗り捨てると田所に叫んだ。しかし田所は所轄と連絡を取っている最中であったので、それが終わるのを待った。
「尚貴……」
 連絡を終えた田所が振り向きながら言った。悲痛な面もちであった。
「おやじさん……純一君は、誰を刺したんですか?」
「どうも……芹町さんと間違えて鶴見という人を刺したようじゃ……」
「………」
「鶴見さんの容態は命には別状はないだろうと言うことだが、今手術中で話は聞けないそうじゃ。ただ、意識が何度か戻ってその度に自分でやったと繰り返しておったそうじゃが同僚の片桐と言う男は少年が刺したと言って、芹町さんは自分の所為だと言っていて、到着した警官もどれが本当か混乱してるそうじゃ……じゃが状況から純一君がやったのではないかと言って、今総動員して探しておると言っておった」
「純一君……父親の死をあの雑誌の所為だと責めてこんなことを……」
 尚貴は呟くようにそう言って肩を落とした。どうしてこんな事になってしまったのか、分からなかった。
「多分純一君は、家に連絡を入れると思いますので、俺、戻ります」
「あっちの所轄が仕切るそうだから、お前を呼び戻したんだよ。今頃、池田さん宅には少年課の刑事が着いているだろう」
「そ……そうですか……」
 結局、交番にいるお巡りには関係のないことなのであろう。しかし尚貴は田所にその事で反論しなかった。しても無駄なことは充分、分かっているからであった。
 そこに電話が鳴った。その電話を尚貴が取ると、久しぶりだが忘れられない声がした。
『純一君を止められるかい?』
 その声は冷ややかに響いた。
「き……貴様!今……純一君は何処にいるんだ!」
 怒鳴るようにそう言った尚貴の言葉に田所が緊張した。
『彼がもっとも憎んでいる場所……そしてもっとも安らかに逝ける場所……』
「そんな抽象的な言い方は止せ!はっきり言えよ!」
『彼の母校だったところだよ……早く来るんだよ尚貴……手遅れになる前に……いや死は決まっている事だが、君が話をしたいというのでね……それに対して手遅れだが……』
 青年は低く笑って電話を切った。
「おやじさん、純一君は学校にいるそうです。所轄に連絡して下さい……自殺しようとしているようです。それにあの例の男も側にいるようです。応援を頼んで下さい!」
 尚貴は金庫を開け、銃を腰に装着するとそう言って自転車にまたがった。
「尚貴!わしも行くから暫く待ちなさい!」
 田所はそういうと無線で所轄に連絡を入れ、応援を頼むと、もう一台の自転車を引っぱり出し尚貴の後ろについた。
 そうして二人そろって自転車を漕ぎながら、田所が言った。
「名塩さんには連絡しなかったが良かったのか?」
「着いてからでもいいでしょう。なんにせよ、今連絡を入れたところで警部がこちらにすぐ来れるとは言えませんし……それより俺は純一君の方が心配です」
「そうじゃったな……」
 学校に着くとシンと静まり返っていた。門は閉ざされ、二人はそれをよじ登ることにした。
「門が閉まっとるのに……本当に純一君がいるのか?」
「あの男は嘘は言わない……」
 尚貴はそれだけ言うと、校舎に向かって走り出した。
 校舎の入り口でまた田所が言った。
「応援が来るまで待った方がいいんじゃないか?」
「手遅れになりますって……あっ!」
 田所にそう言いながら上を見上げた尚貴は叫んだ。屋上に誰かが居るのが月の光によって浮かび上がっていたからであった。
「あそこに!」
「これは待っておれんな」
 二人は校舎に入ると屋上を目指して階段を駆け上がった。不思議なことに校舎の入り口は開いていた。しかしそんなことを疑問に思う余裕は二人には無かった。ただ必死に四階建ての校舎の階段を駆け上がる。
「どっちに行けば屋上なんだ!」
 四階に到着すると、尚貴はそう言ってうろうろした。屋上に行くべき階段が見当たらないからだ。
「こっちだ!尚貴!」
 田所が非常階段の明かりの点く場所から叫んだ。非常階段への重い扉を開けると二人は更に上へと足を走らせた。最上階に着くと扉の上に屋上のプレートが見えた。尚貴がまずそれを開けて屋上へと飛び出した。田所も後に続こうと半分開いた扉を押そうとするとものすごい力によって押し返され、扉は閉まった。
「な……なんじゃ?」
 反動で尻餅をついた形の田所が立ち上がってもう一度扉を開けようとしたが、何度開けようとしても全く無駄であった。
「ど……どうなっとるんじゃ……」
 田所はドンドンと扉を叩いて尚貴を呼んだが、尚貴からの返答は無かった。田所は今来た道を引き返し今度は四階に出ようとしたが、どの非常階段の扉も開かなかった。
 どうしていいか分からない田所は無線にスイッチを入れて所轄へと連絡を入れた。
「南交番の田所です。応援は……先ほどお願いした応援はまだでしょうか?」
『そちらに向かっております』
 女性の流ちょうな声が聞こえた。
「早く……お願いします!」
『何度も申し上げておりますが……』
 女性の声はそこまでであった。
『応援など来ない……』
 女性から変わって青年の声はそう言って笑った。いかにも愉快そうに……。あまりの驚きに田所は無線を落とした。立ちすくむ田所の足元から笑い声が響いていた。
「これは一体……なんなんじゃ……」
 その時、尚貴の叫び声が聞こえた。田所は無線をそこに置いたまま、また屋上へと向かって走り出した。

 屋上では月明かりが、金網のフェンスの向こうにいる純一を浮かび上がらせていた。
「純一君!」
 尚貴は大声でそう純一を呼んだ。ゆっくりとこちらを振り返る影……。
「純一君!」
 確認するように尚貴はそういうと近づこうとした。しかし屋上の真ん中の所から足が一歩も前に進まなかった。
「尚貴……さあ、彼を止められるかい?。私に、少しでも希望があることを証明してみせてくれないか?」
 すぐ後ろから声と人の気配がした。尚貴はそれが誰なのか振り向かずとも分かっていた。
「俺の足を拘束してる何かを何とかしろよ!」
 尚貴は怒りを露わにしてそう言った。
「それは反則だよ……言葉で彼を説得してみたまえ。それが出来ないのなら、ここから今すぐ立ち去るんだ。それが尚貴の為だ……」
 哀れむように青年は言った。
「くそっ!」
 尚貴は小さくそうはき捨てるように言うと、純一に意識を戻した。
「純一君!」
 何度も名前を呼んだ。そうしてやっと純一は尚貴に言った。
「どうして生まれてきたんだろう……」
 純然たる疑問として尚貴に問う。
「純一君!とにかくこっちに来るんだ!こっちで話し合おう。ね、この間みたいに話し合うんだよ」
 こちらを向いてフェンスを両手で掴んだ純一が、じっと尚貴を見つめていた。しかし、月明かりとは逆光になっていて表情が分からなかった。
「どうして父さんが僕の罪を償わなければいけないんだろう……ね、お巡りさん……この世の中間違ってるよね……父さんみたいに良い人間に僕みたいな息子が生まれたなんて、おかしいよね……死ぬのは僕の役目だったのに……」
 ガシャンとフェンスに頭をこすりつけて純一は苦しそうにそう言った。
「いじめを平気でやって……友達を自殺させて……その事で父さんが自殺して……その上僕は人を刺して殺した……」
「君が刺した人は助かったんだよ!命には別状はないんだ!お父さんの事は本当に事故だったんだよ!君は自殺だと思いこんでるけど、事故だったんだ!」
 尚貴は必死にそう言った。何をどう言えば良いのかまるで分からなかった。とにかく応援が来るまで、時間を稼ぐしかなかった。純一が自殺をしようとしていることは報告した。きっと応援の部隊はこの校舎の下にシートを膨らましてくれるだろう……純一がもし飛び降りても無事なように……。それまで時間を何とか稼がなければならない。尚貴はそう考え、必死に純一に話しかけた。
「言っただろう!自殺で逃げることは出来ないって!」
「そうだったね……あの世で裕喜に会ったとして、そこからは逃げられないって言ってたよね……」
「そうだよ……今度はお父さんだって居るんだよ。君と会ったらきっと悲しむよ。どうして生きなかったんだって……またお父さんを悲しませるんだ……嫌だろ?」
 それを聞いた純一は笑った。泣き笑いに近かった。
「お巡りさん……僕、気がついたんだ……僕が死んでも裕喜にも父さんにも会わないんだよ。何故って?それは僕が地獄に行くから……。地獄に行く僕が、裕喜や父さんに会う訳ないんだよ!こんな簡単なことに気がつかなかったなんてね……。お巡りさん。僕はやっぱり馬鹿なんだ……」
 純一の甲高い笑いが木霊した。
「お母さんはどうなるんだ!そうだろう?お父さんと純一君一度に居なくなったら、独りぼっちになってしまうじゃないか!お母さんの事も考えて!」
「こんな息子……居ない方が良いに決まってるだろ……。お巡りさんって、いい人だけどやっぱり他人だよ。僕が今一番望んでることは死ぬことなんだ……どうしてそれを止めようとするんだよ……」
「生きて欲しいから……頑張って欲しいからだよ!死んだら……とにかく死んでも何も変わらないし、何も終わらない!」
 尚貴は自分でも何を言っているのか分からなかった。
「生きるって……こんなに辛いことだったんだね……。僕ね……僕が一番悪いのに腹が立つんだ……とにかく腹が立つ……なんでこんな風になってしまったのか分からないから……どうして裕喜が死んだのか、どうして父さんが死んだのか……どうして僕がこんなに責められなきゃいけないのか……。知ってる……分かってる。僕がしてしまった事の所為だって……分かってる……理解してる。だけど腹が立つんだ……」
 純一は夜空を仰ぎながらそう言った。その瞳からは涙が止めどもなく溢れる。そんな純一を見て尚貴は心が苦しかった。痛かった。問われて答えることが出来ない自分の頭の悪さに、今更後悔しても遅かった。純一を止める言葉を必死に探すが、出てくる言葉はどれも純一の心には届いてはいなかった。
「もう……無駄なことは止すんだ……」
 青年はそう言って尚貴の斜め前に立った。
「貴様が……みんな……仕組んだな……そうだろ……答えろ!」
 その言葉に少し驚いた顔をすると、青年はやれやれという顔をして言った。
「どうあっても何もかも私の所為にしたいようだ……」
「止めさせろ!」
「おや、尚貴が止めると言い出したんだろう?私が出来ないと言ったから……忘れたのかい?私には止めることは出来ないと」
 口元に笑みを浮かべて尚貴の頬を白い指で触れようとしたので、それを振り払った。
「操ってるんだろ!今の俺の様に……」
 ふっと青年は笑うと、視線を純一に向けた。
「見るんだ尚貴!あの少年の怒りと悲しみを……。全身から……いや、魂から発せられる止められない力を……意志を……自らを粉々にしてしまうほどの苦しみを……。あのまま彼が死んだら、その力に拘束されたまま魂は永遠に迷う。今以上の苦しみを感じながら永劫の時を、肉体のないままさまよう……。永劫だ……。君にその概念はないだろうがね、それは終わりのない拷問だ、断っておくが人の生きる八十や、九十の倍どころの話ではないぞ。さぁどうする?」
 問いかけるような言葉に、尚貴は何をどうすると聞かれているのか分からなかった。
「何が……言いたいんだ……」
 その時、純一の声が聞こえた。
「もう……楽になりたい……苦しいんだ……とても……とても苦しい……生きながら身体が砕けてしまったみたいに痛い……。もう、いいよね……ここから飛び降りて……楽になっても良いよね……良いよね……」 
「だめだっ!純一君!だめだ!」
 純一はフェンスから離れ、建物の端ぎりぎりの所に立っていた。強風が吹けばきっと落ちていただろう。しかし、ありがたいことに風は全く吹いては居なかった。
「尚貴!止められないだろう!さぁ、私に言うんだ!助けてくれと!あの子の魂を解放して欲しいと!私に出来るのはそれだけだと君は知っているだろう!」
 青年は激しい口調でそう言った。それはまるで手遅れにならないうちに、自分に引き渡せと言っている医者の様であった。助けられるのは自分だけだと……。魂を解放させる手術はこの自分しか出来ないのだと……。しかし、彼が手伝うのは残酷な死に様を晒すことであることも尚貴は知っていた。
「ダメだ!そんなこと言える訳ないだろう!」
 首を必死に振って青年に言った。
「あれは……一体……」
 再度、純一を見るとその周りに黒い霧のようなものが立ちこめていた。ゆらゆらとそれらは純一の周囲を漂う。尚貴にはそれが何かは分からなかったが、悪意の様なものを感じ取った。背筋を凍らせる何かであった。
「あれは……恨み悲しみを背負って死んだ者達の魂だよ……迎えに来たんだ……仲間になる魂を……」
 その青年の声は悲しみを帯びていた。
「ああなってしまった存在は、もう私にはどうすることも出来ない……今なら……助ける手伝いが出来る。尚貴……さあ……聞かせてくれ……私に助けてくれと言ってくれ……昔、君が言ったように……」
 青年は優しくそう言った。
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