Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第16章

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 尚貴は西脇に送られアパートに戻った。すると扉の前に伶香が立っていた。ジーパンにクリーム色のセーターを着ている。以前は髪をバレットでとめていたが、今日はおろしていた。ゆるくウエーブがかかったその髪が尖りがちの顎にかかり、勝ち気な印象を少し和らげていた。
「あ、今晩は……」
 伶香は視線を合わせづらそうに尚貴に言った。
「なにか御用ですか?」
 なんだろうと尚貴はやや身をこわばらせた。会うといつも怒鳴り合いの喧嘩になる所為だった。
「話したいことが……少しいいかしら?」
 尚貴を伺うようにやや下から覗き込むように伶香は言った。
「自分は何も貴方に話せませんよ。それに長野彰の事でしたら謹慎中の自分には何も分かりませんので帰って下さい」
 やや尚貴の口調がきつくなるのは否めなかった。
「長野彰が……何かあったの?」
 蛍光灯の明かりがやけに伶香の表情を青白く見せていた。見せていたのではなく本当に青白い顔をしていたのかもしれなかった。
「え?」
「最近、テレビも新聞も見ていないから……。実は私も謹慎中なの……」
 そう言って伶香は笑みを見せたが、尚貴には半分泣いているように見えた。
「……死んだそうです」
 どうせ既にニュースでやっているだろうと思った尚貴はそう言った。
「えっ……」
 伶香は絶句すると暫く言葉が出ないようであった。救いを求めるような瞳が尚貴の心を痛ませた。
「何故そうなったのかは聞かないで下さい。自分もそれだけしか分かりませんから」
「私の所為ね……」
 絞り出すような声で伶香は言った。初めてあったときの攻撃的な伶香はそこにはいなかった。今は崩れてしまいそうな程弱々しかった。
「良かったら、お茶……飲んでいきます?」
 思わずそう言った尚貴であったが、考えてみると独身男性の部屋にさそうのは適当でなかったと言った後で気が付いたが、伶香はただ頷いた。
 部屋の鍵を開けて伶香に入るように促すと、尚貴は台所に行き、やかんに水を入れて火にかけた。
「鳥島さん……」
「はい?」
「引っ越したばかりとか?」
 西脇と同じように何もない部屋を不思議に思った伶香が言った。またかと思いながら尚貴は「余り部屋に何かを置いたりしないものですから……」と答えるしかなかった。
「そう……」
 伶香は座ると、部屋に置かれた小さな机に頬を付いた。その前に尚貴が座った。
「いつもの芹町さんらしくないですね」
 尚貴は場を和ませようとして言ったが、逆効果のようであった。
「そんなに私って強く見えるのかしら……」
「そういうつもりで言ったわけでは……」
「いいの。確かにそうだもの。きついとか気が強いとか……何時も言われてるから……。別に気にしてないわ」
 伶香は真っ暗な窓の外を眺めながらそう言った。
「ところで……あの、何か用でしたか?」
「え、ええ……」
 そのとき電話が鳴った。
「ちょっと待って下さい」
 言うと尚貴は受話器を取った。相手は母親であった。
「母さん……あ、うん。そうなんだ……ごめん。あ、いいよ」
 今月から減棒のため、今回は仕送りが少なかったのだ。それで尚貴を心配した母親が電話をかけてきたのだった。母親と話している間に湯が沸いたのか、伶香は立ち上がって台所に向かった。
「あ、火、とめて貰えたら後は……えっ、ちょっと人が来てるんだよ。ち、違うって……」
 そんな会話をしている間に伶香はお盆に湯飲みをのせて戻ってきた。やっとのこと受話器を置いた尚貴は「済みません」と謝るしかなかった。
「お母さん?」
「ええ、心配性で……あ、お茶済みません」
「気を使わないで……。それで、両親はご健在?」
「奈良の田舎で年金生活してます」
「いいわね……私の両親はもういないから、心配してくれる人がいるって羨ましいわ」
「え?」
「母は癌で……父は交通事故で亡くなったわ……弟は……自殺」
 一瞬二人の間に沈黙がおりた。
「済みません……」
「鳥島さんが謝る事じゃないし……別に、いいの」
 尚貴は最初伶香のことを苦労無しで育ったわがままな女だと思っていたが、それを聞き、自分がそんな風に思っていたことを恥じた。
「話したかったのは……弟のことなの……」
 伶香の視線は湯飲みから立ち上る湯気をじっと見ていた。
「自殺……したんですよね」
「ええ、虐めに遭って耐えられずに……睡眠薬を飲んで自分のベッドで眠るように死んだわ……。私は受験の最中で同じ屋根の下にいながらそれに気が付かなかったの。遺書は残されていたけど、誰が苛めたのかは書いていなかった。私たち家族は怒りの持って行き場が無かった。ただ悲しくて……辛かった……。両親は共働きで……私が弟の事をもっと気にかけていたらあんな事にならなかったんじゃないかって……自分を責めたりしたわ。言い訳かもしれないけれど……私が虐め問題に取り組もうと思ったのはそれからなの……。みんなに分かって欲しかった。苛められている子が私の記事を読んで少しでも勇気づけられたらいい……苛めている子達が相手の気持ちを知って、自分のしていることに気が付いてくれたら……それだけを考えて今までやってきたの……。苛められている子も苛める側の子も色々あるって取材をしていて分かってきたわ……。でもどんな環境で育ったとしても、抵抗出来ない相手を苛めるのは卑怯な事だって、分かって欲しかった……だから……」
 伶香の湯飲みを持つ手が小刻みに震えていた。そんな伶香に声も掛けず、尚貴はただじっと耳を傾けることしか出来なかった。何故あれ程この事件に首を突っ込もうとしたのかが分かると尚貴は言葉を失ってしまったのだ。自分の弟を虐めが原因で失ったのだ。自分が助けてやれなかったという後悔が、伶香を突き動かす理由になっている。それは純一を助けられなかったという後悔を持つ尚貴にも当てはまる事であった。いつのまにか尚貴は伶香に親近感を持った。
「私は……あの記事では編集者に仮名にしてもらうように言っておいたわ。頼んだ相手はずっと一緒に仕事をしてきた人で、あんなミスをする人じゃないの。絶対、誓ってもいいわ……なのに仮名のはずがフルネームで載ってしまった。でも不思議なのは私は原稿に確かに本名を書いたけれど、上の名前だけで、フルネームでは書いてないの。なのに雑誌にはフルネームで載っていたわ……。こんな事考えられる?」
 尚貴にはそれを企んだのが誰だか分かっていた。しかしそれを話すわけにはいかなかった。何より、誰にでも見える相手ではないからである。だが、何故その話を自分にしてきたのだろうか?尚貴はそちらの方が気になった。
「どうして……そんなことを話すのですか?」
「私の言い訳を聞いて欲しかったの……。この事件に最初からかかわっている貴方なら馬鹿にしないだろうし、うそつき呼ばわりもしないと思ったから話したの……」
 堅い笑みであったが、伶香はやっと笑顔を見せた。今まで気が付かなかったが、伶香の笑みはとても綺麗だと尚貴は思った。
「そう言えば……鳥島さんはどうして謹慎中なの?」
「え、いえ……ちょっと失敗をしてしまいまして……」
 尚貴には笑うしかなかった。
「あの、こんな事言うのはお節介だと思うのですが……」
「なに?」
「余り思い詰めない方が良いですよ」
 そう尚貴が言うと伶香は急にくすくすと笑いだした。
「あの……」
「鳥島さんって変な人だわ……この間はものすごい剣幕で私に怒っていたのに……今は慰めてくれてる」 
「あ、えーっと……自分も誤解していたことに気付きましたから……」
 鼻の頭をかいて尚貴は言った。
「私も……ごめんなさいね……色々失礼なことばっかり言ったから。自分でも言い方に気をつけようと思うんだけど……のめり込んでくると駄目なの……特にこういう問題はね。可愛い女になれば媚びをうったりして情報も取りやすくなるんだろうけど、可愛くは性格的になれないの」
 くー
「え?」
「済みません、夕飯がまだなんです」
 尚貴は顔を真っ赤にしてそう言った。すると伶香がまた笑い出した。本当に可笑しそうであった。
「良かったら何か食べに行きません?私もお腹がすいてるの」
「あ、そうですね」
 普通なら断っていたが、何故か尚貴はそう答えた。何となく伶香ともう少し話してみたいと思ったのだ。
「そうだわ、駅の高架下に美味しいラーメン屋があるの。そこどうかしら?」
 伶香が言い、二人はそこに行くことにした。もしかすると尚貴の薄給を知っており、気を使ってくれたのかもしれないとも思ったが、確かに駅の高架下にあるラーメン屋はこのあたりでも有名であったので、単に伶香が行きたいだけだったのかもしれなかった。
「いいですよ」
「それと、一つ良いかしら……その他人行儀な話し方はよしてくれない?今は記者と警官じゃないんだから……。以前、交番で使ってくれた言葉で良いわよ」
 伶香は遠回しに、何かを聞き出そうとは思っていないと言っているのだ。
「あ、そうですね……あっと……」
 普段通りで良いと言われても急に戻せない尚貴はそう言って笑った。

 高架下のラーメン屋は既に人で溢れていた。店舗自体が小さいので、中に入って食べることが出来ない客は、外の草むらや、道路に座り込んで食べていた。店の横に外で食べる客のためにラーメン鉢を返す所があった。
 尚貴も警邏中によく見ていた光景であったので別段おかしいとは思わなかった。ただ、高架下にはいくつも空間があったが、金アミが貼られ立入禁止の札がかかっている。消防署関係の倉庫や、何が入っているのか分からない市の倉庫があるからだ。だが、そこにもいつの間にか破られた金アミを越えて入り込んだ客があちこちに座ってラーメンを食べていた。防犯用に水銀灯も設置されているため、夜でも高架下は明るい。その上、コンクリのパイプなどが放置されている為に、丁度良い椅子代わりになるからであった。立入禁止の札は見えているのだろうが、客は別段気にせずに座るのである。
 尚貴はいつも警邏の時にその客を追いだすが、一回りして帰ってくるとまた客が入り込んでいるのだ。何より、中には鉢を返さずに放置する客も多いのだ。その為、金アミを修理して欲しいと何度か役所に言ったが、まだ直す様子は無かった。そのくせ時折見回りに来る役人が、広場に放置されている鉢を見て、ラーメン屋に苦情を言う。ラーメン屋は客がどうするかは客のモラルの問題で自分が教育する事じゃないと突っぱねる。すると今度は近くの交番にやってきて文句を言うのだ。
 暫く並び、チャーシューメンと餃子、缶ビールをそれぞれ二つずつ買うと、座る場所を探した。しかし、そこら中に客が座っておりなかなか場所が無かった。
「勤務中じゃないからいいっか……」
 そういうと尚貴は破れた金網を覆ってある板を動かして、中に入った。
「いいの?」
「俺がこれを被せたんだ」
 道々話しながら、やっとくだけて話せるようになった尚貴が伶香に言った。
「本当はここに入っちゃいけないんだ。いつもは警邏の時にこういう所に入った客を追いだしてるんだけど全然効果ないって事で、いくつか板を立てかけたんだ。知ってる客はそれをよけて進入するみたいで、板の効果のあるところとないところあるけど、ここは誰も気づいてないみたいだから、ま、いっかって……」
 店から見えにくいのか、今尚貴達の入った高架下は誰もいなかった。
「ガチガチのお巡りさんだと思ったけど、そうじゃないんだ」
 そう言って伶香は笑みを浮かべた。
 二人はそこら中に放置されている木箱に座るとビールを空けた。
「そうね、仲良く謹慎に乾杯!」
「なにそれ……」
 尚貴は笑いながらビールを一口飲んだ。久しぶりのアルコールは胃にしみた。
「ぷはーっ。美味いっ」
 そう言って口元を拭う伶香に尚貴はあっけに取られた。
「ぷはーって……」
「やだ、家のように飲んじゃったわ……」
 顔を真っ赤にして伶香は言った。
「芹町さんって見た目と全然違う……」
「こうやって美味しく頂くのよ」
 得意げにそう言った。
「……ちょっと違うような……」
「ラーメンだって音を立てずに食べるのは嫌い。というより音を立てずに食べられないから。私って、ちょっとおやじ化してるみたい……」
 ふふっと笑って伶香はラーメンを食べ始めた。暫く無言で食べていると、破れた金網に気が付いた客が何人か、二人と同じように木箱に座ってラーメンを食べだした。
 先に平らげたのは伶香の方であった。
「職業柄食べるのが早くなって……何処ででも眠れるし……」
 言いながら鞄から煙草を取り出した。
「吸って良いかしら?」
「どうぞ」
 尚貴がそういうとビールの缶を灰皿にして伶香は煙草を吸った。
「鳥島さんは吸わないの?」
「周りはみんな吸うけど……吸おうと思ったことないからさ」
「私の周りはみんなヘビースモーカーかな、休憩時間が特にないから、煙草を吸うって理由だと一服出来る訳、それで癖になっちゃったみたい……」
「記者って大変そうだ」
 尚貴は本気でそう言っていた。
「大変だけど、やりがいあるわよ。警官の方が大変だと思うけど……」
「大変じゃないよ。普段は結構暇だし」
「税金泥棒とか言われるんじゃない?」
「結構言われる」
 笑うしかなかった。
「こうやってると、世間で起こっているいろんな事件が嘘みたいに見えるわ……」
 緩やかに吹く風が伶香の髪をサラサラとなびかせた。足にぴったりとしたジーンズは細身の足を強調していた。よくよく観察すると伶香はそれほどがっしりした体型ではなかった。手足が長く、化粧気のない容貌は清潔感が漂っていた。
「そうだ、鳥島さんって将来やっぱり刑事を目指してる?」
「え、少し前はそう思ってたけど……今はどうかな……」
「色々あって考え変わったの?」
「そういうのじゃなくて……何となく漠然としてるけど……時々妙な焦燥感に襲われるんだ……理由が分からないから困ってる」
 何故伶香にそんなことを言ったのか尚貴にも分からなかった。ずっと人と話をしていなかった分、誰かと話したかったのかもしれない。
「そうね……私、心理学も専攻してたんだけど……」
「え、大学何処行ったんだい?」
「東の方の大学」
「?」
 尚貴にはよく分からなかった。そんな尚貴に伶香は「別に何処でも良いじゃない」といってごまかした。
「素人の意見として聞いてね。私ね、鳥島さんの部屋を見てあることに気が付いたの。整理され、必要以上のものがない部屋……どちらかというとがらんとした感じがしたわ。ああいう部屋の持ち主は、失踪をしようとしているか、自殺を考えているか、どちらかの心理状態の人よ」
「え??」
「確かに部屋に何もないからと言ってすぐにそれに結びつく訳じゃない。シンプルな部屋が好きな人もいるわ。色々買いたくても貧乏で買えないとかね。でも、それと鳥島さんの部屋は違う。なんだか……生活感がないのよ……。人間はお金が無くても、それなりに自分の場を飾ろうとするものなの。自分のテリトリーを大事にするのは人も動物も同じなのよ。だから何か自尊心を満足させるものを置いたりするの。でも鳥島さんは関心がないでしょう?私はだから引っ越したばかりなの?って聞いたのよ。でもそうじゃなかった。あそこにずっと住んでいるのに、本当に住んでいるのか分からない部屋なの」
 心配そうに伶香は言った。
「別に自殺したいとか失踪したいとか考えたことはないけど……昔から自分の部屋はあんな感じだったし……だからそれが変だとは思わないよ」
「あんな風な部屋……一度見たことがあるわ……弟が亡くなった時、あの子の部屋があんな感じだったの。ものは色々置いてあったけど……綺麗に片づいていて……」
 当時のことを思い出し、伶香は言葉を詰まらせ沈黙した。何を言えばいいのだろうかと尚貴が思案していると、急に声を掛けられた。
「鳥島さんじゃないですか……」
 その声は半分あきれた声であった。
「あっ、湯水さん……」
 同期の湯水であった。湯水は金網の近くに自転車を止めてこちらに入ってきた。
「今鳥島さんの代わりに交番に入ってるんですけど……ここは入っちゃ駄目な所だと鳥島さんも知っているはずでしょう……」
 苦笑しながら湯水は言った。本気で怒っているのではないのだ。
「あ、悪い……」
 そろそろ警邏の時間であることを尚貴は忘れていた。
「済みません。私が無理言ってしまって……」
 伶香がそう言って頭を下げた。
「こちら、友人の芹町さんです」
 尚貴はそう湯水に紹介した。
「あ、初めまして鳥島さんと同期の湯水です。やぁ綺麗な方ですね」
 そう言って湯水は尚貴の肩を意味ありげにつついた。
「な、なんだよ……別に何もないって……」
「ま、ここは目をつむりましょう。その代わり今度何かおごって貰おうっと、じゃ、鳥島さん」
 手を振って去っていく湯水に走り寄ってその肩を掴んだ。
「あの、湯水さん……長野彰……どうなってますか?」
 小声で尚貴は湯水に聞いた。伶香は察しているのかこちらに来ようとはせず、木箱に座って煙草を吸っていた。
「詳しいことはこっちまで情報は降りてこないけど、父親と息子が死んで母親は病院に入ったみたいだ」
「父親も?」
「ああ、窓から落ちたか落とされたのか分からないけど、死んだってさ」
「県警からは誰が来てる?」
「名塩警部がそのまま受け持ってるよ。あの人も大変だよ。最初の件で来てから済めば次、次って立て続けに受け持ってるだろ。報告書も書く暇ないんじゃないか?」
「そうだろうね……」
「じゃ、交番に戻るとするよ」
「田所さんは元気にしてる?」
「お前の心配ばっかしてるよ」
 そういうと湯水は金網を越え、とめてあった自転車に乗ると去っていった。それを見送ってから尚貴は伶香が座っている木箱に腰を下ろした。
「いずれ分かるから話すけど……長野彰の父親も亡くなったそうだよ」
 それを聞いた伶香は膝に両手をおいて顔を項垂れた。
「私はとんでもないことをしたのね……」
「あの記事が全ての原因じゃないと思うよ」
「きっかけを作ってしまったことは事実だわ……。確かに虐めは許されない事よ。でもだからといって、こんな風な結果を望んだ訳じゃないの。苛めた当人が反省して……優しい人間になってくれたらって……。済んだことは仕方ないもの……当人がいくら祈ったところで自殺した裕喜君が戻ってくるわけでもない。だから自分たちのしたことで一つの命がこの世から消えたことを反省して、一生をかけて償う位の気持ちになって欲しかったの……」
「芹町さん……」
「本当にそれだけだった……あの四家族に向けた記事じゃない。全ての子供達に向けて送ったメッセージだったの……それが……あんな事に……」
 泣き出しそうな伶香の思い詰めた表情が嘘を付いていないことを証明していた。しかし、尚貴にはどう言って慰めて良いのかが分からなかった。ただじっと耳を傾けていた。
「……そろそろ帰るわ……。くだらない話につき合ってくれてありがとう……」
 伶香は立ち上がってそう言った。その瞳は先ほどの弱々しい光をもう灯していなかった。
「こっちこそ……謹慎で退屈していたところだったから、なかなか楽しかった」
「愚痴をいうのは今日この時間まで。明日からまたがんがん記者として追っかけるからそのつもりでね」
 にっこり笑ってそう言った伶香は初めて会ったときの強さを身体から滲ませていた。伶香がめげないのはやはり亡くなった弟の事があるからだろう。それが伶香の支えであり、強さなのだろうと尚貴は思った。
「もちろん」
「じゃ、またね」
 そう言って伶香は駅に向かって走っていった。そんな伶香を見送り尚貴は羨ましく感じた。伶香が取り組んでいる真摯な態度は尚貴にとって衝撃であった。自分にあの強さがあるだろうか?失敗を反省し、後悔し、何もかも投げ出したくなろうとも、伶香は絶対に自分の信念を曲げたりしないだろう。信じているからこそあのパワーが生まれるのだ。
 では自分はどうか?尚貴は考えた。自分は何を信じて警官を目指し、次に刑事になりたいと思ったのかが今では思い出せないのだ。廃れている正義を信じていたのだろうか?犯罪者を捕まえて少しでも社会の役に立ちたいと思ったのか?それともドラマで格好の良い刑事が出てくる番組にのめり込んだのだろうか?
 どれも違うのだった。
 尚貴はぼやけた月明かりを頼りに自分の住むアパートに向かって歩き出した。
 何故なんだろう……何故警官になったのだろう……
 今まで不思議とは思わなかった。確かに悪い奴を捕まえたいと思った事は覚えている。それが何時だったか忘れてしまっていた。普通小さい頃はあれになりたいこれになりたいという将来の夢があったはずである。尚貴はそれが思い出せなかった。
 小さい頃……何になりたいと思ったのだろう……。それはどうでもいいような事でもあり、とても重要な事のような気もした。
 捕まえたいだけだったのか……?



 長野彰が殺されたことを賢はニュースで知った。
「……嘘だ……」
 薫は自分の息子がテレビの前で呆然と立ちすくんでいるのを見て心配になった。
「賢ちゃん……どうした……あっ」
 賢が何を見ているのかを知って薫は言葉を失った。
「あいつが……死んだなんて……」
 身体がぶるぶると震えだした。裕喜が血文字を残してから次々とそこに書かれた人間が死んでいくのだ。最初は偶然だと思った。しかし彰が死んだことで賢はその気持ちがぐらついた。だが、忘れると決めたのだ。自分がしたこと、誰が死んだのかを全て忘れると決めたのだ。
 動揺していた気持ちをなんとか押さえ、賢は自分の部屋へ戻ろうとテレビに背を向けると、母親の薫が呆然と立っていた。
「母さん?どうしたの?」
 薫の目線はニュースに釘付けであった。
「……」
「母さん!」
「え、あ、賢ちゃんどうしたの?」
「どうしたのじゃないよ……聞いてるのは僕だよ」
「そ、そうだわね……ごめんなさいね……」
 薫がニュースを見て動揺したことに気が付いた賢はタイミングの悪さに舌打ちしながら言った。両親は大東新聞の記事を信用してはいなかったが、それでも自分の名前が出たことで父親の広は名誉毀損で訴えるといい、母親は賢を守ってあげると言って抱きしめてくれた。二人とも賢がした虐めについて書かれた記事を信じてはいなかったからだ。
「母さんは心配しなくてもいいよ。僕は自殺なんか考えたことないし、父さんがいくら専制君主のように僕にあれこれ指図したとしても憎んでるわけじゃなくって、立派な跡継ぎになって欲しくて色々言ってくるのは分かってるからさ」
 それは口だけの言葉であった。
「貴方がちゃんと分かってくれているのなら良いの……でもお母さん心配で……」
「僕は何もしてないよ。虐めだってやってない。僕の事信じてくれないの?」
「信じてるわ……そうじゃないの……お母さんが不安なのは……」
 それだけ言って薫は口を閉じた。暫く何か言うのではないかと待っていたが、薫が何も言わないことが分かると賢は自分の部屋へ戻り、ぐったりとベッドに寝そべった。
 裕喜が自殺をしてからまともに睡眠を取ることが出来なくなった賢は、いつも胃の中に不快な重さを感じていた。罪悪感や後悔ではない。何処にいても裕喜を感じるからだ。机に向かっていようが、ベッドでうとうとしていようが、見えない何者かが自分を見つめている気配を感じた。神経質になっているだけだろうと自分に言い聞かせるが、冷たい何かが背を撫でる感覚を頭で否定しても心が納得しない。
 何かがじっと見つめている。それは窓からであり、閉まりきっていない押入の隙間でもあった。時には天井の隅や自分の真後ろからも視線を感じた。
 いや、偶然が重なりすぎ周りに死人が出ているから神経質になっているだけだ。霊など信じていない。死ねば全てが終わるのだ。魂などこの世にはない。あると信じるものだけが見ることができ、感じるのだろう。神や仏など賢は信じていなかった。自分だけが信じられる唯一のものだからだ。
 眠ろう……手つかずの宿題を投げ出したまま賢はベッドに沈み込んだ。裕喜と純一の自殺、そして殺された彰のこと、それら何もかも忘れたかった。何故だか次が自分のような気がして仕方がないのだ。しかし、自分はどんなことになっても自ら死を選ぶとは思えなかった。裕喜や純一は弱かったから自殺した。
 彰は不幸にも殺されてしまったが、どちらにしても賢は自殺など弱者がそこに逃避するのであって自分は絶対そんな気持ちにならないと確信しており、殺された彰のような立場に自分が追いやられることはないだろう。例え父親が賢の不甲斐なさをののしろうと、疎ましく思ったとしても自分の地位を脅かすような行為を、あの尊大で我が身の保身ばかり考えている父親がリスクの伴う殺人を犯す訳がないのだ。結果、自分には死というものはほど遠いものだと考えた。
 もしも裕喜が呪うとしたら賢ではなく勝己だ。賢はただ勝己にくっついていただけでリーダーは勝己だからだ。裕喜を虐め、高笑いをしていたのは賢ではない。
 それなのに何故これほど死んだ人間の影に怯えているのだろう。心の何処かにやってはいけないことをしたという自覚があるのだろうか?
「賢ちゃん電話よ……」
「うわっ……母さん……部屋にはいるときはノックしてよ……びっくりしたじゃないか」
 突然声を掛けられて驚いた賢はもう少しでベッドから落ちるところであった。
「ごめんなさい。何度か呼んだんだけど、もう寝たのかと思って……。小川君からよ」
 そう言って薫は子機を渡すと、賢の部屋を出ていった。
「もしもし……」
『賢、遅くにごめんね』
 良い子ぶっている勝己の声が聞こえた。周りに家族でもいるのだろうか?
「なんだよ……こんな時間に何の用だよ」
『聞いた?彰君が殺されたの……』
 あくまで猫を被った勝己の声に賢は吐き気がした。
「テレビで見たよ……」
『ねえ、どうしてこんな事になるんだろう……』
 それはこっちが聞きたかった。
「知らないよ……」 
『賢って……冷たいね。友達が死んだんだよ』
 賢は呆れて次の言葉が出なかった。
『裕喜も純一も自殺……その次は殺人だよ……可哀相だと思わないのかい?僕たちは友達なのに……少しくらい悲しんでやれば?』
 多分近くに両親がいるのだろう。勝己は何処までもいい友人ぶっていた。本当の勝己はこんな奴ではないからだ。賢は怒りがこみ上げてきた。この男の所為で毎日怯える日々を送ることになってしまったのだ。
「この……猫かぶり!お前の所為だろ!お前が最初に裕喜のことを持ち出したんだ。その上、嫌がる純一を引きずり込んだのはお前じゃないか!それも裕喜と純一が幼なじみだって知ってて、片方を苛めることを一番喜んでいたのはお前だ。苛めるのはどっちでも良いって言っただろ!」
『ふうん。一緒になって楽しんでたのに、僕が一番悪者になるのかい?』
 電話向こうでどんな表情で勝己がいるのか見ないでも賢には分かった。
「そ、そうだ。お前が一番悪いんだ。僕は関係ないからな」
『誰も僕を疑わないよ。言いたければ誰にでも言って廻ればいいさ。でもそんなことしたらどうなるか賢が一番良く知ってるよね』
 くすくすと笑いながら勝己は言った。その言い方から、周りに誰もいなくなったようであった。
「知らないよ……もう僕に構わないでよ。僕はもう忘れたいんだから……」
 そう言ったところで背筋に冷たいものが走った。真後ろに何かがいる気配がする。そちらが気になる所為か勝己の声は妙に遠くから聞こえた。
 後ろを振り返るのが怖かった。膝がガクガクと震えていた。寒くはない。そして自分以外誰もいない。だが何かが自分に警告を発していた。振り返るな……と。
『賢……聞いてるのか?』
「勝己……僕は後悔してる……」
 恐怖のあまり涙がうっすらと瞳を覆った。
『お前だけさ……』
 馬鹿にしたような声で勝己は言う。
「死にたくない……こんな事で……」
『お前まで馬鹿なことをするなよ』
「したくない……だけど……追いつめられてる……それが何か分からない……」
 そう賢が言うと勝己の笑い声が聞こえた。違う……勝己じゃない……。途中から声の感じが変わったのだ。それに気が付くと血の気がさあっと引いていくのが分かった。
『後悔してるんだ……』
 ケラケラと笑いながら裕喜が言った。
「裕……喜……?まさか……そんな……お前は死んだんだぞ!違う勝己だろう!こんな時に悪ふざけするのはやめてくれよ」
『でもこういう状況になったから後悔したんだ。僕を苛めていたことは後悔なんかしてないんだろ……』
「してる……してるよ!だから許してよ!」
 賢は必死にそう言った。
『僕がどんなに苦しかったか分かる?毎日どんなに辛かったか分かる?分からないだろ。僕の立場にならないと分からないよね……結局、こういう事ってさ、同じ目に合わない限り分からないよね』
 冷たい声で裕喜は言った。
「止めてくれよ……許してくれよ……」
『僕は……言った……』
「裕喜……」
『何度も言った……』
「お前だってわかってるだろ。勝己には逆らえないって……」
『お前らの尿だって飲んだ、冬の川でだって泳いだ。裸でも踊った、そして泣きながら何度も頼んだ……。でもやめてくれなかったよね……』
「だから謝ってるだろ……」
『今更謝られても何もかも遅いよ……だって僕は死んでるんだよ……』
 そう言って裕喜は笑った。
「……誰かが悪戯をしてるんだ……。裕喜のはずがない……お前一体誰なんだよ!」
『賢もこっちにおいでよ……そうそう、昨日彰がこっちに来たよ。今度は立場が逆だけどね』
 ふふふと意味ありげに裕喜が笑った。
「何だよ……一体何だよ……」
 頭がパニックになっていた。
『今度は僕が純くんと一緒に彰を苛めてるんだ。楽しいよ』
「純君って……純一か?あいつだってお前を苛めてただろ!何であいつは特別なんだ!」
『純君は……ずっと僕に謝ってくれていたよ……助けてはくれなかったけど……でもその気持ちは分からないでもないし……。だから純君が自らこっちに来てくれたとき、僕は許したんだ……』
「……僕は絶対……自殺したりなんかしない……しないぞ!」
 そう賢が言うと電話が切れた。プーという音だけが耳に響く。
「これは夢だ……夢なんだ……あいつは死んだんだから……だからあいつが掛けられるわけがない……そうだ、悪戯だ……気味の悪い悪戯なんだ……」
 先程感じた気配が後ろからした。
 振り向いたら……絶対何かがいる……駄目だ。振り向いたら駄目だ……。
 ギュッと目を瞑って賢は身体を小刻みに震わせながら必死にその場で踏ん張った。負けたくはなかった。苛められ反抗できなかった裕喜、逆らうこともせずただ泣いていた。その情けない人間に自分が今追いつめられ、恐怖を感じることがどうしても許せないのだ。 暫くするとフッと気配が消えた。それが分かると身体が弛緩したように賢は床に座り込んだ。消えたのだ。後ろにいた何かは消えたのだ。そっと視線を後ろに向けると、いつも通りの部屋だった。ベッドも机もいつものようにそこにある。ホッとして視線を戻すと床から裕喜の顔が生えていた。
「ぎゃあああああ!」
 飛び上がって逃げようとしたが、床からにゅっと生えた手が太股を掴んでおり、立ち上がることができなかった。 
「なっ……なっ……くそ……くそう!」
 裕喜の顔は血で染まっていた。その顔がにたりと笑うと血糊で赤く染まった歯が光った。
「お前は死んだんだ!死んだんだ!死んだんだよ!」
 近くにあった教科書を掴み、何度も何度も裕喜の顔を殴った。だがその度に裕喜は血をこちらに飛ばし、ニタニタと赤い歯を見せて笑った。
「こっちに来てよ……賢が僕を弄んだように僕も賢を弄んでやるから……」
 ぬるぬるとした感触の裕喜の指がますます賢の太股に食い込んだ。賢は手から教科書を放り投げ、太股に食い込む指を離そうとしたが無駄であった。見る見るうちに指は太股に沈み、とうとう手首まで太股に沈んだ。
「ひいいいいっ……ひい……ひいいい」
 太股にすっかり沈んだ裕喜の手は薄い皮膚の下を手の形を浮き上がらせて蠢いた。何故か痛みはない。
「けーーー……ん」
 ひゅうっと言う呼吸音と共に裕喜の口から賢を呼ぶ声が発せられた。
「やめろ!やめろうっ!」
 堪えていた涙がどっと賢の頬を伝った。何故これほど叫んでいるのに母親は気付いてくれないのだろうか?
「このまま僕が賢の体の中に入ったら、賢を操ることが出来るのかな……」
「ぎゃああああっ……」
 賢の意識はそこでとぎれた。
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