Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第20章

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 優しい人ね……

 少女は微笑みながら--だが口元は動かさずに言った。心に語りかけてきているような感じで声は発せられていない。尚貴は驚きに目を見張ったまま、膝を折ってなにかを祈っている賢の姿を見下ろしたが、気づかないのか、それとも尚貴にしか見えないのか分からないが、座ったまま頭上にいるであろう美子に目を向けることはなかった。

 でも……いつまでもそんな気持ちでいられるのかな……

 困ったような、それでいてどこか楽しげな表情で美子は続けた。

 君はなにか知っているのかい?

 尚貴は口に出さず心の中で問いかけた。すると美子は顔をやや左に傾けて、クスリと笑う。馬鹿にしているわけではないのだろうが、尚貴からするとあまりいい気持ちはしなかった。

 私の知っていることは……

 美子は言いながら視線を下に落とす。つられて尚貴も顔をしたに向けると賢の小さな頭が見えた。

 彼はもう長くないってことくらい。
 だって、彼のお友達が呼んでいるんだもの。

 その言葉に尚貴はつばを飲み込んだ。  

 あの男について君は知っていることがあるのかい?

 尚貴は問いかけて答えてくれるかどうか分からない質問を投げかけてみた。一番、理解できない男の存在を、理解できるように誰かに説明してもらいたかったのだ。だが、他の人間には見えない男のことを聞ける相手はいない。
 既に亡くなった美子以外は。

 貴方が一番よく知っているはずなのに……。
 だって、貴方のおかげで私、彼に会えて楽になれたの。
 だから、貴方に感謝しているのに……。
 どうしてそんなことを聞くの?

 うっすらと笑みを浮かべていた美子の表情が困惑したものへと変わる。だが、尚貴は会ったこともなければ、知り合いでもないのだ。しかも、人間ではない存在につきまとわれてどうしていいのか分からないのは尚貴の方だった。

 俺は……知らない。

 俯いてまた賢の方をみる。
 賢はまだ一生懸命なにかを語りかけている。小さな声であるから墓前で話している内容は分からないものの、多分、必死に謝罪しているのだろう。もちろん、彼のしたことは人として責められるべきことだった。だが、既に裕喜が亡くなった今、これ以上の償いをどこに見つけろというのだろうか。
 彼は彼なりに反省している。罪の重さをどれほど理解できているかは定かではないが、許すことも必要なのだ。裕喜の両親の気持ちも尚貴は同じだけの気持ちで知ることはできないが、理解している。関わった同級生に対して死をもって償えと叫んだとしても尚貴はとめることはできないだろう。
 だが、償いが全て死である必要などない。

 じゃあ、聞くといいのよ……

 美子はそう言ってまた微笑んだ。尚貴が見た血まみれで事切れていた姿とは違う、天使のような姿だった。

 何処に行けば会えるのか……俺はそれすら知らないんだ。

 彼は貴方の後ろにいつもいるわ。

 美子の姿はその言葉を最後に空気に溶け込むように消えた。彼女の一言に、引き留める言葉も告げず、尚貴の身体は硬直していた。

 後ろにいつもいる……
 今もいるのだろうか?
 美子には見えたのか?

 心臓が早鐘を打つようにばくばくと鼓動を早めていた。そのまま過剰に血液を送り出して、心臓が破裂しそうな気分だ。背からヒンヤリした風が触れているような気がする。気のせいだ。先程までそんなことはなかった。美子の言葉にただ、過剰反応しているだけだ。尚貴は必死に自分に言い聞かせる。
 だが……。
 振り返ると真後ろにいるのだろうか。
 答えを聞くことができるのだろうか。
 息が浅く、そして早くなる。額には暑くもないのに汗が浮かぶ。なにかの存在が急に背後から迫っているような重苦しい空気が淀んでいるのが分かる。
 美子はいつも後ろにいると言った。
 だから、間違いだ。
 いると言われたから、こんな風に恐れているのだろう。
 大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐き出した。何度かそれを繰り返して、尚貴の気持ちが落ち着きはじめた頃、目の前に揺れる線香の煙が奇妙な動きをしていることに気がついた。
 本来なら空気中で霧散しているはずの白い煙が、細いロープのように立ちのぼっている。風に揺れることなく円を描き、目の前に座っている賢の身体を取り囲んでいるのだ。ぐるぐる、ぐるぐると何重にも巻かれた煙のロープは鼻をつく苦い香りを放っている。
 ここから逃げなければ……。
 本能が、逃げろと尚貴を急かしだした。賢に声をかけようとした瞬間、尚貴を呼ぶ声が響いた。
「無駄だ」
 はっきりとした声色だ。尚貴はその声の主を知っている。いや、今では永遠に聞きたくない声だ。透明で、それでいて響く。高くもなく低くもない独特な声。後ろを振り向くことを躊躇っていた身体が聞き知った声に自然と背後の存在へと身体を向ける。
 青年は林の中に立っていた。墓のある敷地を離れたすぐ後ろだ。
 冬眠しようと準備している木々には青々とした葉はなく、老人の指に似た枝が四方に伸びていて、青年を取り囲むように生えている。足元には沢山の落ち葉が積み重なっていて、じっとりと湿っていた。鳥の姿はなく、冷えた空気だけが周囲に満ちていた。
 時間でも止まっているのか、風がそよとも吹かない。
 ガラスのようなグレーの瞳をこちらに向けている青年は、うっすらと微笑んでいた。真っ黒なコートを深く着込んでいるせいか、青年の白い肌が妙に滲んで見える。黒い髪はこの世に存在するいかなる黒さよりも黒い。闇色と言った方が近いのかもしれない。
「この子も……殺す気か?」
 思わず口をついて出た言葉に賢が反応するかと思ったが、聞こえていないのか立ち上がる様子もなかった。
「殺す?言っただろう。私には殺すことはできないと。魂を解放するだけだよ」
 どこか悲しげな表情で青年は言った。距離があるはずなのに、声だけは側から発せられるように聞こえる。
「どうしてっ!お前のやっていることはただの殺人だっ!誰もこんなことは望んでいないっ!」
「私が心を痛めている少年が望んでいるんだよ。それ以外の人間がどういったことを口にしようと、全てただの同情だ。罪を犯したものたちが例え法律で裁かれようと、そのことで世間からどれほど迫害されようと、心を癒すことはできない。彼らをどうするかという権利は傷を負った当人がだけがもっていて、安らかになるまで続くだろう」
 何の感慨もない口調で青年は言った。
「裕喜くんは……苛めた同級生を殺したいと思っているのか?だからっ!お前が協力しているのか?」
 尚貴が叫ぶように言った言葉に、一瞬青年は考え込むような表情をすると、口を開いた。
「……ああ。そんな名前の少年もいたね」
 違うのか?
 原因は裕喜じゃないのか?
「自殺した裕喜という少年の……復讐を手伝っているわけじゃないのか?」
 じっと青年を見つめて尚貴が問うと、口元だけで笑う。薄くて奇妙なほど赤い唇が目に焼き付く。
「どうなんだよっ!はっきりしろよ!」
 己の怒鳴りが、まるでエコーでもかかったように周囲に響き渡った。
「……もうすぐ、君のところにある男が姿を現すだろう。間に合えば……だが」
 今までなかった風が急に二人の間を駆け抜けた。木々の枝はぴくりとすら揺れず、落ち葉だけがザワザワと青年の足元で踊る。青年の着ているコートは揺れることもなく闇を落としていた。
「……誰だよ……それは」
「鍵を握る男だ。大丈夫。尚貴がどれほどの衝撃を受けようとも……私が側にいる」
 守護者のように語る青年に、尚貴は背筋が凍りそうだった。向ける笑みは暖かいもので、冷たい殺人鬼のものでは決してない。どこまでも慈悲のある、下手をするとその胸元へ駆け寄って行きたくなるほど、まとう闇は優しい。
 一瞬、足が前に出そうになった尚貴は気を取り直して、もう一度深呼吸をした。あの青年は危険なのだ。その存在自体も。自ら駆け寄るようなことをすれば、取り込まれて自我すら失ってしまうに違いない。
「俺は……お前なんて必要ない」
 青年は目を閉じて、小さく顔を左右に振ると、また目を開ける。不思議なほど綺麗な顔立ちは相変わらず笑っていた。
「……また無駄な努力をするんだね。それでも私は……尚貴を愛おしいと思うよ」
 その言葉に、今まで忘れていた賢の存在を思いだし、尚貴は青年に向けていた身体を賢の方へ向ける。そこで見たものを信じられなくて、尚貴の身体は強ばった。
 地面から突き出た無数の手が、怯えて声すら出ずに涙を落としている賢の両脚を掴んでいた。黒い土の中からびっしり生えた手は揺れるたびにザワザワ……ザワザワ……と、音が響く。まるで手がなにかを口にしてボソボソと語り合っているようにも思えた。
 よく見ると能面のように白い手は地面だけではなく、裕喜の墓石からも生えている。いくつかある墓石のあちこちから伸ばされる手は尚貴を無視して賢へと伸びていた。
「……助けて……」
 ようやく口にした賢の声が、尚貴を現実に引き戻した。
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